第二十三話 成熟しゆく心

 足取り重くアンナが向かうのは兄レンの私室。マリーから聞かされた話の全容が衝撃的すぎたせいもあり、どうにか気を紛らわせようと彼女が考えた策は戦闘訓練であった。恐らく父は姉の出産のことで頭が一杯であろうし、あんな話を聞いたあとでは己の臣下達と顔を合わせるのも妙に気不味い。マンダリーヌは顔を赤くして逃げてしまったし、他の女性臣下達はマリーの出産準備で忙しい。となれば助けを求める相手は兄弟しかいないという訳であった。


「……いない」


 レンの私室を訪ねるも室内はもぬけの殻。うろうろと城内を歩き回りやっとのことで見つけた兄は、弟のフェルと共に闘技台 弐番で戦闘訓練中であった。城の西塔の屋上からひょっこりと生えるような形で設置された闘技台の強度は他の闘技台に比べてかなり劣る為、力の弱い幼少期の頃にしか使用されない場所だ。嫌な記憶ばかりが詰まったこの場所を久方ぶりに訪れたアンナは、レンとフェルの姿を見てほっと胸を撫で下ろした。


「アンナ様!」

「アンナさま!」


 駆け寄って来たのはレンとフェル直属の臣下、カルディナルとヴェルミヨンだ。二人はコラーユとサンの息子で、マンダリーヌ ルヴィス シナブルの弟にあたる。年端もゆかぬ二人の男児たちの顔立ちは母のサンによく似ているが、兄のカルディナルの目元は父のコラーユ似で少しだけ鋭い。


「どうなさったんですか? こんなところまでわざわざ」


 この場で最年少のヴェルミヨンが、アンナの目の前で可愛らしく首を傾げる。曇りなき眼に気圧されそうになりながらも、アンナはグッと腹に力を入れ、出来るだけ優しく言葉を紡いだ。


「兄上に戦闘訓練を頼もうと思ったんだが……取り込み中だったんだなと」

「そうでしたか!」

「アンナ? どうしたんだ?」


 握っていた木剣を足元に置き、対峙するフェルに一言告げるとレンは足早にアンナの元へと歩み寄った。カルディナルとヴェルミヨンが身を引くと、アンナの様子がおかしいことに気が付いたレンは彼女の肩に手を伸ばし、出来るだけ優しく自分の方へと引き寄せた。

 

「どうした? ……お前、顔色が悪いぞ」

「いや……あの……」


 兄が自分のことを心配してくれているのはわかる。しかし──伸びてきた兄の手が、剥き出しの自分の肩に触れていることがどうしようもなく不快で、自らこの場に来たというのに一刻も早く立ち去りたくて仕方がなかった。しかし、アンナにはその不快感の理由がわからない。



(……何故だ)



 マリーからあんな話を聞いたせいだからだろうか、異性である兄に触れられることが気持ち悪くて仕方がなかった。自然と兄の下半身へと下がる目線をどうにか持ち上げ、アンナはおずおずと口を開く。


「兄上、姉上が産気付かれたのは……」

「ああ、知っている。俺達がバタバタしたって子が産まれてくる訳でもないし、皆で入れ替わりながら戦闘訓練でもしようかと思ってな。お前は姉上の所に顔を出したのか?」

「え……ああ、まあ……」

「…………フェル! ヴェルミヨンとカルディナルと三人で稽古をしていなさい。兄上はアンナと少し話があるから席を外すぞ!」

「わかったよ兄上!」


 互いに距離がある為、少し声を張り上げながらの会話を終えるとレンは屋上から階下の階段までアンナの手を引いて行く。今のアンナにしてみれば、兄に手を引かれることも嫌であったし、二人きりになるのも出来れば避けたかった。


「……姉上と何を話した」

「あの……」


 勘の良いレンはこの時点でなんとなく察しがついていた──マリーがアンナに良からぬことを吹き込んだのだろうと。しかしその推測が間違いということもある。最後まで話を聞かなければ──。


「あの、兄上は……人の子が母親のどこから産まれてくるのか知っている、か……?」

「え……あ?」

「人の子がどうやって出来るか知ってるか……!?」

「は……あ……?」


 予想の遥か斜め上を行くアンナの問に思わずおかしな声が口から零れるレン。マリーのことだからきっと「子を産むのは物凄く痛い」だとか「男だったらこの痛みに耐えられず死ぬ」だとか、そういった類いの話を埋め込んだのだろうと考えていたレンであったが、まさかの答えに開いた口も塞がらず、赤面するアンナを見下ろすしかない状態である。


「信じられない……信じられないから確証が欲しいんだ! 本当にこんなところから子が出てくるのか?」

「それ以上言うなアンナ!」

「だ……だって兄上……」


 段々と青ざめてゆくアンナの口から次はどんな言葉が飛びしてくるのか恐ろしくて堪らず、レンは一度己の耳を塞ぐ。しかしその間にもアンナは小声でぶつぶつと呟いている。


「兄上……兄上……!」

「……なんだ」

「女の身体にはないものが男にはあるのか……? しかもそれで子を作るって……」

「わかった! わかったから一旦黙ってくれ! 姉上の言ったことは全て事実だ。だからそういった話はもう止してくれ!」

「そういった話……?」

「男女の肉体に関する話だ!」


 殺し屋とはいえ、レンにしてみればアンナはまだまだ子供のように無垢で愛しい妹だ。そんな彼女の口からこれ以上、大人のするような話を聞きたくははなかった。


「全く……姉上は何故こんな話を……」

「あたしの将来の為と言っていた」

「将来……ねえ……」


 アンナが次期国王となることがすでに決まっている以上、跡取りを残すことは国にとって重要なことだ。そこに至るまでの知識を身に付ける為にマリーが教育を施したというのは理解できるが、姉の教育には些か偏りがあるように思えて仕方がないレンであった。


「とにかくだアンナ。こんな話、臣下達には絶対にするなよ。弟達にもだ……いいな?」

「わかった」

「絶対にだぞ、約束だ」


 兄と約束をするまでもなく、アンナはこの話を臣下達にするつもりなど毛頭なかった。腹の中では、風呂上がりにシナブルの前で裸を晒すことはもう止めようと決めていたほどである。それほどにマリーが語ったはアンナにとって衝撃的であったのだ。


 兄と向き合うことが酷く不快な現状のせいで、結局アンナは彼と戦闘訓練を行うことが出来ずその場を後にした。その後しばらく自室に引きこもった後、食事もとらずに一人悶々と地下訓練室で筋肉の強化運動に励むこととなった。


「流石に長時間籠りすぎたな……」


 汗を拭いながら訓練室を後にした直後、サンからマリーがおよそ十時間に及ぶ出産を終えたと連絡が入った。シャワーと着替えを済ませ、赤子の顔を見に向かったアンナは直後、生まれたての小さくて赤い儚げな生命体を目にすることとなった。ふにゃふにゃで猿のような生命はアンナにとってあまりにも恐ろしく、なかなか抱き抱えることが出来なかったのであった。




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