レポート 7:『表と裏と素』

 生徒会の件を終えて、しばらく。


 時計の針は午後7時半を示し、リビングのソファで寝転がっていれば、食器を並べる音が耳に入る。


「また君は……私の忠告、聞く気あるー?」


 一人暮らし(だと思ったはず)の家で聞こえるのは、自分の保護者を担ってくれている女性の声。


 表の顔は八方美人の学校長。裏の顔はヤンデラー。


 その本性は『春乃瑠璃はるのるり』という血の繋がりのない家族も同然の恩人。



「―――」



 閉じていた瞼を開け、晩御飯の匂いに釣られて体を起こす。

 テーブルに並べられた好物を目に嘆息する。


 学校での対応とプライベートの彼女が違いすぎて、今ではもう慣れている自分に呆れてしまう。


「じゃあ先生も、急に態度豹変しないでくださいよ……気色悪い」


「こ~ら、気色悪いとは何? それが彼女に言うセリフー?」


「センセ、彼女、ちゃう」


「む……」


 途端、彼女は口を尖らせる。

 前屈みになって、その顔が目と鼻の先まで近づいてくる。



 ――近い……。



「二人きりの時は?」


「……瑠璃」


「よろしい」


 名前で呼ばなければ不機嫌になる。

 呼んであげれば、子供のように無邪気に笑う。


 『全くこの人は……素の時の方が、扱いが面倒だとはな』と、また心の内で呆れ返る。


「ふふ」


 満足そうに無邪気な笑顔を見せられ、呆然とする。



 ――いや、逆か。



 本当の姿はまるで子供で、隠す必要がないとさえ思える。

 三つの顔を持つ彼女のうち、素の姿は魅力的で、一周回ってわかりやすい。


 他人の前で自分を偽るところ。

 同じ生き方をしているから、分かり合える。

 似た者同士故に何度も惹かれてしまう。


 だからいつも、平然を装って、誤魔化している。


 ただ彼女とは、似ているだけで同じじゃない。

 同じものなんて存在しない。


 だって彼女は、強い人だから。

 弱さを偽って、見せかけの強さを装った自分とは違う。


 素の自分を露わにしてしまいそうになるほど、彼女には魅力がある。


 ほんと、気が抜けない。



 これじゃあ、まるで――。



「さ、晩御飯にしましょ?」


「はいよ」


 そんな深い思考をよそに席につく。


「今日は鏡夜の好きなグラタンだよ♪」


「ん」


 向かいでは瑠璃が目を細める中、手を合わせる。


「いただきます」


 見慣れた光景を目にグラタンを口へ運ぶ。

 チーズが思いのほか伸びて、少々驚きつつ、舌の上に乗せ、咀嚼する。


「美味しい?」


「うん」


 こんがり焼けたチーズのパリッとした食感と、噛む度に増す香ばしさ。


 中にはとろっとしたクリーミーソースがぷりっぷりのエビとマカロニを包み込み、咀嚼することでソースが舌の上で溶け出し、味の三重層を奏でている。


「ふふ」


 満足そうに食べる自分を見て、瑠璃から艶かしい視線が飛んでくる。

 けれど気にする余裕などなく、ただ夢中でグラタンを平らげていた。


「ごちそうさま」


「はい、お粗末さまでした」


 食器を片づけて、瑠璃から食後の一杯として紅茶が手渡される。


 正直、紅茶は苦手なのだが、瑠璃が淹れてくれたものを嫌いになれるはずもなく、黙って口へと運ぶ。


 甘いのか苦いのか、お湯に砂糖を入れただけのような飲み物に顔を顰める。


 けれど、瑠璃がじっとこちらを笑顔で見つめているため、味覚をシャットアウトしながら味わうように飲み切る。


 やっと一口目を処理したところで、まだカップには紅茶が残っており、憂鬱になっていると瑠璃が失笑していた。


「また、あの時みたいな顔してる」


「どんな顔……?」


 苦笑気味に問うて、紅茶を口に運ぶ。


 『青汁の方が飲めるのではないか』とくだらないことを考えながら口に含めば、瑠璃から意味深な笑みを向けられる。


「何かを抱え込んで、誰かに助けてもらいたいけど、一人で強く生きようと無理をしている、あの頃の顔」


「……っ」


 危うく紅茶を吹き出しそうなほど、酷く鋭い言葉が飛んでくる。


 本当に怖い。

 同類故に、自分の事が誰よりもわかってしまう。

