第十一節 ◆諸刃の剣/その手が握るもの

 回想は、ザウラクを慟哭の旭日へと呼び戻す。


 星剣会議当日――。春の陽光を浴びて白亜に輝くアイギス城。清澄なる空気に満ちたその朝は、新しき七つの剣――その一振りの着任を祝して讃えていた。

 しかしその祝福も、栄光も、今は鬱陶しくて仕方がないとでも言いたげな厳しい面持ちで回廊を歩くザウラクは、やがて剣の間に辿り着く。木製の重く厳かな扉に手をかける。押した扉から女の嬌声にも似た不気味な軋みを上げたその音は、ザウラクの心中へさらに不穏な闇の一滴をもたらした。


 一人の男がいた。


 乳白色の壁が四方を囲う、大理石の床に敷かれた朱い絨毯が映えるその広間の奥。金糸で刺された七つの七星剣章。それらを繋いだ一本の線によって柄杓型の紋様が描かれた、剣の形を模した白絹の大旗が下げられた壁。その前の壇上に、白亜の法衣に身を包んだ青年は佇んでいた。

「ああ、流石はザウラク殿。時間通りに来てくれた」

 ザウラクを待っていた青年――皇帝ユピテルは、訪問者を優雅な微笑みで歓迎する。

 ……剣の間にいる者は、ユピテル帝とザウラクの二人のみ。勿論、ユピテル帝が手配したことに間違いはない。だが、この密会に対して当初の予定に入っていた人物が一人欠けていた。


 ――ザウラクの娘、アルフェラッツ。

 ザウラクは七星剣を拝命するにあたり、ユピテル帝に一人娘アルフェラッツと会わせるよう要求していた。ユピテル帝の下に嫁いでいったアルフェラッツは、月に一度ザウラクへ手紙を書くと約束していたのだ。

 ……しかし、ザウラクにそれが届くことは無かった。

 あの親思いの娘が、父との約束を忘れるはずもない。心配になったザウラクは自分から手紙を王宮へ送るなどしたものの、半年の間、その返事が彼の元に届くことは一度も無かったのだ。

 娘の身に何かあったのか――。ザウラクは一抹の不安を胸に抱きながら、剣の間に足を踏み入れた。

 だが、そこに現れたのはユピテル帝ただ一人のみ。否定したかった「まさか」が、惧れが的中する。……恐怖よりも怒りが、疑念が、ザウラクの不安を塗り替える。

 半ば我を失ったザウラクは、皇帝へ「約束を破ったな」と詰め寄った。ところが、その剣幕に臆することなくユピテルは小首をかしげた。

「――破る?……私が?……貴公との、『約束』を……?」

 ザウラクは自身の発言をすぐさま後悔した。皇帝の様子が、がらりと変貌する。穏やかな笑みを湛えていたユピテル帝。

 ――その金の瞳から、面持ちから、一切全ての感情が消え失せた。

 あまりにも不気味な異様さに、ザウラクの心に再び恐怖が蘇る。

「……それは違う。それは違うよ、ザウラク殿。……このユピテルが、『人との約束を破る』ことは有り得ない。――決して、そのようなことは、天地が返ったとしても、覆らない」

 少しの沈黙の後にそう断じたユピテルは、ゆっくりとザウラクへ歩み寄る。……身長・体格差は当然、細身のユピテル帝と比較するまでもなくザウラクの方が上回っている。

 しかし、眼前の青年――ユピテル帝は、巨大すぎた。見かけ上では推し量ることができない、『存在』と、そして『生命』としての質量が、遥かに何者よりも圧倒、超越していた。

 ”……今、自分のすぐ目の前にいる存在は、いったい何者なのだ——。”

 忘却の淵より、再び若かりし時のあの違和感が脳裏をよぎる。

 畏怖、そして未知の圧力に茫然と固まるザウラクのその手を、困った顔をしたユピテル帝はおもむろに握る。……ザウラクの武骨で太い手に優しく絡められた白亜の細指が、大窓より射し込んだ陽光を反射して煌めいた。

