三章 2
すると、アーノルドが声をかけてきた。
「小隊長。おケガなさっています。せめて、泥をぬぐわれませんと。破傷風にでもなれば大変です」
「ああ」
土のなかにひっぱりこまれたときに、傷つけたようだ。鎧と革靴のあいだのむきだしの肌に、いくつもケガをしている。それほど深い傷じゃない。が、血は出ている。たしかに泥まみれでもある。
「そうだな」
ワレスは革靴をぬいで、足首のぐあいを見た。触手にしめつけられていたあたりは、紫色になって
痛むのを我慢して、ギュッとにぎりしめた。骨折はしていない。
しかし、頑丈な革靴をはいてなければ、ワレスの足はチーズみたいに、かるがる、つぶされていたかもしれない。
「まったく。よく助かったな。おれはこういう悪運だけは強い」
命の危険に関することだけは強運だ。それはずっと前から感じていた。
「もっと早くに助けにいきたかったのですが、体が動きませんでした。申しわけありません」と、アーノルドが頭をさげる。
「あの場合、しかたないさ。誰だって」
「その足は今すぐ洗われたほうがいいですよ」
「ここから南に泉があるが……まあいい。これ以上、危険は犯したくない。砦まで辛抱しよう」
「では、せめて、これを使ってください」
アーノルドは自分の水筒をさしだしてきた。
「……ありがとう」
傭兵には外国人が多いが、アーノルドはユイラ人だ。だから、姿形はまるで違う。なのに、ハシェドに似てると思うのは、この性格のせいだろうか。なかなか細かいことに気のつく男だ。
(似た男をベッドにつれこむのも一つの手か。それで万一、ハシェドを忘れられたら、万々歳だ)
今さらながら、自分の呪われた運命が恨めしい。ほんとに好きな相手にはふれられない。かわりに似た男をベッドに呼ぶ算段をしている。
まといつく闇から逃れられない、夜の世界の住人だから。
アーノルドのほうは、まさか、ワレスがそんな倒錯的思考にふけってるなんて、思いもよらないだろうが。
ワレスが水筒の水を大切に使って、傷口を洗っていると、ハシェドがやってきた。
「隊長。切りおえました。これをどうしますか?」
「ハシェドとアーノルドに、みんなの倍。あとは全員で等分にわける。それぞれ、中隊長への申告をおこたらぬように」
砦に持ちこむものは、中隊長の検閲を受けるのだ。品目と所持者を記しておけば、後日、何かあったとき、すぐに調べがつく。
その後は何事もなかった。
ワレスたちは無事、砦に生還した。
帰ると、さっそく、ハシェドが言ってきた。
「ワレス隊長。早く手当てされませんと」
「ああ。アブセス。馬を返しておいてくれ。ハシェドは七度焼きを、おれのぶんも申告しといてくれるか?」
ハシェドは心配そうだ。
「かまいませんが、一人で歩けますか?」
「クルウにでも肩をかりる」
このとき、たまたま、そばにいたのが同室の部下たちだった。
「では、私も分隊長に申告をお願いしてもよろしいでしょうか?」と、クルウ。
「かまわないだろ? ハシェド」
ワレスが役目を押しつけると、ハシェドの顔に、また一瞬、あの表情が浮かんだ。
遊びの輪から、一人だけのけものにされた子どものような表情が。
「かまいません。二つでも三つでも、同じですから」
なんだか今日は、やけにハシェドの態度にドキドキする。動悸が激しく、熱っぽいようだ。
こんな気持ちを悟られては困る。
ワレスはクルウの肩につかまり、早々に、ハシェドの前から逃げだした。
広い前庭をよぎり、まわりに、ひとけがなくなる。
とつぜん、クルウが言った。
「ワレス小隊長。なぜ、分隊長をさけるのですか?」
ドキリとした。
なんで、そんなことがわかったんだろう?
「……なんのことだ? 別にさけてなんかない」
「そうですか?」
そう言うクルウの表情には、なんとなく、ワレスをうかがうようなズルイものが感じられた。
黒髪を腰まで伸ばしたクルウ。長髪をうしろでしばり、なんだか古い絵画の騎士のようだ。
クルウにはどこか育ちのよさそうなふんいきがあって、こんな砦でくすぶってる人物には見えない。
とてもユイラ人らしい美男子のクルウを、ワレスはたったいままで、温厚で穏やかだと思っていた。
だが、そうじゃなかったのか?
今の表情には、クルウの本性がかいまみえたような気がする。
(こいつ。案外、ひとくせあるな)
逆に、ワレスはたずねてみた。
「なぜ、そんなことを聞く?」
クルウは気位の高い人間がよくするような、人を見くだした笑みをうかべた。
「いえ、思い違いならいいのです。ただ、分隊長がそうせざるを得ないお気持ちはわかります。あなたのほうが位も上ですし。ですが、あなたまで、ご自身の気持ちを偽っておられるように映ったので」
ハシェドも——?
(ハシェドも、おれを……?)
何度、夢に見ただろう。
ハシェドがワレスを愛している。ワレスが彼を欲するように、ハシェドもまた、ワレスを欲している。
そうあってほしい。
けれど、そうあってはならない。
(おれは、もうダメだ。もう一度、試す気にはなれない。もし、さっき魔物に襲われたのが、おれでなく、ハシェドだったら。そして、もし、さっき、ハシェドが……)
ハシェドが死んでしまっていたら……?
考えて、ワレスはゾッとした。体の芯まで凍ったように寒い。
もうイヤだ。そんなところは見たくない。
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