 それはもう、この人には隠し事はできないと言われているようなもので。


「言ってごらん。楽になれるよ」


 奥底に仕舞い込んだ弱さを救い上げられるような感覚。

 いとも容易く他人の心に踏み込んで、救いの手を差し伸べる。


 こんなの、抗えるわけがないだろう。


「……昔のことを思い出してました」


 10年前に別れた『あの子』を思わせる少女と出会った。

 長重美香と『長重美香』は何が違うのかと考えさせられた。


 それはどちらも捨てきれずにいた後悔。

 逃れようもなく、幾度となく思い出が頭を過ぎる。

 その度に胸の奥がどよめき、切ない感情に駆られている。


 そんな今にいる。


「そっか……まぁ、いろいろあったしね」


「はい……」


 過去との邂逅は、必然とあの頃の記憶を呼び覚ます。


 何度も、何度も。

 忘れたくても、忘れられない。


 そんな思い出の断片が、頭の中をちらついている。


「あの頃の君は可愛かったなぁ……もちろん、今も可愛いけど♪」


「何を言っているのやら……」


 黒髪くせっ毛、垂れ目で童顔。

 女子に羨ましがられるほど腕は細いが、力こぶはちゃんとある。


 一見、華奢で細身に見えるが、腹筋も割れている。

 細マッチョではなく、寸胴で非力だが、体力がないわけじゃない。


 こんな撫で肩で中途半端な男を可愛いと言うのは、些か間違いなのではないかと思われる。


「そうやって、本当は嬉しいくせに平然を装うところとか」


 本当に、何を言っているのやら。



 可愛いと言われて喜ぶような男はいな―――いいえ、ここにいます。



 正直、かっこいいと言われるより、可愛いと言われる方が何倍も許容できる。


 自分の容姿がかっこよくないことは誰よりも知っている。

 だからこそ、かっこいいなどと言われても、お世辞にしか聞こえない。


 けれど年上の人から言われる可愛いは、赤ちゃんを見て可愛いと思うのと通り。

 たとえそれがお世辞であっても、瑠璃の言葉に嘘はないため信用できる。


 それでも、それを認めるわけにはいかない。


 自分が男であるからには、可愛がられて嬉しいなどとはしゃぐわけにはいかない。


 愛を知らないから、可愛がられて嬉しいなどと思ってしまう。


 ただそれだけの話だった。


「君は自然と隠し慣れてるみたいだけど、同業者の私には通じないんだから、もはや必死に抵抗しているようにしか見えない。そういうところが可愛いって言ってるの」


 艶めかしい視線を飛ばされ、目を伏せる。

 何でもお見通しという口ぶりと小突かれる頬により、心を揺さぶられる。


「なら、いちいち言葉にしないでくださいよ……恥ずい」


「その照れ顔に癒されたかったのですよ」


 掌の上で転がされている気分。

 でもぐったりと顔を伏せる彼女から、いつものように見逃してしまう。


 こうなった彼女には、何を言っても無駄で。

 だからため息を零して、彼女の肩と膝に手を回して抱き抱える。

 ずしりと彼女の重みと温もりが伝わってくる。


 所謂、お姫様抱っこ状態に瑠璃の頬が地味に赤く染まり、その姿に微笑する。

 そこから彼女の部屋へと移り、優しくベッドに寝かせる。


 まるで介護だ。


「ありがとう、私の騎士ナイト様……」


 眠気に抗えないのか、弱弱しくもそんな言葉を掛けてくる。


 無理もない。

 彼女はこの歳で学校長を担い、そのうえ自分を取り繕って生きている。

 おまけに自分の面倒まで見てくれており、心身共に疲労が溜まっている。


 彼女には感謝しかない。

 こんなにも自分を思ってくれている。


 それが何よりも幸福で、ありがたくて。

 多少の願いは聞いてあげるのが筋というもの。

 そうすることでしか、彼女に恩を返せない。


「おやすみなさい、お嬢様」


 ただ、その願いだけは聞くことができない。

 傍にいて、支えて上げることはできても、その闇を払うことはできない。


 執事の仮面を被れても、勇敢な騎士にはなれない。

 偽り続ける道化でしかあれない。



「―――」



 困ったような苦笑を浮かべて、彼女はそっと瞼を閉じる。

