第三節 ◆湖・星の涙3/隔靴掻痒
大きな水飛沫を上げて破軍が湖・星の涙へ墜落してから、その時間わずか数分ほど後のことだった。
静まり返っていた水面に向かって勢い浮上したアルテミスは、急ぎ喘ぐなかマスク型ステラ・メティスを乱暴に剥ぎ取ると、脳へ途絶えていた酸素欲しさに大きく空気を煽る。毒性瓦斯の発生の中心だと考えられるこの湖において、それは命取りに等しい行為ではあった。しかし、背に腹は変えられない。アルテミスが持つ規格外の肺活量を最大限に稼働させても、肉体の基本構造は人間と同じ。つまり、破軍・アルテミスにも限界はあるのだ。冷たい水に浸かったままではいずれ低体温症の恐れが生じることから、破軍は足で水を大きく掻き蹴った。
高い防護性を誇るステラ・アマルテア。重厚な見てくれの割にはその実、軽量でいて、破軍の怪物じみた機動力および戦闘の妨げにならない機能を有していた。
……だが、今はどうか。羽毛の様に軽かった具足は隙間に入り込んだ水の重さも合わせ、鉛の如く破軍を封じる枷そのものと化していた。
生き汚く泳ぎ切ったアルテミスは、拓けた湖岸にたどり着く。そして重い体を引きずって咳き込むと、四つん這いになって飲み込んでしまった大量の湖水を吐き出した。濡れそぼった衣服や肌にまとわりつく長い黒髪——それをぞんざいに掻き上げたその面持ちは、厳しい焦燥に歪んでいた。浜の白い石灰質の砂が、アルテミスの血液混じる吐瀉物によって薄桃色に染め上げられる。
酸素不足に加えて体力低下に陥っていたアルテミスは、腰元に納めていた短剣で右太腿脇を突き刺した。流れた血の熱さとじわじわと迫り上がる痛痒が、混濁する意識を明瞭なものへと覚醒させる。
陽の高さから、現在いる位置は南湖畔だとアルテミスは推測した。あれだけ調査前に皇帝ユピテルから注意されていた湖への接近——不覚とは言えども、こうも早くその禁を破ったことに、空を仰いで心中かの親友に詫びる。太腿から引き抜いた短剣の刺し傷は瞬時に回復した。落下時の損傷も跡形もなく、いつもと異なる肉体の異変といった様子はない。念のため全身をくまなく弄りながら、アルテミスは自身の五体満足を確認したのち、怠っていた警戒に意識を集中させた。
——湖上に細波立つ音が、静寂をより際立たせる。
アルテミスは、自分でもおのれが命冥加な奴だと驚いていた。暴走したベテルギウスによって吹き飛ばされた落下先が地面ではなかったこと。そして何より——。
「湖水には毒があるって言ってたよな……?」
ユピテルの慎重な忠告は、余程の真実性と裏付けがあるからこそのものだ。しかしアルテミスはこの通りピンピンしており、今の時点で特にこれといった症状は皆無だった。天士さえも死滅させる猛毒の湖にしばらく頭まで浸かっていたばかりか、水まで飲んでしまったというのに——。
「本来ならば危険だろうが、ここはいざ物は試しと行ってみるか。……怒るだろうからポラリスには黙っとこ」
波打ち際まで向かったアルテミスは、籠手を外して水を掬う。素手で触れてはみたが、特に痛み、痺れや爛れはない。次に、舌先で舐めて口に含む。
……無味無臭。藻による多少の青臭さはあるが、純然たる淡水だ。
「飲み込むのは……いや、やめとくか。さっき吐くほど飲んだし……。しかしユピテルの奴と聞いてた話が違うが、これは——」
思案に更けていたアルテミスの背後に、突如として轟音が響き渡る。白い砂煙の中、現れたのは見覚えのある銀碗の大男だった。
「追いついてきやがったってわけか、ベテルギウス……!」
