第四十五話 恥辱の果て
無事サンリユス共和国から脱出したエリックは、朝日が昇りきるまでの間、国の正面入口を僅かに捉えられる場所に身を潜め、アンナの出国を待った。しかし彼女が姿を現すことはなく、仕方なく約束した巨木まで重い足を動かす。
(自分の無力さをここまで痛感したのは……二度目だな)
一度目は言わずもがな、母国を滅ぼされティファラを失ったあの時だ。まさか二度目が、その最愛の人を殺した女を救えなかった事となろうとは、思いもしなかったが。
巨木の根元に背を預け、座り込む。ここを通るのはサンリユスへ向かうかその帰りかの行商人ばかり。誰もエリックのことなど気にも留めず、馬に引かせた荷台をガトゴトと揺らしながら、通り過ぎてゆく。
昼が過ぎて夕刻に差し掛かりかけたころ。珍しいことに馬車を引かない男が、サンリユス共和国方面から歩いてこちらへと向かってきた。目立つ銀髪の男は、後ろに布を被った女を引き連れている。
「……アンナ?」
男がエリックの前で立ち止まる。立ち上がったエリックは、見覚えのある男の顔に嫌悪感を露わにした。
「うっそお……虐殺王子? アンナの連れってまさか君なの?」
「悪いか」
「そっかそっか。君、ファイアランスに吸収されたんだったね」
「ペラペラと……ミカエル・フラウン。俺は、お前のやり方は好かないんだ。さっさと……」
──と、エリックは、ミカエルがアンナを連れている事実に、身の毛がよだつ。ミカエルがアンナの肩を抱くと、ビクリと跳ね上がる細い肩。ライダースーツの胸元から見えた白い肌には、真っ赤な跡がちらりと見えた。対象的に、彼女の顔は真っ青だった。
「そういえば昔、君の元婚約者も俺が世話してやったんだったね。だから怒ってるのか〜。現婚約者にも手を付けちゃって悪かったね」
「お前ッ!」
「大きな声を出さないでくれ、寝不足なんだ……ふわぁ……だって、まさか処女だなんて思ってなかったし。早く手をつけない君が悪かったんじゃないの?」
ヘラヘラと嫌な笑みを向けるミカエルの頬を、エリックは殴りつける。直後に鳩尾を抉るように殴りつけてやり血を吐いたというのに、ミカエルは全く表情を崩さない。
「そんなに怒るんなら、紐でもつけてちゃんと管理してあげなよ。アンナが可哀想だ」
「どの口が……!」
「まあいいや、沢山払ってもらったし。また会えるのを楽しみにしてるよ。ね、アンナ」
「…………失せろ」
「最高だったよ、ありがと〜! じゃあね」
ふ、と身を屈め、ミカエルはアンナの唇を塞ぐ。三つある分かれ道の、右側へ足を進めた彼の姿が見えなくなる頃、アンナはその場に崩れ落ち、嘔吐した。
「おい! しっかりしろ!」
「ぅ゙……大丈夫だ……問題ない」
「どこがだよ! あの野郎……! 今からでも追いかけて殺して……!」
「駄目だ。それはお前もわかっているだろ……」
「けどなあ! このままじゃお前が──!」
「……大丈夫だ」
口元を拭え、と差し出されたハンカチで、アンナは溢れ落ちる涙を拭いた。自分の弱さと情けなさに、呆れて落ちる涙は止めようとしても止まらなかった。
「少し休んでから帰ろう」
「不要だ」
「お前、あまり無理をするな」
「……情けない」
アンナを背におぶり、エリックは
「水を飲んで、とりあえず口を拭け。涙は俺の肩で拭いて構わないから」
「悪い」
「体は……大丈夫か?」
「……」
「おい」
「死ぬほど屈辱的だったというのに……ほんの少しでもあれを……あれに快感を覚えたあたしは……異常なんだろうか」
「そんなことはない。お前は……深く考えすぎだ。そういうもんだ、人ってのは。勿論、皆が皆そうではないと思うがな」