 眠りについたことを確認し、ゆっくりとその場を離れようとする。


「待って」


 途端、か細い声で瑠璃は袖を掴んでくる。


「寂しいよ……」


 暗がりの中、忽然と放たれる彼女の弱さ。

 涙曇った声に動揺しないわけがなかった。


「私を……一人にしないで……」


「……っ」


 初めて聞く彼女の本音は、自分もよく知っている『孤独』だった。


 苛まれる日々に身を置いた、道化故の迷い戸惑い。

 嘘偽りだらけではなく、欺き隠し通すために振舞い続ける。


 そうすることでしか、温和で良好な関係を築けない。

 誰かが不幸になる道よりも、誰もが笑顔でいられる方が幸せだから。


 自己犠牲ではなく、自己満足のために自然と包み隠してしまう。


 自分の醜く汚れた本性を。



「―――」



 彼女も同じモノを持っていたということに親近感が湧く。

 だからこそ歩み寄って、声を掛けたくなる。



 『大丈夫だよ』って――。



「……なんてね」


「ぇ……」


 近づいた途端、そんな呟きが聞こえ、気づいた頃にはもう遅く。

 勢いよく引っ張られて、彼女のベッドへとダイブする。


「君は優しいね……そして、まだまだだね」


 耳元を掠める彼女の吐息。


 目の前で微笑む表情から、あれは全て演技だったのだと知り『本当にまだまだだな』と自分が情けなくなる。


 同時に、今にも触れ合いそうな至近距離に『何をされるかわからない』と、改めて気を引き締める。



「―――」



 そして早速、彼女は手を伸ばし、頭を撫でてくる。

 優しい手触りが心地よく、愛でるような彼女を制止させることを拒ませる。


「私は、君の欲しがっているモノを何だって知ってる。君が望むのなら、何だってしてあげる」


 そんな言葉を掛けられて、嬉しくない男はいないだろう。

 普通なら、本能的に欲してしまうその愛情には抗えない。


 でも、強靭な理性を持ってしまった自分には、通用しない。

 頑丈な決意と覚悟が、あの日から備わっていたから。


 だからまだ、耐えることができた。


「……っ」


 今度は強引にも彼女は額をくっ付けてくる。

 漂うほのかな甘い香りが鼻孔を擽る。


「その代わり、私が受け取る対価はただ一つ……君自身」


 誘惑の魔女。感情の覇者。

 そんな彼女が求めるは悪魔の取引。


「俺は……」


 甘えるような態度を見せそうになる。

 ただそれだけでいいという一言が、この胸を締め付ける。

 できることなら、今ここで彼女を抱きしめたいと、強い衝動に駆られる。


 けれどそれを、自分は誰よりも許してはくれない。


 歯痒くも、悶えることしかできない。


「出逢った時のこと、覚えてる?」


 確かめるような問いに瞼を閉じる。

 あの時と同じセリフを並べていたのだから、気づかないはずがなかった。


「……忘れるわけがない」


 蹲り、思い出すように浸ってしまう。

 あの日、彼女に出逢わなければ、今の自分はいなかった。


 それどころか、確実に死を選んでいた。

 自らの手で、この命に終わりを告げようとしていた。


 彼女に出逢えたことは奇跡に等しい。

 幸運でしかない。


 今を振り返ってみても、本当に幸せな毎日だった。


「君は私を選んでくれたと思っていたのに……ほんと、妬けちゃうなぁ」


 だからこそ思う。


 瑠璃カノジョを裏切りたくはないと。


「俺は……」


 孤独に打ちひしがれる毎日。

 そこにいつでも、瑠璃が寄り添ってくれていた。


 それが嬉しいけれど、苦しい。


 自分の中に居座る『彼女』への想いを裏切ることになるから。


 胸に居座る『彼女』の存在さえなければ、瑠璃に対する思いを全てさらけ出していた。


 ただそれを口にすることが、何よりも難しかった。


「君は私のもの。あの日の誓いが、負い目となって今の君を縛り付けている」


 図星だった。

 否定し難い矛盾が、心の中を渦めいている。



 もうどうしたらいいのかと、悩んで、悩んで――。



「そんな君に、人生の先輩からアドバイスを上げよう」


「……?」


 急な申し出に茫然とする。