破軍を追ってクレーター縁を登り、飛び降りてきたと思われるベテルギウス。彼は全身草土まみれに荒れ、血走った右眼が獲物を逃さんと黒髪の戦士を睨めつけた。その様子から、アルテミスはベテルギウスがまだ我を失っていることを窺い察し、舌打ちを溢す。
獣のように疾走するベテルギウスを、破軍も貌あるその顔を崩し修羅と徹して立ち向かった。
——二つの咆哮が湖畔を震撼させる。
転がる肉団子になって殴り合う二人の攻防に決着がついたのは、意外やほんの一瞬だった。体格差に優位性があるベテルギウスは、馬乗りになると左腕で破軍の顎を割り砕く。しかしアルテミスもまた、組み敷かれたまま相手の思うままにされる器ではない。息の束ねに啀みかからんとする隻眼の男へ、顎の傷が再生途中であるにも構わず強烈な頭突きを喰らわせた。そして隙を作ったのち、腰を浮かせて下半身を大きく捻ったと同時のタイミング——ベテルギウスの下顎を目掛けて、その脚で蹴り上げたのだった。
「しまった……!」
顎骨が砕ける鈍い音を出して吹き飛んだベテルギウスの元へ、アルテミスは急いで駆け寄った。
……蹴り飛ばした衝撃で外れた、ベテルギウスのマスク型ステラ。白目を剥いて泡吹く彼の口元へ、拾ったマスクを着け直そうとした刹那——。
……どうして今まで気づかなかったのか。アルテミスは焦りと嫌な予感に胸を掻き毟る。
“——腐臭が、濃くなっている。“
辺り一帯に立ち込める……腐った蛋白質の放つ、鼻が曲がるほどの臭気。そして、その中に混じる独特のものには、破軍が知るあの甘い芳香があった。
此度の敵性天士は、陰湿性を持つことをいやでも理解していたというのに——否。これもまた、天士の策なればこそだと言えよう。……判断能力の低下、興奮作用の誘発や仲間割れによる殴り合い。その血臭に紛れて、敵の接近を許してしまった自身の軽率さにアルテミスは後悔した。
既に顎が完治したベテルギウスに、マスクを装着させる。……マスク型ステラが、ほぼ効かないであろうことはこれまでの結果から承知していた。だが、多少なりともマスクの必要性有無に限っては、着けておいた方が毒性瓦斯の影響を低く抑える可能性があると見たためである。
……いよいよ腹を括ってゆっくりと振り向いた破軍は、広がる眼前の状況に戦慄を覚えた。
アルテミスたちを取り囲んでいたのは、腐った肉塊の集団だった。ざっと視認できるだけでも二〇体近くはいる。意味もなくふらふらと身体を揺らし、腐敗瓦斯による呻き声なのか噴出音なのか判別がつかぬ音を立てて腐肉が弾ける様は、彼らへの不気味さが余計に増していく。脚と思しき肉柱が一歩、一歩と踏み出す度に。……ぼたぼたと滴り落ちる腐汁が、白い砂浜を穢していった。酷く鈍足ではあるが、肉の円陣はじりじりと、確実に迫りくる。
……およそ生前は罪人だった者。または、かつてユピテルに敵対し征伐された天士だった者。躯体大小様々なれど、共通していたのは背より生えた例の肉腫だった。成長し切った肉種は、細く長く天に向かって屹立する。肉腫によって融解して尚、まだ肉の原型を保った蠢く異形共がそこにいた。……もはや、生き死にの枠に当て嵌めていいものかすら疑われる。
それらは、まさに生ける屍と例えるのが正解だった。
「……長居はすべきじゃなかったなぁ」
そうヘラついて愚痴をこぼしつつ、アルテミスは腰元の革鞄に手を回す。取り出したステラ・パンドラは、ギッチリ防水加工用に包装を施されていた。……万が一、湖へ赴くことになった場合を想定し、スピカが備えとして準備してくれていたものだ。
