二章
二章 1
「はい。出て、出て。小隊長が湯浴みなさるんだからね。見たくても、ガマン、ガマン」
東の内塔のワレスたちの部屋。
湯を運んできたエミールが、同室のアブセスやクルウを室内から追いたてる。
ワレスが第五分隊長だったころは、三段ベッドがならんだ十人部屋だった。今は別の部屋に移り、少しはマシになっている。
円卓と椅子のセット。戸棚と衣装ダンス。冬のあいだだけ出しておく簡易ストーブ。ベッドは二段のものが二つ。ワレスには別に一人用だ。
ここを、ハシェド、アブセス、クルウの三人と共同で使っている。
もとの第五分隊を、そのまま第一分隊に持ってきて、身のまわりを気に入りの部下でかためたわけだ。
ほんとは部屋を移るとき、五階にはワレスの一人部屋を作るゆとりがあった。共同部屋にしたのは、もちろん、少しでもハシェドといる時間がほしかったからだ。
ハシェドと二人きりでは怪しまれるし、自分の理性に自信がなかったので、おとなしそうなユイラ人の二人をオマケでつれてきた。
「おれはかまわない。廊下は寒いだろう。なかへ入れてやれ」
ワレスは言うが、エミールは聞かない。
「ダメっ。出て。出て」
可愛いエミールに言われては、誰も文句を言えない。クルウとアブセスは苦笑しながら出ていった。ハシェドも例外ではない。
「あとで残り湯でいいので、使わせていただけますか? そろそろ井戸の水は冷たくて——」
まだ言いかけてるところを、エミールに背中を押されていく。
しかたないので、ワレスは早めに湯を使ってしまうことにした。
湯浴みと言ったって、食堂は忙しい。エミールが一人で大量の湯を運べるわけでもない。大きめのたらいに一杯だけ。その湯で布をぬらして体をふくのだ。
夏場はワレスも井戸の水を頭からかぶっていたが、ハシェドの言うとおり、それはつらくなってきた。
部屋のストーブでわかせる湯の量はたかが知れてる。こういうとき、厨房に知りあいがいると便利がいい。少しの駄賃で湯をわかしてもらえる。
辺境の砦には、兵士のための入浴場など、むろんのことない。
「ねえ、背中、ふいてあげるよ」
「いや、それより着替えを出してくれ」
「どれ着るの?」
「どれでも」
「どれでもったって、あんた、衣装持ちだからねえ」
エミールはワレスのタンスをあけて、ゴソゴソしている。
以前は服も何もカバン一つに詰めて、ベッドの下にころがしていた。部屋が変わってから、服がシワにならなくて助かる。
なにしろ、ワレスはなみの隊長の三倍は服を持っている。ジゴロをしていたころの名残である。
「あっ。また増えてる」
「長袖が少なかったからな。砦の冬がこんなに寒いとは思わなかった」
ワレスは全裸になって、体をふきはじめる。
「寒いなら、毎晩、あっために来てあげるよ」
「そうだな。もっと寒くなれば考えてもいい。暖房がわりになるかもしれない」
「暖房がわりだって。失礼だなあ」
ぶうぶう言っていたエミールが、急に変な声をあげる。
「あれ、この服、シミになってる」
着替え一つ出すのに、いやに時間がかかると思えば、エミールは戸棚のなかを、あちこちのぞいていた。
「何を物色してる。油断のならないヤツだな」
「ええ、だって、この服」
エミールのひっぱりだした服を見て、ワレスは顔をしかめた。胸のあたりに黒いシミができている。
「それは……おまえの父の血だ。おれが中隊長を切ったときに、着ていた服だ」
返り血はさほどじゃなかったが、剣や手についた血を無意識にぬぐっていたらしい。服のあちこちにシミができている。一度はすてようと思ったのだが、自分への戒めに置いておこうと思いなおした。
「この服、おくれよ」
胸元に抱きしめて、エミールは言う。
砦に父をさがしにきて、見つかったと思えば、親子の名乗りをあげないうちに、その父は死んでしまった。
エミールが父からもらったのは、コリガン中隊長が肌身離さず持っていた母の似顔絵と、死にぎわのせいいっぱいの愛情だけ。
うしろめたくなって、ワレスは背をむけた。
「そんなものでよければ、持っていくがいい」
言ったとたん、
「ほんと? じゃあ、おれ、これももらっちゃおうかな。これと、コレも欲しい!」
はずんだ声がしたので、ワレスはあわてた。ふりかえると、エミールはちゃっかり、両手に服をにぎってる。
ワレスは最初あきれ、次いでおかしくなった。笑い声をあげる。
「おまえってヤツは……まあいい。持ってけ」
「やったー! あんたの服って、質がいいから長持ちするんだよね。また、いらないのがあったら、おれにちょうだい」
「待った。その革の上着は置いていけ。この前、買ったばかりだ」
「ええッ。くれるって言った! 言ったのに」
「おれはおまえが悲嘆にくれてると思ったから、ゆるしたんだ。第一、おまえにそれは大きいだろ? かわりにこっちの古い上着をやるから」
「ちぇっ。いいよ。古いのでカンベンしてあげる。だってさ。いつまで沈んでたって、死んだ人は帰ってこないし。それに、ほとんど会ったことない人だから、あんまり実感わかなくて。おれ、父さんが誰かわかっただけで充分だよ」
強がりを言っている。
ごまかすように、エミールが、
「あんたの父さんはどんな人?」
たずねてきたので、ワレスは背筋が凍りついた。
「…………」
「ねえ、隊長?」
いそいそともらった服をたたんでいたエミールが、ふりかえり、ハッと息をのむ。
おそらく、ワレスは言葉では言いあらわせないほど、冷酷な表情をしていただろう。
あわてて、エミールはまた背中をむけ、話をそらした。
「それにしてもさ! あんた、思いきったことしたよね。いくら怪しいと思ったからって、中隊長だよ? ふつう、いきなり切れないよね。勘違いだったらどうしてたの?」
それについては、あとから城主のコーマ伯爵にも、さんざん言われた。
(あのとき、たしかに見えた)
中隊長の皮をかぶった悪魔の姿が。
ちょうど魔物のことを考えているとき、とうの中隊長が来たので、見えたような気がしただけじゃないかと、今では自分でもヒヤヒヤする。
だが、あの瞬間は、たしかに見えたと思ったのだ。
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