 その暖かな眼差しと微笑む姿に自然と目は釘付けになる。


「頑張れ若者よ。今が正念場だ」


 何を言われるかと思えば、意外な助言だった。


「……諦めろ、とは言わないんですね」


 『長重美香』の記憶を取り戻すことをやめさせはしない。

 事情を全て知ったうえで、瑠璃は応援する道を選んでくれている。


 それは彼女にとって敵に塩を送る行為だった。


 本来であれば、好きな人が自分ではない誰かのために動いていれば嫌に決まっている。


 この人は一体、何を考えているのだろう。


「なに? 言って欲しいの?」


「いえ……」


 『真道鏡夜』の秘密を瑠璃は全て知っている。

 瑠璃と出会い、暮らし始めて1年半の時が過ぎた。


 溺愛してくれるのは、幸せすぎて涙が出るほど嬉しい。


 そんな瑠璃が、他の女に現を抜かすことを見逃すというのはあり得ない話。


 逆にそれが、申し訳なくて、その優しさに甘えてしまう。


「本当はしたくないよ……でも、君のためだからね。仕方ないよ」


 嫌々、それでも力を貸してくれる。


 ほんと、彼女は自分に甘すぎる。


「そ・れ・に」


「……っ」


 ふと、嬉しくも複雑な心境を抱いていた自分の口に彼女の指が触れる。

 何事かと瑠璃を見れば、満面の笑みを浮かべていた。


「君を奪うことなんて、造作もないことだしね」


 甘やかしているなんて、生易しいものじゃなかった。

 勝利を確信したうえで、野放しにしている。

 これが強者の余裕なのかと、唖然とする。


「君はもう、私の虜なのだよ」


 どこから来るであろう自信はあながち、間違いでもなく。

 それを認めることは簡単で、否定しようもない事実だった。


「そう、かもしれませんね……」


 何の柵もなく、自分に枷をはめていなかったら、彼女にぞっこんだっただろう。

 今以上に惚れ込んで、どうしようもなく愛しくて、幸せに違いなかった。


 その現実を前にして、手が届く距離にいて、苦笑いして遠ざかる。


 落とし前もつけず、決着もつけないで、この先の未来を胸張って生きられるほど、自分は甘くはないのだから。


「ねぇ……」


 暗がりの中、彼女がそっと微笑んでくる。


「今夜は、一緒にいたいな」


 とんだ口説き文句に一瞬、思考が停止する。


 驚きが生じたわけではなく、ただいつもの彼女に笑みが零れ、自然と理性を取り戻していた。


「ダメ?」


「ダメ」


 甘えるように見つめられても、不満げに頬を膨らませても、やっぱりそれだけは聞けない。


 『彼女』の記憶を取り戻すまでは、自分に誰かと結ばれ、幸せになる権利はない。

 その資格が得られるのだとしたら、全てが丸く収まってから。


 そう『あの時』から決めていた。


「添い寝は?」


 けれど瑠璃は言葉を変えて、より具体的な要望を求めてくる。


 ほんと、諦めの悪いことこの上ない。


「……ちょっとだけですよ」


「やったー♪」


 彼女には背中を押してもらいっぱなしで、自分がしてやれることはこのくらいしかない。


 彼女が癒されるなら、彼女の孤独を少しでも和らげられるなら、従おうと思う。


 押しに弱いなと、自覚はあります。


「瑠璃が寝るまでの間だけだぞ」


「うん!」


 今日一、明るい笑顔を見せる瑠璃に苦笑する。

 何気に頭を胸元へと摺り寄せてきて、手は自然と恋人繋ぎになる。


 それを許してしまうあたり、今日の自分は甘々だなと、人のことを言えない現状に心の中で嘆息した。


「ふふ」


「……?」


 何がおかしいのか、彼女は途端に笑い出す。


「なんか変なの」


「何が?」


「添い寝はありなんだな~っと思って」


「それは……」


 自分でも思った疑問。

 そこに基準があるかと言えば、恋人以上の行為は禁止であるということ。


 これは誰が決めたわけでもなく、自分の意思表示でしかない。

 長重を見捨てて、一人幸せに生きようなどとは思えないから。


 具体的にはと聞かれれば、やはり答えあぐねる。


 そのしんみりとした口調にどう返そうかと若干の迷いが生じていれば、その一瞬の隙を見逃さないというように瑠璃が覆い被さってきていた。


