第三十八話 紫煙に包まれて
夜がとっぷりと更けた頃。
臣下達の私室棟廊下の最先端には半月型の広いバルコニーがあるのだが、そこは夜な夜な彼等が集まり談笑をする場となっていた。今日も今日とて煙草の煙が充満する気配。
「おっ、来た来た! 遅いじゃないか」
「忙しいんだ。勘弁してくれ」
ルヴィスとフォードが瓶酒を呷っている所に姿を現したのはシナブルであった。兄からの再三の呼び出しに渋々顔を出した彼の足取りは重い。バルコニーの柵に背を預け、煙草に火をつけると、「俺も」「俺も」とルヴィスとフォードに一本ずつ奪われるのは恒例なことであった。
「全く……いい加減自分で買えよ」
「お前の悩みを聞いてやる対価だと思え」
「誰も頼んではいない」
「可愛げのない弟だな……そうだ、お前に謝らねばならない事がある」
「何」
苛立つシナブルにフォードか酒を勧めるが、断られてしまうのも常のことで。空になった瓶を足元に置き、フォードは新しい酒の栓を抜いた。
「シナブルすまん……不可抗力でアンナ様の裸体を見てしまった」
「は!?」
「お前今までよく正気でいられたな」
「待て不可抗力とはなんだ!」
「俺なんか危うく勃ちかけたよ。同じ場に姉上がいたから、なんとか収まったが」
「姉上をそんな風に使うなよ!」
「ハハハッ!」
「笑ってないでフォードも何か言ってくれ」
「ルヴィスがシナブルにだけ謝るってのが面白いんだが……」
「それもそうだが、わかるだろ?」
「フフッ……まあ、ね」
アンナがシナブルとフォードを区別しているのは明確であった。彼女本人はそれを従兄か軍人上がりの他人かという理由で区別しているのだが、アンナ本人はそれを口にすることはない。当の本人達やその周りはそんなことが理由などとは知る由もなく、あれやこれやと会話を弾ませ時には妄想も織り混ぜては、夜な夜な盛り上がっているのであった。
「私がなんですって?」
「げ、姉上」
「私も一本貰おうかしら」
喫煙所と化したバルコニーに現れたのは、ルヴィスとシナブルの姉マンダリーヌであった。彼女がこの場に現れるのは珍しいことではないが、煙草の催促は初めてのことであった。
「吸うのですか?」
「仕事で覚えただけ、普段は全く吸わないわ。でもこの煙たさで一人だけ吸わないほど、私も出来た女じゃないわよ。こんなに煙たいのは初めてね……何事?」
「タイミングが悪かっただけです」
「……そ」
「俺の煙草……」
次々と奪われる箱の中身は、あと二本。普段から高頻度で喫煙をする訳ではないので、そう困ることはないが、あまり良い心地はしなかった。
「そうそう、余計なことかと思ったけど……いい機会が巡ってきたから、アンナ様とエリック様に言葉遣いについて話をしたわ」
「言葉遣い?」
「お二人に、丁寧な言葉を使うようけしかけたの」
「あれは姉上強かったよな……」
マンダリーヌは今日医務室で起こったあれやこれやをシナブルとフォードに説明した。不可抗力についても聞かされたのだが、シナブルはどうも納得しない様子。
「いや兄上、直ぐに目を逸らせよ。なんで控えめに直視したんだ」
「いやあ、惹きつけられてしまって」
顎に手を当て目線を高く、ルヴィスが思い出すのはアンナの美しい裸体であった。鍛え上げられた肉体に無駄な肉は一切無く、足の先まで筋肉質であった。迫り出した胸は歳不相応で己の目を疑った程だ。その下へと続くスッと縦に割れた腹筋がこれまた最高であった。
「遠慮のない奴」
「お前が遠慮しすぎなんだよ。あ、ちなみにこの上着は、先程アンナ様が素肌に直接羽織られたものだ。要るか?」
「要らん」
「またそうやって遠慮する」
「単純にサイズが違うだけだ」
「嗅ぐか?」
「阿呆!」
「兄に向かって阿呆とはなんだよ!」
兄のこの性格はなんとかならないものかとシナブルはマンダリーヌに助けを求めるが、姉も呆れて首を横に振るだけであった。
「気があるならさっさとものにすればいいのに」
「いいぞフォード、もっと言ってやれ」
「だから、そういうのではないといつも言っているだろ……」
「お前は遠慮ばかりだし、嘘をつくのも下手だよな」
兄のルヴィスからしてみれば、弟が嘘をつくときの仕草や語調など、一目見ればすぐにわかるのだ。それは姉に対しても同じであるのだが、先程からマンダリーヌがやけに落ち着きなく酒瓶を呷っていることがどうも気になっていた。
「アンナ様に辿り着くには、まずレン様をどうにかしないといけないわよ」
「レン様については姉上が一番詳しいよな」
「あの溺愛っぷりにはもう慣れたわよ」
隠してはいるようだが、やはりどこか淋しげな姉の瞳がルヴィスは更に気に掛かる。
「マンダリーヌはそういうのないの?」
「そういうの?」
「浮いた話」
