第三十話 戒めの傷

 シナブルに肩を支えられながら、なんとか自力で医務室まで辿り着いたアンナは、入口近くの椅子にどかりと腰を下ろす。ベッドで横になるよう勧められたが、「横になってしまうと起き上がれる気がしない」と断り、腹の包帯を解き始めた。


「アンナ様!」

「アリシア、三十分で頼む。……母上は?」

「承知しました。ネヴィアス様は御自室で休まれています」

「そうか」


 ワゴンを押しながら駆け寄ってきたアリシアは、既に準備を整えていたようで、手早くアンナの腕にあれやこれやと針を指し、処置を進めてゆく。アリシアの指示で足の爛れた傷の処置をするシナブルの顔はいつにも増して険しい。


「母上に……こんな姿を何度も見せるわけにはいかないからな」

「ええ……そうですね。ちょっと一番酷い脇腹の傷を見せて下さい…………これは……」

「出てるもの押し込んで、ササッと治してくれ。あまり時間がない」

「最近腕を上げたのです。押し込まずとも私の力で何とかなるかと」

「頼む」


 屈み込み、アンナの脇腹に近づけたアリシアの両手が、柔からな光に包みこまれてゆく──エルフ特有の治癒能力だ。飛び出していた腸はみるみる腹に吸い込まれ、傷も少しずつ塞がってゆく。


「頼みがあるんだが」

「何でしょう」

「傷は……残しておいてくれないか」

「出来ますが、よろしいのですか? かなりの跡が残りますよ?」

「構わん。自分への戒めだ……二度と繰り返さない為にな」


 アンナにとって、今回の一件は相当屈辱的な事であった。気を抜いた自分の甘さにも、手を出すなと格好をつけておきながら、臣下に助けられたことも──恥じていた。もしもエリックに、フォードがティファラのとどめを刺す瞬間を見られていたならば、大切な臣下を一人失っていたことだろう。真実が露見してしまえば、父は確実にフォードを処刑していた。



(大切な臣下二人を、あたしの失敗でみすみす殺されるわけにはいかない。もっと強くならねば……)



 傷口は二十分程度で塞がれたが、そこには荒々しい刀傷が残された。刺されただけではなく、エリックはアンナの腹に刀を刺したままそれを回転させたのだ。言わずもがな傷口は悲惨なものになる。


「格好いいだろう?」

「ええ、本当に」

「辛そうな声で答えるな」

「申し訳ありません」

「何を謝る。お前は間違えていない。戦場でもそうだったし、今だってそうだ」

「……」


 シナブルは黙って俯いてしまう。その肩をポンと叩くとアンナは二人に短く礼を言い、足早に医務室を去っていった。目指すは父の待つ地獄の肆番だ。







 城に近づけば近づくほど、ほんのりと血の香りがする──幼い頃からレンがずっとそう思っていた、この生家。今日も今日とて血の香り。きっとこれは城中に染み込んだ先人たちの血液の、行き場を失った腐敗臭なのだ。そう決めつけて、足取り軽く城門を潜る。



(もうすぐアンナに会える)



 ここ一ヶ月、レンは国外の──それも遠方国の貴族たちの大量抹殺依頼でファイアランス王国を離れていた。臣下のマンダリーヌを連れ立っての一ヶ月間の仕事であったので、心身穏やかに過ごすことは出来たのだが、国とアンナの様子は気になって仕方がなかったのだった。


「ご機嫌ですね」


 三歩後ろを歩くマンダリーヌの、弾むような声が気分を高鳴らせる。この一ヶ月間、散々彼女と時を共にしたというのに、飽き飽きする気持ちは全く湧いてこなかった。


「ああ。早くアンナに……」

「……そうですよね」


 一線を超えてからというもの、マンダリーヌの鉄壁の城塞のような空気感は破綻しており、数十年感じ取ることのできなかった感情を声色で判断することが可能な程にまでなっていた。消え入るような小さな声で主の言葉に割って入るなど、今までのマンダリーヌではあり得ない話。


「すまない。そういうつもりでは」

「大丈夫です、すみません……至らぬ臣下で申し訳ありません」

「そんなことで謝るな。俺はお前の変化を嬉しく思っているというのに」

「な……!」


 赤く染まった頬を両手で包み込み、マンダリーヌは二歩後退する。レンが優しく微笑むと、彼女は膝から崩れ落ちてしまった。


「どうした?」

「近寄らないで下さい……! レン様の微笑む姿に慣れておりませんゆえ」

「俺、そんなに笑わないか?」

「違います。見惚れてしまうと仕事に支障が出るので、出来るだけ視界に入れぬようにしておりました」

「本当に変わったな、お前」


 いや、変えてしまったのは俺自身か──と、マンダリーヌの手を引き無理矢理に立ち上がらせる。耳まで赤くなり目を潤ませ、真っ直ぐに見つめ返してくれるというのに、マンダリーヌは未だレンの気持ちに応えてくれることはなかった。



