第四十六話 変化の兆し
太陽が昇らず、まだ薄暗い時刻。時計の短針が指し示すのは数字の四だ。隣で眠るネヴィアスを起こさぬよう、静かにベッドから抜け出し手早く着替えを済ませ、いつも通りこっそりと寝室を後にしたエドヴァルドが向かうのは、王城の人気のない前庭だった。この時間帯に住み込みの執事やメイド、料理長が起きることは許されておらず、彼らは一時間後に起き、仕事を開始するよう言い付けられている。
「ふぅ……」
長い髪を束ねて軽く体を伸ばすと、ゆっくりと──徐々に速度を上げて走り出す。前庭を抜け中庭、そして裏庭へ。黙々と走り続けること一時間、皆が起き出す前に自室へと戻り、シャワーを浴び汗を流す。既定の場所に置かれた、国内外の大量の新聞を抱えて寝室へと戻る。もう一眠りした後目を通すのが通例であるが、今日こそはと手に取った、クレア大陸の国際誌。部屋の隅のランプをつけ、立ったまま食い入るように見つめる、記事の一面。
『サンリユス共和国 闇夜の暗殺劇 死者百人超え』
胸を撫で下ろし、ソファに腰を下ろす。アンナとエリックは無事仕事を終えたようであった。流石は我が娘だと誇らしく、つい口元が緩んでしまう。
「……起こしてしまったか」
「おはようございます……」
ベッドの端でむくりと頭を持ち上げるネヴィアスへ、すまぬと何度か頭を下げる。眠い目を擦り擦り、彼女はエドヴァルドの手元の新聞へと視線を投げた。
「サンリユスの?」
「ああ、見てみろ」
長い髪を耳に掛け、一面記事をざっと読み終えたネヴィアスは安堵の溜め息を零す。我が娘の実力はわかってはいるものの、やはり親としては心配なのであった。
「我が娘ながら恐ろしい成長速度だ」
「その内、レンとマリーを越えてゆくのでしょうね」
「いや……もうマリーを越えている」
「そうでしたか……」
「あんなに幼かったというのにな」
「懐かしいですか?」
「……そうだな」
新聞を畳んだネヴィアスの隣に、エドヴァルドは滑り込む。夫婦の会話は終わることなく、ぽつりぽつりと紡がれては、日が昇るまで続いたのであった。
*
太陽の周りに黒い雲が立ち込めてゆき、雨が降り出しそうな気配であった。
グランヴィ家長女マリーの出産が落ち着き、彼女に仕えている叔母であるサンもようやく国内外の仕事に出始めていた。そんな彼女は、本日王城の門番守の当番であった。
(……静かなものね)
アンナとエリックがサンリユス共和国へと向かって今日で五日目。二日前から、レンはカルディナルを連れ立って国境の進軍具合の視察に出向いている。アンナとレンがいないだけで、こうも静かなのかとサンは思わずクスリと笑ってしまう。
「……あれは」
ふ、と顔を上げた先──王城と城下町を繋ぐ、水堀に架かる橋の袂に見えるのは、上空から
(だってエリック様は……アンナ様を殺したくて仕方がないというのに何故……!)
アンナとエリックの事情については、勿論サンも聞き及んでいたが、たった五日で何が起きたというのか。仲の悪い姿も何度も目撃していたし、殺し合う場面に遭遇し、殺気に気圧されたこともあった。その二人が──……。
(何故なのですアンナ様……! 待って、これは……報告しなければ!)
サンは急ぎ通信機を繋ぐ。相手は国王エドヴァルドの傍にいるであろう、夫のコラーユであった。
「あなた、大変。今大丈夫?」
『何事だ?』
「アンナ様とエリック様が……いちゃいちゃと!」
『……何だって?』
「ですから、いちゃいちゃと」
『待てサン、落ち着いてくれ。陛下も驚いていらっしゃるので、正しい情報を頼む』
そうこうしている間に、アンナをおぶさったままのエリックが、階段を半分上り終えた。この距離では報告が知れてしまうと焦るサンは、夫に一旦待つよう声を掛けた。
「お二人共、おかえりなさいませ」
「ああ……」
「その、アンナ様? もしかしてお怪我を?」
通信機の向こう側で、怪我!? とエドヴァルドが騒ぎ立てる声が聴こえたので、サンは耳を叩き静かにするようコラーユに合図を出した。ここでアンナに知れてしまえば、何も聞き出すことは叶うまい。
「……大丈夫よ」
「で……は……あの、何故」
「少し疲れただけだ。大したことはない」
「そう……ですか。ゆっくり休まれて下さい」
「いや、父上の所に」
「あ……! 落ち着いてからで良いと、連絡が入っております」
「……そう、なの?」
「ええ、ええ! 少し休まれて、夕刻で良いとのことです!」
尚も通信機の向こう側で騒ぎ立てるエドヴァルドの言葉を汲み取り、サンは上手く誤魔化すようにアンナに伝える。「いちゃいちゃ」という情報のみを与えられた王の間の面々は最早パニック状態。二人の報告を受け付けることは不可能であった。
「わかった……じゃあ、夕刻、食事の前までには伺いますと、父上に伝えて」
「承知いたしました!」
「サン、大丈夫? 様子がおかしくない?」
「いえ、問題ありませんよ」
「そう……じゃあ」
