Thymos

砂樹あきら

第1話

「人が旅をするのは到着するためではありません

それは旅が楽しいからなのです」 by ゲーテ




風が強い。大型の台風が接近中。フェーン現象で暑さがぶり返した。

空は抜けるような青さなのに、気温は真夏のそれだった。

日本で迎える何度目かの夏。香港と同じ湿度。香港より低い気温。2つの国の間で生きる僕。

僕はこの国が好きだ。みんな優しい。生まれて「これ」しか能の無い僕にすら優しくしてくれる。だから…。

鳳龍は額の前に右手を差し出してひさしを作った。頭のほぼ真上に昇っていた太陽がようやく傾き始めた。昼間と夕方のちょうど中間の時間帯とでも言おうか。

「今日も、暑いかったなぁ」

円照寺の住職、葛巻國充に頼まれたお使いのために鳳龍は山形県を目指していた。ヒッチハイクをしながらの旅である。先程まで乗せてもらった車を降り、運転手のおばさんに丁寧にお礼を言って別れたところだ。

長い黒髪を三つ編みにし、1つに束ねてある。歩くたびにそれが背中にあたりながら弾んでリズムを刻む。黒いチャイナ服に身を包み、黒いボクサーバッグを肩にかけて、ところどころ穴が空いたアスファルトの道を歩いて行く。風景は都会ではなく、いわゆる田舎のそれだった。曲がりくねった道路の途中に家々が点在している。道路の両側は緑の濃い里山だった。深呼吸すると緑のむせ返るような匂いがした。

「さてっと、陽が落ちる前に今夜の寝場所を見つけないと」

右手の人差し指を口元に当てて、ちょっと考え込んだ。野宿するのが当たり前の生活のようだった。たどり着きたい場所は決まっていた。人がなるべく近寄らないような場所。自分一人で居られる場所。人に怪しまれないところだ。

「近くに神社かお寺があればいいんだけど」

鳳龍は歩きながら、道路に沿って視線を走らせた。神社の紅い鳥居やお寺ののぼりを探していた。

(ま、このまま進めば何かはあるだろう)

なければないで気にしない、細かいことはこだわらないというように独り微笑んだ。



道路に沿って1時間ほど歩くと日も暮れ始め、辺りも薄暗くなって来た。気温も少しずつ下がり始めている気がした。ほんのり涼しい風が吹くようになってきたからだ。

鳳龍は道端にあったエノコログサを一本引き抜くと指揮棒を振るように楽しげに振り回し始めた。ふわふわした穂先が右に左にしなっている。まるで猫じゃらしだ。

彼はこの時間帯が好きだった。逢魔時。何に出会うかわからない。昼とも夜ともつかないこの時間帯が好きだった。自分とは違う「何か」に出会える時間帯だからだ。

彼は深呼吸して夕闇が迫った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ほんの少し秋の香りがした。季節が確実に巡っていることを感じた。

(トンボも飛んでるし、この辺りは山だから季節も一歩先かな?)

ふと、彼の足が止まった。

(あれ…?何だ?)

声が聞こえた。しゃくりあげる嗚咽。小さな小さな泣き声。声の方向は右手の鬱蒼とする林の中からだった。街灯もないので、真っ黒にしか見えなかった。鳳龍は迷わず声のする方向へと突き進んだ。

声は段々と大きくなって聞こえる。ようやく人の気配がするところまで近づいた。

「君、どうしたんだい?」

鳳龍は顔も見えない目の前の女の子に声をかけた。

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