翳したその手に納まるように、機械仕掛けの瑠璃匣は選出した金の粒——ステラをアルテミスに授けた。命綱と言っても過言ではないステラ・パンドラが無事だったことを確認して、アルテミスは安堵に胸を撫で下ろす。
……だが。この危機的状況を前にしても、ステラ・パンドラは沈黙を貫いていた。
「一抹の不安はあるが、致し方なし。……実はこう見えて、対多人数戦闘は得意でね。悪いが、この破軍・アルテミスと貴様らノロマ——どっちが最後まで保つか、我慢比べといこうじゃあねえか……!」
アルテミスは、悠然と斜に構えた剣型ステラ・フェンリルを振るった。
しかし——
「……………………は?」
驚愕がアルテミスを襲う。腐乱する肉の汚物を斬ったはずの剣は、切先からその金の輝きを失い、赤黒く溶けて灰塵と化していた。
……上級鍛位・黄金のステラが、瞬く間に腐食に侵されたのである。
「オイオイオイオイオイオイ……ッッ! 知らねえぞ、こんなの!」
ステラ・パンドラが、アルテミスへ下がれとでも言いたげに控えめに赤く点滅する。すぐさま肉たちから距離をとったアルテミスは、倒れ込むベテルギウスのもとへ慌てて駆けつける。
ステラの浸食と分解。文字通り「特別製」の素材でできた、星砕く——天士を屠るその武具は、惑星ガイアの自然法則から逸脱した結晶であるが故の「とっておき」だ。それが、土へと還元されるなどとは……。
——ありえないことが。あってはならぬことが、今まさに目の前で起きている。
アルテミスは、淡く赤みを帯びて発光するステラ・パンドラを庇うように腰元へ隠した。
脅威度の高い天士と相対したならば……普段であれば、直ちに警告を促してくれるものを。前回のエピメテウス戦の時といい、使用者たる自分に危険が迫ろうとも無反応だったその理由にアルテミスは納得する。
天士はステラでしか倒せない。天士同士の争いの場合では、敗者となった下位の天士が命を落とすことこそあれど。……現状において、人間が天士を相手取るとなると、ステラ以外に対抗手段はこの世に存在しない。それが——。
「天士を殺す、そのステラを殺す天士の紛い物……ってか。ハハ、そんなん…アリかよ……」
洒落にもならぬ事実を口にしたアルテミスに、諦念より苦笑が思わず滑り落ちる。
「さあて。周りは未確認脅威に囲まれ、脱出は困難。——そこのおっきなネコチャンは俺がボコボコにしたせいで伸びちまったし、庇って戦うにしてもステラは使えない。おまけにパンドラちゃんはダンマリときた。どうすっかな……」
それに加えて、強烈な腐臭と毒瓦斯による芳香の思考妨害も畳み掛けてくる。進退谷まるここで、乾坤一擲と先駆けて行くには愚行も等しい。
嵩圧しで無理を通そうとしても、あの肉腫の成長具合から見て天士・エピメテウスやザウラク公のように意思疎通は困難である。
危殆に瀕する事態に、アルテミスの心が挫ける寸前。
——彼らの前に空から馳せたのは、翡翠に輝く一条の光だった。
「アルテミス様! お早く……!」
「スピカ……ッッ!」
降り立った少女——スピカが必死に呼ぶ声のままに、アルテミスは気を失ったベテルギウスを担ぎ上げて駆け走る。彼女が操縦する銀に輝く飛行重機型ステラに乗り込んだアルテミスは、スピカに心から礼を告げて敵の腐敗浸食が及ぶ前に離脱するよう指示をした。
離陸する飛行重機の荒風が、青き湖面を大きく波立たせる。
これまでにない窮地を脱したアルテミスは、長くて深い嘆息を漏らして臍を噬む。
「——一時撤退だ」
そう小さく憎らしげに呟いたのち、破軍は機内より遠ざかる湖を見下ろした。
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