あなた様たちのほうが様子がおかしい、とは口に出来ず、サンは二人の背を見送ることしか出来ない。姿が見えなくなったところで、コラーユに詳しい現状を伝えた。
『おぶさって? おぶさって!?』
「はい、おんぶです」
『おんぶかあ……と、陛下が嘆いていらっしゃる』
『馬鹿コラーユ! 言うなよ!』
「何だかお二人共、落ち着いた雰囲気でした。殺意も感じられません」
『そうか……わかった。ありがとう、サン』
通信が切れる。あれやこれやと妄想するしか出来ぬサンは、どうやって真実を聞き出そうかと、一日中頭を捻ることとなった。
一方、王の間。
サンからの通信が終わり、王の間の面々は各々頭を抱えていた。
「エリックがアンナをおぶって帰ってきただと?」
「そのようです」
「まさか……まさか! 深い仲になったのか?!」
勢いよく立ち上がるエドヴァルドを尻目に、ネヴィアスは溜め息をつく。まさかあのアンナに限ってそれはないと思ってはいるが、二人きりで五日も行動させたのだ。何が起きるかはわからない。
「たったの五日で? まさか、流石にそれは……」
「あり得ないあり得ないあり得ない! やめてくれやめてくれやめてくれ!」
「うるさいですよ、あなた」
「だって! あいつらあんなに仲悪かっただろ!? それがどうして!」
「エリックの手が早かったのでは?」
「ぎゃあああああ!」
「あなたのほうが、奥手でしたわよね」
「そうなんだよ! 何なんだよあの男!」
「我が家にとっては良いことなのでは?」
横槍を入れたルヴィスを、エドヴァルドとコラーユが睨みつける。
「父上、何も言ってないくせに睨まないで下さいよ!」
「アンナ様は……次期国王である前に私の大事な姪なんだ! 何処の馬の骨ともわからん男に……!」
「何処の馬の骨かはわかっているでしょ」
「そういうことを言いたいのではない!」
「何だよ面倒な親父だな……!」
やれやれと頭を振るうルヴィスに対し、コラーユは眉間を抑えて複雑な表情だ。
「アンナ様とエリック様の仲が深くなるのは良いことでしょう? 早く子を儲けて下されば、この国のためにもなる。そのための婚約者なのだと思っていたのですが」
「まあ……そうなんだが」
寂しいだけなんだな、とわかってはいるが、流石のルヴィスもそこまで口に出すことはしなかった。
「陛下。意外なのですが、あなた様は早く子を産めとは言わないのですね。ここまで騒ぐとは思いませんでした」
「お前……俺を何だと思っているんだ」
コラーユは何も答えず、口元を隠して笑うだけである。顔に似合わずこの男、なかなかに仕草が艶っぽかった。
「コラーユ、お前は……知らないのか。そうか、まだあの頃は……幼かったもんな」
「何がです?」
「母上が……我らが祖父になんと言われていたのか」
エドヴァルドとコラーユの祖父ヘンリー・
「あの人は……母上によく言っていた。『たった四人しか生めないのか』とな」
「…………」
「母上は自ら仕事に出ることの多い方だった。流石に身籠っている間は控えていたようだが……あの人はそれが気に食わなかったようだった。産め、働け、と……。身籠っていても、同様の働きが出来ると思っていたようだった」
「……なんと、横暴な」
「お前だって、あの人に可愛がってもらった記憶はないだろう?」
「そう、ですね」
「そういうことだ。身内を手駒としか考えていなかったんだよ。だからあんな死に方をした」
長い溜め息をつくと、エドヴァルドは立ち上がり窓際まで歩いていくと視線を外に投げた。皆に背を向け、その表情をしっかりと隠す。
「母上を散々傷付けた……あの人と同じようなことは言いたくはない。国の為に家の為に、厳しくあろうとは常々思って実行しているつもりだ……が、苦しんでいた母上を見て育った身としては、孕め産めなど……。ましてやマリーもアンナも、男親からそのようなことは言われたくないだろう」
「……そういうことですか」
「そういうことだ」
振り返ったエドヴァルドは物悲しげに目を伏せる。母の言いなりになっている所が多い男ではあるが、なるほどこのような経緯があったとは誰一人として知らず、ネヴィアスまでもが複雑な表情のまま、彼に歩み寄った。
「確かに私も……
「そういう方だ、母上は」
「ごめんなさい、あなた」
「何がだ」
「私、この国に嫁いで、あなたのことも知り尽くしたつもりでいましたけれど……まだ知らないことがあっただなんて」
「そんなこと」
「もっと、たくさん教えて下さい。そういえば、幼少期のことなどあまり話してはくれませんよね」
「いや……それは」
エドヴァルドの肩がびくりと跳ねる。幼少期の母に
「コラーユに聞いてもいいんですよ?」
「それは駄目だ……!」
「でしたら、教えて下さいませ」
エドヴァルドの手をスッと取り、ネヴィアスは大きな男の体をぐいぐいと引っ張ってゆく。まだ日が高くなりきっていない時間だというのに、私室に籠もった二人は夕方になるまで部屋から出てこなかったという。
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