「私が襲うことは考えなかったの?」



「―――」



 油断大敵とはよく言ったもの。

 『少し気を許せばすぐこれだ』と、何度も苦笑する。


 けれどおかげで、らしくない自分から我に返ることができる。


 だからそんなお礼を込めて、その無防備な額にデコピンをかましてやる。


いてっ」


「そんなことをしたら、瑠璃とはもう口きかないから」


「それは困るっ」


 額を抑えながら、瑠璃は食い気味に答える。


 いつまでも上に乗られたままでは困るため、瑠璃の後頭部に右手を回し、左手を腰に回して抱き寄せる。


 その後、頭を胸に押し付けて、横に寝かしつける。


「じゃあ大人しく、俺の胸で寝てろ」


 全く、自分を人質にしないと、自分を守れないとは難儀な話である。



「―――」



「ん……?」


 急に黙り込み、うずくまる瑠璃に違和感を覚える。

 そこには、顔を真っ赤に上気させ、動揺を露わにする瑠璃がいた。


「今のセリフ……」


 端的な言葉。

 それだけで、豹変した彼女の態度に納得がいく。


 今までからかわれてばかりで、ずっと受け身に徹していた。

 その関係が心地良いというのもあるが、もう一つそうすべき理由があったから。


 ただ今は、それを利用してやろうと思った。


「瑠璃」


「なに……?」


「愛してる」


 一世一代の告白。

 それをさらりやって見せたのは、そこには大きな穴があるから。



「わ、わたしも――」



 それをしてこなかったのは、彼女を本気にさせてしまうから。


 攻めに強いが受けに弱い。


 瑠璃は本当に『真道鏡夜』に恋焦がれているのだと、そう思わされる。


 乙女チックな彼女も素敵なのだが、向けられた好意が自分である事だけは、たとえどんなに嬉しくても許容できなかった。


 だからこそ、その先を言わせるわけにはいかない。


「家族として」


「~~っ」


 最後、勘違いの無いように訂正の意味を込めて、付け加えた一言。

 そこに彼女は案の定、悶えるように口籠る。


「瑠璃?」


「もう……名前で呼ぶの禁止っ……」


 口元に指でバツ印をつくり、瑠璃は恥ずかしがる素振りを見せる。

 そんな彼女が魅力的で、からかわずにはいられなくなる。


「そっか~。瑠璃はもう瑠璃って呼んでほしくないのか~」


「……やっぱり時々でいいのでお願いします」


 ただこれ以上からかうのも可哀想なため、やめてあげることにする。


「了解」


 素直な彼女は扱いやすい。



 ――でも、



 そんな行為に勤しめば、彼女にどんどんのめり込んでしまう。

 魅力的というのも考え物で、執着しそうになる。


 だから、夢のような空間から抜け出す。

 起き上がって地に足を付ける。


「もう行くの?」


 重たい腰を上げて聞こえるのは、背後にいる天使からの悪魔の囁き。

 振り返ることすら、この場では拒んでしまう。


「だって、これ以上は、ほんと……後戻りできなくなるから」


 家事ができて、優しくて、甘々で、太陽のような包容力。


 執着することこそ玉に瑕だが、その無償の愛に溺れそうになるほど、彼女は魅力的すぎる。


 だから尚更、そんな彼女に今の自分は相応しくないと、そう思う。


「私は遊びか~……」


「人聞きの悪い……」


「だって……」


 言い淀み、瑠璃は不満げな反応を示す。

 不貞腐れる姿も愛らしく思えるが、こればっかりは仕方がない。

 自分の中ではもう、曲げることのできない理由が成り立っているのだから。


「家族に手は出せないでしょ」


「そう、だね……」


 凄く、在り来たりな言い訳。

 それはもっともな事実であって、真意じゃない。

 けれどそれを、彼女はわかってくれてはいるみたいで。


「おやすみ」


「おやすみ」


 ドアノブに手を掛け、自室へと出る寸前に交わした言葉。


 そこにはちょっぴりの複雑さと気まずさがあり、彼女との関係に拗れが生じていることは明らかで。


 その原因が自分にあるということは確固たる事実。

 互いに理解しているからこそ、口にはしなかった。


