第十八話 悪友

 首都フィアスシュムート内の城下町を海沿いに進むと、隣町を僅かに跨いだ所に小規模な歓楽街がある。酒と欲の匂いの漂う大通りの脇道を進み、シナブルは「いつもの店」と指定された酒場へと向かう。古びた鉄製のプレートに記された店名はもはや読むことは出来ないほど錆び付いている。ギギギ、と悲鳴を上げる古びた扉を引くと、シナブルはスナイプの腰掛けるカウンター席の隣へと足を向けた。


おせぇ遅ぇ!」

「悪い。ちょっと出る前に色々あって」

「またいつものお姫様かよ~」


 スナイプ・バーチェルド。くすんだ金髪にエメラルドグリーンの瞳。愛嬌のある目元を、小洒落た丸眼鏡が隠している。制服であるはずの深緑色の軍服のまま、彼は酒の入ったグラスをぐいぐいと煽る。


「シナブル、お前はいっつもそれだ」

「そんなことはない」

「口を開けば『姫!姫!姫!』そればっかりだ。ご本人に言い付けっぞ?」

「はいはい」


 血筋は完全に王族であるシナブルに対しこの態度をとる彼は一体何者か。この酒場にそんな些細なことを気にする輩など居るはずもなく、皆目の前の酒と女に夢中になっている。


「いいのかよお前さあ~、いつも言うこと同じだよな。数少ない友人に対してその態度!」

「こんな俺と友人でいてくれることに対しては感謝している」

「ッカァ~! 惚れさせる気かよこの色男!」


 スナイプとシナブルが出会ったのは数年前。スナイプが仕事──ファイアランス軍の門番をサボっているのをたまたま見かけたシナブルが彼に話し掛けたのか契機であった。出会った当初からシナブルを敬う態度など皆無であったスナイプは、仕事一筋だったシナブルを外に連れ出し酒と煙草とギャンブルを教えた張本人である。


「はあ……スナイプ、最近仕事はどうなんだ」

「折角酒飲んでるってのに仕事の話はしたくねえよ。女の話! 聞くか?」

「興味ない」

「お前が興味あるのは姫様だけだもんなあ」

「……」


 事実ゆえの沈黙であった。シナブルが己の気持ちを口にすることは断じてないのだが、彼のことを良く知る姉や兄、友人からしてみればそれは隠す意味もないほど、わかりやすい感情であった。表面上はあるじであるが故に尊敬し、崇拝しているように見えるのであるが、彼の鋭い目を良く見ればわかるのだ──彼が主を愛しているということが。


「お前もさあ、上手いことやれば姫様を手籠めにすることくらい出来るだろうに──って! いってえな殴るなよ!!」

「お前の言い方が悪い!」

「だってそうだろうが! いつもお側にいるんだろ? 彼女が時々全裸でお前の前に現れることだってあるんだろ? それなのにお前は何もしない! いや、出来ない! 何故だ!」

「身分の差だ」

「いーや違うね! お前は童貞故に勇気がな──いってえな!!」

「余計な世話だ!!」


 赤裸々な会話をしているというのに、この会話に耳を傾ける者は誰もいない。そう広くはない店の中では声を張り上げねば会話が出来ぬほど大勢の客でごった返しているし、何より皆酒に酔っている。他人の話など耳に入る筈がないのだ。スナイプは内緒話をするのに適した店を毎回選んで指定していた。


「姫様がお前に遠慮なしに裸を見せるのは、男として全く意識してねえからか、誘ってるかのどっちかだろ。前者なら襲って子が出来れば勝ち、後者でも襲って子が出来れば勝ち。それならやることやるしかねーだろ。けどお前はどうて……待て待て俺が悪かった!」

「何度も何度も童貞と言うな。一回殴ろうか?」

「童貞なのは否定しねえのな」

「そんなもの、偽った所で何になる。偽りそれが明らかになった時のほうが恥ずかしいんじゃないのか」

「ごもっとも」


 いつの間にやら運ばれてきた酒のジョッキをスナイプは煽る。シナブルも彼に倣ってグラスを煽いだ。


「しかしなあお前、いざ姫様とそうなった時……全く経験ないと恥かくぜ?」

「俺が姫とそうなることを前提で話を進めるなよ」

「わかんねーぜ? 誘ってるかもしんねーって言っただろ? それなのに童貞のままだと……いつか恥かく」

「……そう言われると……そんなんだが」

「だからよおシナブル。いい加減俺がお前に女遊びを教えてやるって、ずっと言ってんだろうが!」


 スナイプは酒が入ると騒がしくなる。いや、普段から騒がしい男であることに違いないのだが、彼が酔うと大声で猥談を始めることがシナブルの悩みの種であった。何かにつけて「女!女!女!」と言う彼を大人しくさせるには、彼の話を黙々と聞き相槌を打ち続ける他ないのだ。

 しかし今回は違った。スナイプはシナブルに酒と煙草とギャンブルを教えた時と同じ、面倒な提案を持ちかけてきた。彼の「教えてやる」は絶対だ。今まで全て「結構だ」と断ってきたシナブルであったが、結局話に飲まれどれにも手をつけてきた。ということは今回も言わずもがななのであった。



