数学好きがn人集まると任意の話を始める

黄黒真直

第1話 好きな数はなんですか?

数学デー、というものがあるらしい。


毎週都内某所で開催されているイベントで、数学が好きな人やそうでない人が集まる大人の部室のようなものらしい。


大人の、と言うのは嘘かな。ツイッターを見ると、私みたいな高校生や中学生も来ているみたい。


一人で行くにはちょっと怖いけど、行ってみたい。

もしかしたら、そこでなら私にも、友達ができるかもしれない。


*****


放課後、一度家に帰って、着替えてから来た。制服で行っていいのか分からなかったし、学校帰りの寄り道は禁止されている。


オフィス街にある灰色のビルの一室が、数学デーの会場だった。十七時から二十二時までやっている。今は十八時だから、とっくに始まっている時間だ。途中参加でもいいんだよね……?


エレベーターから降りた目の前には、曇りガラスの扉が一枚。そこに「数学デー開催中。御用の方はインターホンを押してください」と張り紙がしてある。


指示通りにインターホンを鳴らすと、何秒かして、扉が開いた。


「ようこそ、いらっしゃいませ」


出てきたのは、髪の長い男性だった。男性だよね。腰くらいまで髪が伸びている。


「あの、初めて来たんですけど……」

「ああ、ありがとうございます」


男性にしては高い声。爽やかだけど、不思議な人だな。


「わたくし、受付の弓田ゆみたと言います。まずは、こちらにご記名をお願いします」


言われるがままに、小さい棚の上に置かれた紙に記入した。日付と時間と、名前。

他の人の名前を見ると、明らかに本名じゃない人が何人かいる。

私は、念のため本名を書いた。


「それで、参加費を頂いているんですが、一般千円、学生五百円、高校生以下無料となっております」

「あ、私、高校生なんですけど」

「学生証はありますか?」


お財布に入れておいた紙の学生証を見せた。弓田さんは頷きながら「ありがとうございます」と言った。


「初参加の方ですか?」


弓田さんのすぐ後ろに、もう一人男性が増えていた。いつの間にいたんだろう。


「初めまして、主催の鬼頭といいます」


名刺を渡された。「数学デー主催 鬼頭」と書いてある。


「どうぞこちらへ」


鬼頭さんに促されて、部屋の奥へ入った。


ここは、大きな部屋をホワイトボードで二つに分けていた。手前側にはソファがあるけど、いまは弓田さんが座っているだけ。

ホワイトボードの向こうから、人の話し声がしている。


大きな机の周りに、五人くらいの人が座っている。あ、女の子も一人いる。よかった。


蜂坂はちさかさん、初参加の方です」


鬼頭さんが私を紹介した。蜂坂さんは面長のひげの男性だった。「あ、どうもどうも」と笑顔で挨拶した。椅子をすすめてくれたので、座る。机には大きな紙が広げてあった。


「えーと、今は好きな数について話しています」

「好きな数?」


蜂坂さんが、女の子を手で示した。


「あちらの方のお名前が、一二三ひふみさんというんですよ」

「初めまして」


一二三さんが頭を下げた。私と同じくらいの年に見える。


「好きな数は123です」

「一二三だからですか?」

「はい」


机を囲む人たちが、んふふと苦笑した。


「それで気付いたんですけど、今ここにいる全員、名前に数が入ってるんですね」

「はぁ」


蜂坂さんは机の上の紙を指差した。

待って、よく見たら紙じゃない。なにこれ。ホワイトボードみたいに、ペンで書いたり消したりできるシートだ。すごい。


蜂坂さんは、シートに書かれた名前を私に見せた。


「私の名前が坂ですし、鬼頭さんはキさんだし、弓田さんもユタだし」


シートには全員の名前が書いてあるみたいだった。一二三、川、田……。なるほどなるほど。漢字の違いを無視すれば、確かに全員、名前に数が入っている。


「やっぱり皆さん、数が好きなんですか?」


私はちょっと嬉しくなって質問した。蜂坂さんは他の人達に目線を送る。


「いやぁ、好きかっていうと……」

「ま好きな人もいますけどね」


ぼさぼさっとした髪の男性が答えた。

ふうん、そんなものなのか。


「ところであなたのお名前は?」


当然の流れで、蜂坂さんが聞いてきた。

でも、なんかこの流れで言いたくないな。


だって……。


「私は、飯野いいのあいです」


私の名前には、数が含まれていない。


「あー……んー……」


残念な空気になった。


せっかく楽しい気分になったのに、いきなり疎外感を覚えた。


ここでも私は受け入れられないのかな……。


「アイじゃん」


え、なんて?

言ったのは鬼頭さんだった。


「名前に数、あるよ。アイ」


何を言っているのかわからない。


でも次の瞬間、蜂坂さんが叫んだ。


「あー、そうじゃん! アイがあるじゃん!」

「ほんとだ、虚数だ!」

「虚数って数じゃん!」


え? え?