「――まったく、貴公は仕方がない方だ。……見るがいい。検めるがいい、ザウラク殿。貴公の娘はここに――今、この瞬間にも、しっかり貴方の目の前にいるではないか」

 そう、子に諭すように語り掛けたその美しい笑顔は、もはや人のものではなかった。

 恐ろしさのあまり絶叫したザウラクは、腰に帯びていた剣を抜いてユピテル帝に斬りかかる。半狂乱のうちに振るった剣の狙いはその両手からは外れたものの、皇帝の切り裂かれた法衣の胸元が露わになる。

 白亜に輝く、渦巻く命によって練り上げられた星の玉体――。

 ……その『両手』の懐かしき温もりを、気配を――彼は、忘れたことなど一度もない。

 全てを察したザウラクは、残酷な真実に打ちのめされた。

 騒ぎを聞きつけた二人の皇子が剣の間へと駆けつける。逃げたザウラクを追わんとするシリウスを止めたユピテル帝は、去ったザウラクを引き留めようとした手を虚しく下げる。

「……待ちに待っていた再会だったのだろうに。『親と子の絆』とは、未だに我が得た知識のみでは解せぬものか――」

 ユピテル帝は、至極残念そうにその手を――白亜の籠手を見つめて小さく呟いた。



 走馬灯から意識を取り戻したザウラクは、うわ言のように自らの有り様を嘆き、煩悶する。

「……我輩は、間違っていない…間違っていなかったはずだ…。間違っていなかった、はず、なのに……。……いったい、どこで、道を外れたのか……」

 ザウラクの肉体は、既に崩壊していた。上半身と下半身はステラ・イアペトスの威力によって分断させられ、辛うじて皮一枚で繋がっている状態だった。風穴を空けられた胴の向こう先には、吹き飛ばされた肉腫が無造作に転がっている。宿主を失い、微弱に痙攣する黒い塊。

 アルテミスは萎びたそれを掴んでずるずると引きずると、ザウラクの目の前に乱暴に落としてみせ、彼にようやく肉腫の存在を認識させることができた。

 悲哀を滲ませた夜闇の双眸でそれを確認したのち、アルテミスはステラ・イアペトスの穂先を肉腫に突き立て、とどめを刺した。自らが侮辱したエピメテウスの骸――その意趣返しに、ザウラクは既に潰れていた声で虚しく笑う。

 ザウラクの命は文字通り、風前の灯火だった。水分が失われ乾燥したその肌と肉は、徐々に骨を残し粉末状に崩れていく。

 アルテミスは、崩れ行く巨体の傍らに落ちていた剣を拾い上げる。見事なまで強く美しかったザウラクの愛剣。その柄は傷つき、刀身もところどころひび割れ毀れ落ちており、今にも主と共に砕け散ってしまう寸前であった。

「――ザウラク公……貴公はさ。無駄に大きくて、堅物で頑固者だがとにかく真面目な男だ。不思議な安心感を人に抱かせる。それでいてどこか不安定で、放って置けなくて……そんな公だからこそメラクの領民たちは皆、貴公を慕っていたのだろう。だが、貴公はどんなに親しくなっても、常に”治める者”の側にあった。……民の目線に立つことが、できなかったのだ。

 ……その目線は、あの男も同じだ。民と同じ土俵に立とうとすら思わぬ者が、ユピテルを皇帝の座から引きずり落せるわけがない」

「く、は、はは、ははは……。笑わせてくれる…。貴殿も…所詮は、人の理の外に連なる者だというのに……くく、人の道を…説く…とは、な……」

 アルテミスの沈黙を前に、呼吸もままならず咳き込むザウラク。その様子を見据えたアルテミスは、ステラ・イアペトスとステラ・フェーベをパンドラへ収め、代わりに彼の愛剣をその手に構える。……切っ先を下にした冷たい刃が、横たわるザウラクの首の後ろ――その付け根へ静かに当てられた。