(しかし、女……か)



 面倒なことになったとグラスを煽る。別にそういったことに全く興味がない訳ではない。シナブルとて健全な、成人を疾うに越えた男子だ。主であるアンナのことを全くそういう目で見ないかと聞かれれば答えはノー。彼女が自分に裸体を晒した日には、夜な夜な悶々と頭を抱えながら眠るのだ。かといって、主とになる日などくる筈などありはしないと確信している彼からすれば、スナイプの提案は不要なものにしか思えなかった。


「仮にだシナブル。お前が姫様を娶れなかったとしてもだ。お家の為にいつかは嫁を貰うんだろ?」

「まあ、そうだな……」

「そうなった時にだ! いい歳をして嫁さんに『全く経験がないんです』って言えるのか?!」

「それは……」


 自分の将来のことなど漠然としか考えたことがなかった。アンナを側で支える以上、いつかは家庭を持ちその子をアンナの子に仕えさせるのが使命であると認識はしていた。が、いざ「家庭を持つ」という行為が目の前に突き付けられた時、自分は動じることなくその使命を全う出来るのか。


「……なんかお前、真面目なこと考えてねえか?」

「家庭を持つことが、姫に仕える俺の使命……」

「なに言ってんだお前?」

「恥ずかしいものなのか、その……結婚したときに経験がないと」

「乗り気じゃねえか!決まりだなっ!」


 古ぼけたテーブルの上に紙幣を数枚叩きつけると、スナイプはシナブルの手首を乱暴に掴み酒場を後にする。目指すはここから三軒隣の、快楽を金で買う店だ。





「……頭が痛い」


 酔いが回っていないと勇気が湧かないからと言って、シナブルは昨夜移動した先の店で珍しく酒を多く摂取した。よりにもよって相手は短い赤髪の女──ほっそりとスタイルの良い彼女は、「そんなに飲んで大丈夫ですか?」と穏やかな口調で何度もシナブルを止めたのだ。こういう店の女は皆品がない者ばかりなのだろうと思い込んでいたが、彼女はそういう類いの女ではないようだった。名家の出だと言われても疑う余地もないくらい礼儀作法の身に付いている女だった。



(……名前、なんと言っていたかな)



 行為そのものは記憶に残っているというのに、彼女の名前を思い出せずにいた。部屋に通されてすぐに名乗り、頭を下げられたというのに。

 溜め息を吐き頭を横に振る。脳裏に残るほろ苦い夜のことを忘れようとしたというのに、頭痛が増しただけであった。吐き出した息に酒の匂いがまだ少し残っていることに嫌気が差し、唇を固く閉じた。シナブル本人はこの匂いを酷く気にするが、主であるアンナはシナブルがスナイプと酒を飲みに出かけ、帰りが朝になろうが酒が残っていうが文句の一つも言ったことがなかった。

 

 姫に帰城の挨拶をせねばならない──昨夜、初めて会う女とあんなことをしたばかりだというのに──……重い足をのろのろと動かしながら階段を上り、二階の廊下に差し掛かる。やけに騒がしい音に顔を上げると、二階のレンの部屋の中から逃げるように廊下に出てくる人影がひとつ。姿を見ずとも気配でわかる、あれはシナブルの姉マンダリーヌだ。


「はぁっ……はあっ……」


 いつも綺麗に纏められている髪は珍しく下ろされ、乱れていた。不思議と息が荒い姉は、よくよく見れば着衣も中途半端だ。首からかかったままのネクタイを結びながらシナブルのほうへ爪先を向けた、次の瞬間。


「しっ……シナブル!?」

「おはようございます、姉上」

「な……な、な、なんで、その、これは……!」


 いつも冷静な姉がここまで取り乱す姿を、一度でも見たことがあっただろうか。そんな彼女を宥めるように、シナブルは落ち着いた態度を崩さぬまま言う。


「友人と酒を飲みに出ていたので、帰城の挨拶をアンナ様に」

「……そう」


 息遣い、髪、着衣──全てが乱れた姉の姿に、シナブルはただただ驚く。数時間前の女を知らなかった自分でさえ、姉のこの状態を見れば何があったのか理解することくらいは出来ただろう。──が、姉が出てきたのは彼女の主であるレンの部屋であった。おまけにこんなにも取り乱した状態で。



(まさか、無理矢理──?)



 相手がレンであれば、気もしてきた。未だ特定の相手も作らず、頻繁に相手の変わる男だ。常日頃から傍に仕えるマンダリーヌを味見してみたくなったのだと言われれば、納得出来ないことはなかった。


「姉上、シナブルは何も見ておりません」

「……え?」

「まだ酒が残っておりますので、何のことやら理解も出来ません」

「……ごめんね」


 顔を伏せ逃げるように走り去った姉は自室へ向かうのだろう。何故彼女が謝るのか、シナブルには理解が出来なかった。




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