 ただ敢えてそれを言うならば、自分が未練がましい男だということ。


 自分の犯した罪と向き合い、償うため。

 決着のついていない恋に終止符を打つため。


 そんな過去に囚われた自分への、逃げることも前へ進むことも許されない、停滞した今を抜け出すための戒め。


 自分に納得したいがための、勝手な理由。


 高々それだけの事だった。


 そんな思いが、黙ったまま扉を開けて立ち去ることを躊躇させていた。


「ねぇ、先生……」


 いつか来る終わりの時。

 この微笑ましい日常を失うのが怖い。



 だから、できることなら――。



「もし……」


 全てにけりを付けられたら。


 敵わず終わったのだとしても。


 このままずっと、一緒に……。


「もし、俺が……」


 同じ孤独を知る者だから。

 ずっと傍にいてくれた瑠璃のことも裏切りたくない。

 できることなら、ずっと傍にいたい。


 それを伝えたかった。


「言わなくていい」


 なのに瑠璃は、その先を言わせまいと、言葉を遮っていた。

 振り向けば、どこか悲しげに、寂しそうに俯いて、苦笑している瑠璃がいた。


「わかってるから。私の初恋は叶わないって、わかってるから……」


 困ったように眉を寄せ、はにかむ。

 それは誰が見ても作り笑いだとわかる、苦し紛れの笑顔だった。



 ――どうして、そんな……。



 突き放すような痛い言葉。

 胸をえぐるような苦しい想い。



 ――でも、



 彼女の方が余程辛いことなのだと、思い知らされる。


 好きな人が、別の誰かのために一心不乱になる。


 それを出会ったあの日から、決意していたのだとしたら。


 たとえ望みのない恋でも、いつか終わる夢だとしても、最初からその人の幸せを願っていたことになる。


 まるで、自分の未来を指し示しているかのように彼女は自から離れられるように突き放してくれていた。背中を押してくれていた。



 ――ごめんね……ごめんね……。



 ただひたすらに謝罪の念を抱くことしかできない。

 傍で支え続けてくれる彼女に自分は何も返すことができない。


 凄く、歯痒い。


 悔しくて、自分の無力さを痛感する。



「―――」



 優しげに微笑む瑠璃の顔。

 あくまで気にしなくていいと、無理をしてでもそう言い張りたいよう。


 そうしなければ、互いにこの関係に依存して離れられなくなるから。


 だからもう、言葉を交わすべきではないと、しんみりとした空気に背を向けて、扉を開く。


「……ねぇ、鏡夜。一つ、我が儘を言わせて?」


 部屋へ後にしようとする寸前、彼女は許しを請う。

 表情が覗えないけれど、大切なことであるのだと察せられる。


「私は君の選択に反対するつもりはないけど、それに従うつもりもないよ」


 肯定するわけでも、否定するわけでもない。

 瑠璃は瑠璃でいつも通り、自分を貫き通す。


 そう言いたいのだろう。


「この先に何が待っていようと、私は君を愛し続けるよ」


「……っ!」


 思いもよらぬ言葉に息を呑み、振り返る。


「だから、安心して?」


 そう微笑む彼女に対し、返す言葉もなく、逃げるように立ち去る。

 ゆっくりドアを閉め、扉に背中を預けて一人、頭を抱える。


「ずるいなぁ……」


 嬉しく頬は緩むのに、胸は酷く痛んでいる。


 別れを告げられるのだとばかり思っていた。


 けれど彼女は、人の恋路を応援しながら、自分の恋路も諦めようとしなかった。


 どちらも大切なモノだから。


 それをわかっているから。


 まるで、自分自身を見ているかのような選択だった。


「もっと好きになっちゃうじゃないか……」


 家族としての『好き』なのに振舞う素振りが魅力的すぎて、鋼の意思が脆く剥がれそうになる。

 一人の女性として見てしまいそうになる。

 本当に離れられなくなってしまいそうになる。


 同じ穴の狢。

 唯一無二の理解者。



 だからこそ、惹かれ合うのかもしれない――。


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