夕紅とレモン味
夢月七海
Ⅰ
地平線の彼方へと、太陽がゆっくりゆっくりと沈んでいく。
目には映らない光が、赤茶色に広がる大地を、さらに激しく燃え上がらせて、両側に控えるごつごつとした岩山に、夜よりも深い影を落とさせる。
「こういう光景を見ていると、地球は丸いんだってことを意識させられるよ」
「機長、ロマンチストですねー」
半円を描いた地平線を眺めた僕の独り言に、隣の副機長が苦笑を浮かべた。
「私たちはいつも宇宙から地球を見ているから、別段意識しなくてもいいでしょうに」
「確かにそうだけどさ」
もっともな彼女の言葉だけど、僕は反論したかった。
目の前のフロントガラスは紅一色で、少しずつだが太陽が下へと動いているのを見ると、「地球」は丸く、確かに動いているんだという実感を抱ける。
僕は陽炎のように揺らめく太陽に目を細めながら、座席に深く座り直した。
地球上空港三十七番はこのシャトル以外の機体はなくて、珍しく静かだ。
他惑星からの要人が地球へ来る際に利用するこのプライベートシャトルは、宇宙ステーションから飛び立つジャンボシャトルとは違い、直接地球へ降り立つことが許されている。
ただ、地球への離着陸は気象などに強く影響されるので自動運転だけでは対処できず、昔の飛行機のようにパイロット二名がコックピットへ乗り込むことになっていた。
出発準備は整って、さあ後は要人が登場してから離陸だと思っていたら、あちらの用事が長引いて、そのまま待機が命じられた。
隣の副機長は退屈そうに伸びをしているけれど、僕は日没の瞬間から目が離せなくなっていた。
丸い太陽は、熱しられた空気の影響か、ゆらゆらと揺れ動いているようだ。こちらは冷房が効いているけれど、外は四十三度以上になっているはず。
僕が生まれた星にも太陽があったが、それは人工のもので、初めて本物を見たときは地球をも飲み込んでしまえる大きさに圧倒されてしまった。
北側から風が吹いてきたのか、赤い砂がふわりと舞い上がって太陽を隠した瞬間に、フロントガラスの上でメッセージが一件受信されたことを知らせた。
副機長がそちらに向かって、「開いてください」というと、そのメッセージが画面いっぱいに広げられる。
『タチキ:何か飲み物をお入れしましょうか?』
添乗員からのメッセージだった。これを見ると、要人の到着はさらに伸びているのかもしれない。
「アイスコーヒーをお願いします」
「僕は、レモン水で」
副機長と僕の言葉がメッセージとして表示され、すぐに送信された。
そのすぐ後に、副機長はにやにや顔でこちらを見た。
「機長はいつもレモン水ですね」
「君だって、毎回コーヒーじゃないか」
「当たり前ですよ。天然コーヒーを無料で飲めるチャンスはそうそうないですから」
「いや、地球産レモンで作ったレモン水も、なかなか貴重だよ」
いい歳して、彼女と張り合ってしまう。僕は小さくため息をついた。
「別にいいじゃないか、人の好みなんだし」
「まあ、そうですよね」
こっちが折れたので、彼女はちょっと得意そうだった。
飲み物が届くまでまだ時間があるので、副機長は腕のストレッチをしながら口を開く。
「今日、新人の搭乗員さんでしたけれど、顔見ましたか?」
「うん。乗る前に挨拶したよ」
僕は物腰の柔らかい男性添乗員を思い返しながら答えた。
真っ黒い瞳と同じくらい黒い髪が印象的だった。
「彼、日本人だと聞きました。珍しいですよね」
「うん、そうだけど……」
名前を聞いた時点でそれは分かっていたのだが、彼女の言い方に多少むっとしてしまった。
「僕の母親の方も、ルーツは日本人だよ」
「あ、そうだったんですか?」
副機長は驚いた顔をして、こちらをじっと見つめた。