「弱い。弱い自分に吐き気がする」
「お前は弱くない。今回の件は……全面的に俺が悪かった。本当にすまなかった……」
「……お前は悪くない」
見えてきた街の入口に、胸を撫で下ろし城門を潜る。二人揃ってお尋ね者だが、入国を止めるような門衛もおらず、治安が悪いのか自由すぎる国なのか──まだ判断は出来ない。
「エリック、お前は何故を自分を責める」
「はあ? だって俺が……もっと真面目に仕事に取り組んでいれば、お前は必要以上に疲労を重ねなかったし、俺がぶつかっても倒れることなどなかっただろ。お前の足手まといだと割り切って、お前だけを残して一人逃げた結果が……これだ。お前を……傷付けた」
「それも含めて全てが、あたしの実力不足だ」
大通りへ出た。この町の住民たちは、皆派手で自由な身なりをしていた。己を着飾ることにいっぱいいっぱいで、周りのことなど然程気にしてなどいないようだ。あの堅牢なサンリユスから逃れてきた者も多いのだろう、笑い声と自由な商店が後を絶たず、見たこともない露店の多くはエリックの目を引いた。
「鍛え方が足りなかった。体も、心も。もっと……もっと肉体が強ければ、疲労など感じなかった。心が強ければ、あんな奴にも動じなかった。男に対して耐性があれば……情けない姿を晒さずにも済んだ」
「それは耐性じゃなく、
比較的話しかけやすそうな紳士に道を聞き、エリックは教えられた宿へと足を向ける。あまり豪奢なホテルだと出迎えが恐ろしいので、敢えて簡素な宿を選んだ。先程の露店よりも立派な店構えの商店通りを抜け、薄暗い宿屋街へと差し掛かる。まともそうな宿を選んで木製の古びた扉を引き中に入ると、薄暗い受付に初老の女が佇んでいた。
「一晩泊めてほしい」
「一部屋ですかねぇ?」
「あぁ」
「おい!」
一部屋であることに、アンナは抗議した。受付の女はにこにこと楽しそうに二階の部屋へと二人を案内すると、足早に立ち去った。
「今のお前を、夜通し一人に出来ると思うか?」
「随分と優しいことを言うんだな。お前、あたしがどういう女か忘れたのか?」
「仇だ。忘れるわけなどないだろう」
「ならば、放っておけ。優しさなど不要だ」
「……お前な」
刀を抱きしめベッドに転がり背を向けるアンナの背後に立ち、エリックは小さな背中を見つめる。一人で抱えすぎている、小さな背中を。
「人に甘えることを覚えろ、今は……休戦だ」
「甘え方など……知らない。そんなこと、誰も教えてくれなかった」
「……そうか」
(虚しい女だ。あれだけ家族に囲まれていながら、いつも孤独だったんだな)
「帰ってきたら教えてやる。少し出かけてくるが、いいか?」
「問題ない」
「鍵、閉めておくぞ。念の為」
エリックはここへ来る途中に通った、個人商店の通りへと足を向ける。茶葉を取り扱う店に寄り、店主に勧めてもらった気分が落ち着くという紅茶を購入した。その斜め前の店では、装飾品を取り扱っているようであった。店主に「お目が高い」と言われ購入したものは、こんな個人店で取り扱いがあるのが不思議な程良いものであった。そのくらいの目利きは出来るように、母にあれこれ教え込まれた経験がこんな所で活きるとは。
三十分程度で宿へと戻ったエリックは、受付で茶器一式を借り、部屋へと戻る。相変わらずアンナは背を向けベッドに横になったままだった。
「戻ったぞ」
「……ああ」
湯を沸かしたエリックはポットを温め、買ってきたばかりの茶葉を入れ、湯を注ぐ。部屋に漂う甘い香りに、アンナがごろりと寝返りを打った。
「お前、紅茶好きだろ?」
「まぁ……」
「飲むか?」
二人分用意されたティーカップ。身を起こしたアンナは黙って頷き、テーブルの上の砂時計が時間を刻み終えるのを待った。
