十一章 4


 わッと、ワレスを包む歓声が、部下たちからあがる。


「あった! ほんとにあった!」

「スゴイ。この人は本物だ。ほんとに見えるんだ!」


 国内では化け物あつかいされかねない力でも、砦ではカリスマになる。


 琥珀こはくと黄金の層が二重になった玉を、ハシェドがひろいあげる。そして、ワレスにかかげた。


「隊長。どうぞ」


 その瞬間、琥珀色の波が、二人のあいだに押しよせてきた。

 甘い陶酔にも似た不思議な感覚。

 あらがうことのできない圧倒的な波が、ワレスたちをさらっていった。



 がたつくドアがあいて、男が室内に入ってくる。

 ワレスの髪を褐色に染めたような男。


「寝てるのか。クソガキめ」


 もつれた足どりで粗末な椅子にすわる。手にした酒びんをテーブルに置いた。


 瞳は氷の刃のような光をはなつ、一種独特な青。だが、その目は濁っている。


 めずらしい。

 あの悪魔がこんなに泥酔するなんて。


 何杯も冷酒をあおったあと、とつぜん、悪魔は泣きだした。


「ジュリオ……ジュリオ……帰ってこい……」


 暗く静かな室内に、悪魔の嗚咽おえてだけが響く。


 ワレサは寝てるわけじゃなかった。変に意識が冴えて、眠りたくても寝られない。

 さっきまで、あんなに重かった体も、どこにこんな力が残っていたのかと思うほど、かるく感じられた。


 何かの糸が切れた。

 今なら、なんだってできる。

 夢を見ているときのような。


 それとも、レディーが死んだとき、ワレサの心もいっしょに死んでしまったのだろうか。

 ベッドに寝かせたレディーは眠っているようだ。

 朝になれば、ふたたび、その目をあけて、ワレサに笑いかけてくるような気さえする。


(レディー……)


 君はもう寒くないね。

 おなかがへって苦しんだりしないね。

 君は今、幸せ?

 ぼくの妹で、幸せだった?


 悪魔は眠ってしまっていた。こっちに背をむけて、テーブルにつっぷしている。

 母が死んでから、酒におぼれ、暴力をふるい、子どもをかえりみなくなった父……。


 ワレサはをにぎりしめた。母が死んでから、誰も使わなくなったナイフを。


 とくに感情が高ぶりもしなかった。

 力もいらなかった。

 ただ、にぎりしめたナイフに全身の重さをかけ、父の背中にぶつかっただけ。

 それだけのことで、あっけなく、悪魔は死んでしまった。


「……父さん?」


 声をかけても動かない。


「父さん。もう起きないの? 痛くないの? ねえ」


 ワレサの声がしわがれているのは、飢えているからだ。

 のどもカラカラ。

 決して、罪の意識からではない。


「そう。死んだんだね……」


 どうして、もっと早く、こうしなかったんだろう?

 レディーが死んでしまう前に。

 フュールが売られていく前に。

 ルウが馬車にハネられる前に。


 怖かったから? 失敗したら、なぐられる。

 それとも、愛してたから?

 今はヤケになってるけど、いつかは、もとの父さんに戻ってくれるって信じてたの?


 わからない。

 わかってるのは、もう何もかも遅いということ。

 みんな、いなくなってしまった。


(ぼくは、一人……)


 何もない。

 ワレサを縛るものは、何もない。

 孤独と解放感が交互におしよせる。

 幾重にもかさなる波のように……。


 急激に琥珀色の波がひいていく。


 その波の向こうに、青年が立っている。

 褐色の肌。はしばみ色の瞳。

 異国の王子のような顔に、物悲しい表情をうかべて。

 その目に涙がもりあがってくる。


「ハシェド……」


 ワレスはもう、飢えて凍えた七歳の少年ではない。金糸の房飾りのマントをひるがえす、砦の小隊長だ。


「……見たのか?」


 ハシェドの手はふるえていた。占い玉をとりおとし、あわてて、ひろう。

 ワレスに差しだすとき、顔をそむけた。


「見たんだな。あれを」


 ワレスが、自分の父を殺すところを。


 これまで誰にも、そのことだけは告げたことがなかった。

 人殺しという、ワレスと同じ罪を背負った、マルゴにも、シルディードにも。

 ワレスの罪のすべてをゆるすと言った、ミスティルにも。


 あるいは、ルーシサスは気づいていたかもしれない。

 が、ワレスの口からは告白しなかった。


 あまりにも幼くして犯した、ワレスの最初の罪。


 あのあと生きていくために、何人も殺した。

 ゆるされないことだということはわかっている。

 でも、ほかにどうしようがあった?

 おれは生きることに必死だった。

 誰も守ってくれないなら、自分で自分を守るよりほかにないじゃないか?


 今さら、過去は変えられない。どんなに汚れていても、背負って生きていくしかない。

 これが、ワレスの歩いてきた道なのだから。


「泣くな。ハシェド」


 だが、砦へ帰るあいだ、ずっと、その泣き声は続いた。

 涙をこぼすハシェドを、ワレスは苦い思いでながめた。

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