(好意は言葉にしてくれるようになったというのに……頑固なやつだ。しかし、今は──……それでいい)



 今のままの関係が心地いいのだ。このままで──このままがいい。彼女がレンからの求婚に応えてしまえば、揃って身を滅ぼすことは目に見えている。これ以上本心を曝け出すわけにはいかなかった。


 ゆっくりと歩き出そうとしたその時、強い風が吹いた。風に乗って潮の香りが二人の鼻先を掠める。


「……ん? おい……」

「はい。流石の私にもわかりました」

「急ぐぞ」


 そう言うと、二人は城前の石階段を飛行盤(フービス)で一気に駆け上がる。掃除のために水を撒いたのだろう、階段は水浸しであった。城の中庭を半分ほど進んだ所で、二人のメイドがせっせとデッキブラシを動かし、石畳の上を掃除をしていた。


「……レン様! おかえりなさいませ!」

「俺が帰ってくる前に、急いで片付けろとでも言われたか?」

「そ…………それは……」


 口止めされているのだろう、二人は肩を震わせ顔を伏せてしまった。急いで城の正面入口に向かうと、そこには夥しい量の血痕で汚れた石畳。



(この血の匂い……きょうだいの……誰だ)



 血の匂いを注意深く嗅ぐ習慣が身についてしまったレンは、何となく──殆ど直感のようなあまり当てにならない程度ではあるが、身内かどうかくらいは判別できるようになっていた。



(今日仕事に出ていたのは誰だ? 流石に一月ぶりの帰城では、マンダリーヌも予定を把握できていないからな……)



 そうなれば自分の足で確かめるしかない。城内に踏み込むと、執事長のハイドンが指揮を取り廊下の絨毯を張り替えている所であった。


「おかえりなさいませ、レン様」

「お前も口止めされているのだろう?」

「申し訳ありませんが」

「いいさ。父上が隠すということは、アンナかフェルかどちらかだろう」


 つい最近になってようやく我が家に導入された小型の通信機を、家族たちは「面倒だ、慣れない」などの理由で使いこなす気がないようで、フェルもアンナも室内では身に付けていないのか応答せずであった。意外にも使いこなしているのは、エドヴァルドやサン、アリアなど年長者たちであった。


「マンダリーヌ、お前はフェルの私室を頼む。俺はアンナの方へ向かう」

「承知しました」


 レンは足早にアンナの私室へ向かうも、室内は無人であった。マンダリーヌからの通信で、無傷のフェルは在室であることが判明。



(ということは……あの血は十中八九アンナということか)



 アンナは何処にいるのだろうと、手分けして城内を駆け回る。緘口令が敷かれている以上、誰に通信をしたところで無意味なことはわかりきっていた。走り回って探すしか手立てがないのだ。


「医務室は?」

『いらっしゃいませんでした』

「ということは……闘技台。お前は壱番と弐番を頼む。俺は参番と肆番だ」

『承知しました』


 壱、弐、参は似たような造りの鍛錬の場。主に対人訓練をする際に使われる広い闘技台を指している。広い城内には他にも鍛錬をする為の個室がいくつかあるが、これは基本的には個人で使うというルールがある為、今アンナがいる可能性は低い。


「……となればやはり肆番か?」


 あの場所は特別に厄介であった。闘技台と一括りにされてはいるが、あそこはただの拷問部屋だ。他と同じように闘技台があるにはあるが、ひとたび天井からぶら下がる鎖に繋がれてしまえば、意識を失うまで炎を帯びた鞭の餌食となる。あの部屋に数多くの毒瓶があるお陰で、王族たちは毒への耐性が身に付いているのであるが、毒に苦しみながら隣接する牢獄へ何日も押し込まれるのが精神的にも堪えるのだ。


 地下へと続く螺旋の石階段を五十段ほど駆け降りる。鞭を打つ音も、アンナの悲鳴も聞こえない。



(……誰もいないのか)



 コツコツと牢獄の奥へと足を進める。通路も階段も火は灯っておらず真っ暗で、人の気配等は───あった。




 

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