「ほら」
「……ありがとう」
「具合はどうだ?」
「……体の、触れられた部分が気持ち悪いんだ。これは、どうすれば消える?」
「そんなの……」
ふ──と、手が伸びる。アンナの腕に指が触れようとした寸前、ぱっと引っ込めてしまった。
「エリック?」
「いや……その……悪い。軽率だった」
「……大丈夫だ。お前のほうが……幾分かマシだ」
「マシとはなんだよ」
小さく笑うアンナの弱々しいこと。今なら簡単に彼女を殺してしまえそうであったが、全くその気が湧いてこないのは、休戦と宣言したせいだろうか。
「いつか、お前の本当に大事な奴に上書きして貰え。そうしたら消えるかもしれないな」
「それまで耐えるしかないのか。いや……耐えれるさ、問題ない」
(コイツとの間に何も因縁がなければ──俺が忘れさせてやる、だなんて言っただろうか…………まさかな)
「そういえば、甘え方を教えてくれる約束だ」
「あ……あぁ、そうだったな」
ふぅ、と紅茶を冷まし、一口二口とアンナは口に運ぶ。味わったことのないまろやかな甘みの紅茶は、アンナの心を少しずつ落ち着かせた。
「……美味しい」
「そうか、よかった」
「まだ茶葉はあるのか?」
「あるさ。帰ったらフォードにでも淹れてもらえ。あいつ、上手いんだろ?」
「あぁ」
「……おい、カップを置け」
何事かとソーサーごとテーブルに置くと、エリックがアンナの正面に立った。その眼差しは真剣そのものだった。
「触れてもいいか?」
「……体に?」
「そうだ」
「構わない」
ベッドに腰掛けるアンナの左手に、エリックは腰を下ろす。す、と両手を伸ばしてアンナの肩に触れ、滑るようにその手を背中に回し、抱き寄せた。僅かに震える体の、なんとか細いこと。見た目よりもずっと肉のついてない体に驚いてしまった。
「お前に大事な奴ができたら、こうやって抱きしめてもらえ。そして何があったか、何を聞いてほしいのか、ゆっくりと話せばいい……そうすれば少しは心が軽くなるだろ」
「これが……甘え方、か?」
「ああ。他にも色々あるだろうさ。上目遣いで相手を誘ってみろ」
「性に合わん」
「だろうな」
「……あたしがシナブルにしたことは、間違ってはいなかったのか」
「あの仏頂面に?」
先日アンナは己の心が限界に達した時、シナブルに泣きついたことがあった。あの時、幾分か心は軽くなったのだ。
しかしエリックには、あのシナブルがアンナを慰めるところなど想像がつかなかった。
「あいつは優しい奴だよ」
「大切なのか?」
「大切な家族だ。皆、そうだ」
「一人の男として、愛せる者がお前にも現れるといいな」
「そうすれば何か変わるだろうか」
「多分な」
「少し……上書きされた。ありがとう、エリック。もう大丈夫だ」
いくらか顔色の良くなったアンナは、エリックの背をトンと叩き身を引いた。顔を上げたいのだが妙に恥ずかしく、向かい合ったまま顔を伏せることしか出来ない。
「甘えるのが難しければ、少しずつでいい、人を頼ることを覚えろ」
「……頼る、か」
「一人で抱え込みすぎだ」
「そうか……覚えておく」
「あとな、お前、胸元のファスナーを閉めろよ。跡が……見えるからな」
「跡……」
「あいつがやったんだろ」
首筋から胸元に点々と残る赤い跡は、昨夜から今朝にかけてミカエルがつけたもの。両手でサッと隠した後に、またしてもアンナは顔色が悪くなってゆく。
「閉まらないんだよ、これ」
「あ……そうか……」
ファスナーのつまみを上に引き上げようとするが、たわわな胸に阻まれて、これ以上は無理な様子。エリックは視線をアンナの胸元へと投げ、触れてもよいか確認をした。