 もとより肉腫によって死んだ神経。ザウラクにとって、今や肉断つ刃の鋭さと恐れを感じることはできない。

 ……しかし、肌の触覚を失っていながらも、その場の空気、対峙する両者の息遣い、張り詰めた緊張感――。そのどれもが、生死を賭けた命の奪い合いが、未だにザウラクに馴染み深いものであると自覚させられる。忌むべき懐かしいその感覚に酔うように、ザウラクは赤銅色の瞳を朝陽に輝かせた。

「……破軍・アルテミスよ。白亜の雷帝はかつてこう言った。『人類の負債は、全て自分が背負ってみせよう』、と――」


 ――憐憫。嫉妬。噓偽り。憤怒。憎悪。堕落。傲慢。強奪。悲哀。差別。諍い。

 ……数えれば限りがないほど、人には必ず悪心――つまり、悪性が常在している。それはどんなに立派な善人であれ、聖人であれ、人の全ての悪性は決して切り離すことができない。


 とどのつまり、悪性と善性は常に表裏一体だからだ。


――悲哀を解する心があるからこそ、人は悲しむ者に寄り添えることができる。

――憎悪を知る心があるからこそ、人は諍いを繰り返さぬことができる。


 それら全ての悪性を――人類の負債を全て背負うと言った皇帝ユピテル。彼という超常の怪物が、悪性とみなしたものを次から次へと摘んでいった先の、彼の統治する世の果てに残るのもの。それはもはや、進むべき道を鎖された、停滞した世界そのものだ。

 理想を突き詰めすぎた世界には、およそ人間なぞ唯の一人も存在できやしない。

 ――否、そもそも白亜の雷帝の正体が人を滅ぼす天士なればこそ、彼の行動は天士という生命の存在理由として至極当然であるといえよう。


 ――故に、明日に敗れた男は問う。


「……貴殿は、背負えるのか。一代であの皇帝ユピテルが全て背負ったものを。民のひとりも失わずに、ただ一人で背負うことが――」

 朦朧とした意識の中、ザウラクはアルテミスの返答を待つ。……彼に残された時間は、わずかばかり。

「――俺は、それを背負うことはできない。だが、あいつを止めなければ、ユピテルは永久にこの先の自分たちが担い、克服すべき苦難を、犠牲を積み重ねながら受け入れ続けることになる。

 『正しき人を』と願う奴の行いを――俺は正しくないと考える。ユピテルの背負った負債は、ユピテルにしか返せない。でも、その代わりに俺は……友の業を全て、背負ってみせると約束しよう」

 そう決然と約束を結んだアルテミスを、ザウラクは驚愕の眼差しで見つめる。それを合図に、アルテミスが握りしめる剣に力が籠められた。

「時間はとてもかかるだろう。……だけど、友達なのだから。――あいつにとって、俺はこの世界の、この宇宙の中でただ唯一無二の友人なんだ。

 ……何年も、何十年も、何百年も、千年を超えた先の向こうにだって……あいつが犯した業は、全部このアルテミスひとりが背負っていこう。後にも先にも、決して他の誰にもくれてたまるものか。だから――」

 そう言い詰まったアルテミスの瞳に飛び込んだのは、苦悶も、怨恨、悲嘆も既に消えたザウラクの微笑――。死の間際にしてその実に穏やかな顔に、アルテミスは堅き誓いを振り下ろす。


「……ユピテルを倒せるのは、この破軍・アルテミス――ただ、一人だけだ」


 赤々と燃える朝焼けの空。赤銅色の瞳の奥に、その赤は懐かしき愛を滲み映す。

 あの日の夕焼けと同じ、遠い、手を伸ばしても決して届かぬことができない赤。……そのどこまでも続く虚空に、跳ね飛ばされた男の首は舞う。

 地に落ちる前に凪いだ風は、ザウラクの首を、そして骸を砂塵と化して地に還す。

 落ちて転がった男の頭蓋骨。その側には、かの傷んだ剣の切っ先が、彼の黒ずんでひび割れた額の骨肌に優しく口付けた。


 ザウラクの愛剣、『カーフ』――愛した妻の名を刻んだ、彼の宝。

 亀裂が入ったその刀身は、役目を終えると主人と共に荒野の丘に砕け散った。

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