「あ、あるわけないでしょ! フォードこそないの? あなた自分のそういう話、全然しないじゃない」
「俺は元々皆とは身分が違うから。城内での、そういうのはないかな」
「俺も町娘のほうが好きかな」
「ルヴィスのそういうのは聞き飽きてるからいいのよ」
煙草を揉み消し残りの酒を一気に飲み干し、マンダリーヌはそそくさと退席しようとするが、フォードに呼び止められてしまう。
「マンダリーヌ、レン様とかどうなの?」
「やめてよ、あり得ないわ」
「ふうん?」
「フォードってこんな意地悪な所があったの?」
「酒のせいかな」
「私の話は……終わり。シナブルの話だったじゃない」
「そうだ、そうだった! お前、さっき部屋でアンナ様と何やってた?」
「階段で抱き合ってたな」
「はぁ!?」
「姉上誤解だ、待ってくれ」
汚いものを見るような視線をシナブルに飛ばすが、彼はマンダリーヌとレンの関係を以前目撃し、知っている。意味ありげに見つめ返すと、彼女もそれを思い出したのか顔を赤らめた。
「あれは……アンナ様が弱音を吐かれて、それで」
「アンナ様に限って弱音を吐かれるなど、想像がつかないな」
「あの方はいつだって気を張り過ぎなんだ。時々緩めねば、倒れてしまうぞ」
「その結果、抱き合っていたと?」
「う……だから……その……俺は、受け止めただけで……」
「アンナ様からだというのなら、やはりお前に気があるんじゃないのか?」
「ハァ……兄上、いい加減にしてくれ」
この手の話はいつも埒が明かず、シナブルは結局逃げるようにその場を後にするしかないのだが、今回は珍しく、新たな来客があるようで。
「え……ガランスさん!」
バルコニーのドアが音を立てて開く。皆の視線の先には茜のような赤髪の大柄な女性が立っていた。彼女──ガランス・グランヴィは国王エドヴァルドの二番目の妹であり、先代国王アリアの付き添い兼警護役を務める殺し屋だ。
「おぉマンダリーヌ。美しさが増したな」
「叔母様こそお美しくてなによりです。叔母様がいらっしゃるということはもしかして」
「ああ、カメリアもヴァイスと一緒に帰ってきている」
「嬉しい! 明日、顔を出しますわ!」
先代国王アリアはガランスを連れて国外旅行を楽しんでいるのだが、ガランスの姉夫婦──カメリアとヴァイスに合わせて二ヶ月に一度、二週間程度帰国している。叔母達と姪子達の交流は仕事の予定次第で時機が合わないことが多いので、マンダリーヌの喜びようは一溜まりもない。
「ところで、何の話をしていたのだ? 盛り上がっていたようだが」
「アンナ様に手を出せって、シナブルに」
「兄上っ!」
流石のシナブルもこういった話を身内の、おまけに年上の女性に聞かれるのはあまり心地の良いものではなく。激しく兄を叱責するが、当の本人はといえばただただ楽しいだけのようで、酒を煽るペースが早まってゆくばかり。
「シナブル、こういうことは手を出した者勝ちだよ? さっさと押し倒してしまえ」
「叔母様までそんなこと……」
「ま……私のような老獪が、真面目なシナブルに悪知恵を吹き込んでやれるのは限界があるからな」
「俺、悪知恵聞きたーい!」
「ルヴィスがこれ以上知恵をつけてどうすんだい」
豪快に笑うガランスは、ルヴィスの頭をくしゃくしゃと撫でると「顔を見に来ただけだから、あとは若人で楽しめ」と、早々に立ち去った。嵐のような女性である。
「俺もそろそろ失礼したいんだが」
「主役なんだから残れよ〜!」
「酒臭いな兄上……俺、仕事の途中なんだ。戻って今夜中に片付けたい」
「つまらない奴だなあ」
足取りと呂律の怪しいルヴィスを尻目に、残りの三人はてきぱきと吸い殻と空き瓶を片付けてゆく。フォードはルヴィスに肩を貸すと、苦い笑みを浮かべながらその場を後にした。
先程までの喧騒が嘘のように、バルコニーは静まり返っている。姉に背を向け、シナブルは新しい煙草に火をつけた。
「あの時のこと……黙っていてくれてありがとう」
「何のことです? もう忘れましたよ」
「気を遣わせてばかりで、ごめんなさい」
「……そんなこと」
似た者姉弟だなと、マンダリーヌは微笑する。シナブルには事の全容が明らかになってしまったが、流石にルヴィスにまで自分の想いを知られるのは御免だった。
「私は……あなたに注意する筋合いなどないのだから」
「姉上、やはり」
「言わないで。私だって迷ってる……! 駄目だとわかっている、でも……!」
真面目なマンダリーヌは、相も変わらず自分の気持ちに素直になれないままであった。それはシナブルも同じこと。真面目な所がそっくりな二人は、やはり本音を言えぬまま、夜空に想いを馳せるしかないのであった。
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