言われてもそう思えないだろうということは、何となく察しがついた。
「知らなかったです」
「今時、人種の話とかするのはやめた方がいいよ」
「本人いないからいいじゃないですか」
副機長が率直にそう言ったタイミングで、ぴこんと音がして、僕らが座っている座椅子の間のドアが開いた。
コーヒーとレモン水のカップ二つがのったトレイを持った添乗員が、ドアの向こうに立っている。彼と目が合った副機長が気まずそうに顔をひきつらせた。
「あ、今の話、聞こえていました?」
「何のことですか?」
彼は、本当に気付いていない様子で、にこやかな表情を崩さずに、僕にレモン水を、副機長にアイスコーヒーを手渡した。
「ありがとう」
「わざわざ持ってきてもらうの、悪いですね。ワープ装置がついていたらいいのに」
「テロ対策で設置していませんからね。こういうのが私の仕事なので、気にしないでください」
最後に一礼して、添乗員はコックピットから去っていた。新人とは思えない丁寧さに、好感が持てる。
副機長は早速一口コーヒーを飲み、「おいしーい」と目を細めた。
「この味を知ってしまったら、人工のものなんて飲めなくなりますよ」
「確かに、あれは苦すぎるよね」
僕は頷きながら、レモン水を飲んだ。
果実の爽やかな酸っぱさが砂糖で中和されて、舌にはっきりと残っている。あくまで水そのものの味を損なっていないのが、本当に素晴らしい。
「……そう言えば、さっきの添乗員さんが機内を掃除しているところを見かけたんですけど、なんか、変な歌を歌っていましたよ」
「どんな歌?」
「日本語だったのでわからなかったんですが、本人に聞いてみたら、カラスという鳥の歌だと言っていました。機長は知っています?」
「いやー、多分知らないかも」
僕自身、日本語は全く分からない。祖母は日本文学を大学で研究するくらいに達者だったらしいけれど。
ただ、日本の歌を翻訳した曲は、いくつか聞いたことがあった。
確かその中に、レモンに関する曲もあったんじゃなかったっけと、わずかに黄色い水を眺めながら記憶を探る。
それは「初恋は レモンの味」という歌いだしから始まる曲だった。言いえて妙というか、初恋を思い出してみると、酸っぱい気持ちも共に甦る。
僕の初恋は叶わなかった。他の星に引っ越してしまうあの子に、何も言えなかった幼い自分の姿が脳裏に浮かぶ。
しかし、目の前に広がるのは真っ赤な夕日だ。僕が妻へのプロポーズをしたのは、夕焼けの中だったので、初恋と結婚を同時に思い返して、妙な気持ちになる。
「機長、お土産何か買いましたか?」
「うん。娘へのおもちゃを」
「そういえば、娘さん、いくつなんでしたっけ?」
「もうすぐ六歳だね」
副機長と会話を交わす一方で、先月に娘へレモネードをお土産に持って帰っていったことを思い出していた。
娘にとっては、本物のレモンの味はまだ早かったみたいで、「酸っぱい」といってすぐに返されてしまった。
「ああ、もう夕日も沈んでしまいましたね。私、夜の中を飛ぶのはちょっと苦手なんですよ」
「君も長いんだから、そろそろ慣れなよ」
彼女の言う通り、あれこれしている間に太陽はそのつむじの部分までを、地平線の向こうへと引っ込めようとしていた。
東の方から迫ってきた夜は、天球を黒く塗りつぶしていって、小さな星を散りばめている。
「でも確かに、夕日が終わるのは名残惜しいね」
あの日、結婚しようと震える声で告げた僕に、人工太陽の投げる紅色に照らされた彼女は、はにかんだまま頷いてくれた。
レモンの酸っぱさを飲み込んだ後でも、あの瞬間の喜びに浸っていられる。僕はそんな夕暮れの時間が好きだった。
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