「さ……わる?」
「違う、変な意味じゃないぞ! 跡を消してやるから見せろという意味だ」
「そ、そうか。それなら……問題ない」
ファスナーを腹のあたりまで下げ、胸元の襟口をガバっと開き、改めてエリックと向き合う。柔らかな光に包まれた両手がアンナの体へと近づく。ものの十分もしないうちに跡は消え、アンナは胸を撫で下ろした。
「……ありがとう」
「さっきの跡、人に見られれば、
「今後?」
「今後……お前が……その、なんだ、周りに知られてもよい相手かどうかとか……王となる姫ならば、将来的にも色々あるだろうが、きっと」
「……そうなのかな」
察しがつかないアンナとは違い、エリックはあれやこれやと至らぬ心配の種に歯切れが悪い。跡継ぎのことなどを考えれば、もしかすれば複数を相手にしなければならないことも有り得るとアンナに伝えると、顔を赤くし開いた口が塞がらぬ様子。
「お前っ……なんて卑猥な!」
「本夫との間に跡継ぎを授かればいいだけの話だろ」
「本夫は……誰だかわかっているのか、お前は」
「……俺か。いや、俺は……そんなの、なる気は……」
「わかっている」
将来的にアンナの相手にと、ファイアランス王国に迎え入れられたエリックであるが、彼女との因縁がある以上、将来を考えることなど出来る筈もなかった。
「一応言っておくが、俺は……あいつと違って酷いことは、しない」
「べ、べ……別に聞いてない! 馬鹿っ! 何なんだお前!」
「うっ……いや、その…………悪い」
気を取り直すようにエリックは大きく咳を払うと、紅茶の入っていた袋とは別のものから、黒塗りの小箱を取り出した。アンナに差し出すと、そっぽを向いて「使え」とだけ告げた。
「これは……」
「通信機だ。俺のせいで壊れたようなものだから」
「いいのか、貰っても」
「いい。その為に買ってきたんだ」
蓋を開けると中には艷やかな質の良い黒真珠のピアスが二つ。通信機としても使えるよう改良が施されている上、上等な真珠である。値が張りそうな品であるが、金銭感覚の狂っている二人にしてみれば、大した額ではないようだ。
「……綺麗」
「貸してみろ、つけてやる」
「洗面台までくらいならば歩ける」
「無理をするな馬鹿」
す、とアンナの顎を持ち上げたエリックは、彼女の右耳に触れた。ピアスホールへシャフトを通し、キャッチで固定すると、今度は左耳へと手を伸ばす。
「ん……?」
「左耳、開けてないんだよ。右は開いてるんだが」
「なら……右耳に二つつけておくか? 予備も兼ねて」
「それでいいが……あの……あまり、耳を触り回すな、くすぐったい」
「えっ……あ……悪い」
朱に染まった顔を伏せ、とうとう背中まで向けてしまう始末。礼すらまともに言えていないというのに、エリックの顔を見ることが出来なかった。
「……全く、なんて最悪な誕生日なんだ」
「お前、今日誕生日なのか?」
「ああ」
「なんだよ早く言えよ」
「言ったところで、だろ」
「まあ……そうだが」
結局二人はその日宿を出ず、翌朝まで宿泊することを決めた。アンナの体調が快方へ向かわなかったためであった。
そんなアンナがエリックへピアスの礼を告げたのは、その日の夜遅くになってから。一人で寝るのが恐ろしいと訴え、エリックの背中にしがみついて布団に入り、眠りに落ちる寸前のことであった。辛いならば頼れ、甘えろと散々言われた結果なのであるが、果たして自分達の関係はこれでいいのかと不安が残り、胸の奥では濁った不快な靄が、立ち込めたままなのであった。
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