あ、そうか。虚数単位iのことを言っているんだ!

虚数単位iは、二乗して-1になる


髪がぼさってる人が言った。

「あ、しかも飯野って言いました? それって、eのi乗なんじゃないですか?」


蜂坂さんがまた叫ぶ。

「あー、本当だ! 飯野愛、eのi乗じゃん! めっちゃ数じゃん!」

めっちゃ数とか言われてしまった。


「え、でも、i乗ってなんですか?」


私は素朴に聞いた。2乗や3乗ならわかるけど、i乗なんて聞いたことない。


私が聞くと、また空気が死んでしまった。


「アイジョウか……」と蜂坂さん。

「なんでしょうね、アイジョウって……」と一二三さん。

「わからない……俺達はアイジョウを知らずに生きてきた……」と鬼頭さん。


あ、これ別に空気死んでない。こういうボケだ。


空気に耐えられなかったのか、一二三さんが真剣な声で言った。


「冗談抜きで、私、i乗がどうなるのかわかりません。eのi乗ってどうなるんですか?」


鬼頭さんが腰に手を当てる。


「eのiπ乗ならわかりますけど、eのi乗はわかりませんね」


「いや簡単にわかりますよ」


そういってペンを取ったのは、頭ぼさってる人だった。


「オイラーの公式からすぐわかります」


オイラーの公式? あ、なんか名前は聞いたことある。

頭ぼさってる人が、その公式をシートに書いた。


e^(iθ)=cosθ+isinθ


「e^(iθ)」と書いて「eのiθ乗」と読むらしい。


「あそっか、これでθを1ラジアンにすればいいんだ」

蜂坂さんが続きの式を書いた。


e^i=cos1+isin1


「いや待って、コサイン1っていくつですか」

鬼頭さんがシートを指差す。頭ぼさってる人がペンを回しながら、

「60°よりちょっと小さい角度ですから、2分のルート3よりちょっと大きい値ですね」

「いやそうだけどそうじゃなくて。もうちょっと具体的にこう……」


一二三さんが電卓で計算した。


cos1=0.54030230586…


「いや、そうなんですけど、うーん……」


「わかった、じゃあ図示しよう」

蜂坂さんがペンを取った。

「複素平面に描けばいいんですよ」

「そうそう、そういうやつが見たかったんですよ」

鬼頭さんもペンを取る。


座標軸が描かれた。横軸が実数で縦軸が虚数だ。


「あれ、でも結局コサイン1とサイン1の値がわからなきゃ描けなくない?」

「そんなことない。元はオイラーの公式なんだから単位円周上に描けるはず」

「そっかそっかそっか、実軸から1ラジアンだけ進んだ点になるんだ。1ラジアンってどのくらいだっけ?」

「半径と弧の長さが一致するときの中心角ですね。いまの場合は、半径と弧がともに1の扇形の中心角です」

「ん? ってことは……」


すらすらと扇形が描かれる。

半径が……つまり真っ直ぐの部分の長さが1で、丸い部分の長さも1の扇形。

扇形の中心の座標は0。右側の頂点の座標は1。

そして、残ったひとつの点の座標。それが。


「これが、eのi乗です」


蜂坂さんが、ペンでぐりぐりとそこを塗りつぶした。


綺麗な数だと思った。

半径の長さと弧の長さが全部1の扇形。その一つの頂点の座標が、eのi乗。

しかもそれが、私の名前なのだ。

綺麗だ。


「いやー、めっちゃ良い数だな、eのi乗!」

蜂坂さんは興奮していた。

「すごい綺麗な図に出てくるじゃん、eのi乗!」

「この点の座標ってeのi乗だったんだな。言われてみれば当たり前だけど、全然気付かなかった」

「これからは『好きな数は?』って聞かれたら、eのi乗って答えよう」

「一発で気に入りました、これ」


皆が口々に褒め称えている。なんだかこそばゆい。


蜂坂さんが私を見て、にこりと笑った。


「あなた素晴らしい名前ですね。本当にいい名前です」

「eだけに」

「そう、eだけに」

わはは、とみんな笑った。私も笑った。人と話してて笑うなんて、久しぶりだった。


自分の名前を褒められるのが、こんなに嬉しいことだとは知らなかった。

たとえそれが、マニアックな形だったとしても。

なんだか、私の存在をありのまま受け入れてもらえたような気分になる。


きっとここの人たちは、誰も私を「数学が好きな変な女」なんて思わない。

ここでなら私は、ありのままでいられる。


私は自然と笑顔になった。


話題は次に移ろうとしていた。2のi乗や3のi乗を図示しようとしている。

私もペンを取って、会話の輪に加わった。

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