第十節 ◆毀れた刃3/凶闘 アルテミス

 切断されたザウラクの右腕――残骸は、黒く濁った飛沫を上げながら宙を舞う。


 その血はやがて弧を描いて落下すると二回ほど弾み、肉の溶ける音と共に自らの汚泥によって呑み込まれ、静かに底へ沈んでいった。

 それを呆然と眺めたザウラクは、失った片腕とアルテミスの姿を交互に見遣る。

 ――痛みは、無かった。

 腐敗によって壊死同然の右腕は、痛痒すら感じない。……そのこと自体は、既に今の彼にとって些事である。

それよりもザウラクが信じ難かったのは、アルテミスが己の手を拒んだという事実そのものであった。

 予期していなかった峻拒を示した解答に、ザウラクは忘我のまま驚愕に声を震わせる。

「な、なぜ……?なぜだ、破軍…!なぜ…どうして……!」

「……俺には、その手を取ることはできない。ご自身の姿もろくに見えぬ方に我が命を、民を――我が友の業を。……どうして捧げることができましょうか」

 アルテミスは、変わり果てたザウラクへ憐憫の情の目を以って相対する。

 光は集束し、先程ザウラクの腕を跳ね飛ばした剣――ステラ・アドラステアが、アルテミスのその手に再び顕現する。

「血迷ったか、破軍……!」

「血迷ったのは貴公の方だ、ザウラク……ッ!!」

 激情のあまり叫ぶザウラクを、アルテミスはその咆哮と共に刃を以って斬りかかる。

 ――形勢逆転。油断により懐への接近を許してしまったザウラクは、今度はその左肩の付け根ごと両断された。

 だが、これ以上ザウラク――宿主の損傷を減らそうと、肉の天士が再生能力を発動させる。切断された傷口からは上腕骨が形成され、すぐさまそれを覆った肉の形は人の腕とは世辞にも言えぬ。闇に露わとなった触手の蔦は、びちびちと痙攣し汚汁を撒き散らす。

 ――恨み骨髄に徹す、とはよく言ったものだ。

 ……ザウラクは、傷つけば傷つくほど『人』であるが故に『人』から遠ざかっていこうとしていた。

 当然、アルテミスは逃さない。怜悧を湛えた清廉な顔から一変、牙を剥いた獣の凶相でがら空きになった急所へ再びステラ・アドラステアを刺し突つ。

 ステラ・アドラステアの薄刃はいとも簡単にザウラクの左脇の下、鎧の隙間から入り込むと鎖帷子を貫通し、その下の肉にすぐさま届く。……筋肉の繊維が引き千切られて悲鳴を上げる。

 アルテミスはザウラクの重い左腕を吹き飛ばすべく、突き刺さる剣を振り上げる瞬間にステラが内包していた星の熱量――それを腐敗液の侵食ごと吹き飛ばそうと一気に肉の内側から爆発させた。

 優美な見かけ以上に凶悪な性を持つその異剣は、ザウラクの腐敗した血を蒸発させると歓喜のあまり不気味な音色を震わせる。

「我輩は…っ!我輩は、血迷ってなど、いない……!」

 相も変わらず痛覚は機能していなくとも、その猛攻の苛烈さにはザウラク――そして背後の肉腫も怯まざるを得ない。

 気迫、そして殺意。

 その全てにおいて上に立ったアルテミスに追い込まれたザウラクは、鉛と化した重い体を引きずり後ずさる。失いつつある体力と落ちる代謝に造血速度もままならず、体温も徐々に低下していく。

 黒血による泥濘の槍、傷の再生。――何より、天士による肉体変異で酷使してきた心臓がついにザウラクの限界を告げていた。

「……国の、人間の内側よりその爪をもって食い潰さんとする災いの化身を、皇帝の座から引きずり下とす…!!我らにはステラ――天士を狩るための牙と、誇り高き人としての尊厳がある!

 人類が団結して人間を、民を、天士による侵略と支配から解放することに対して我輩は何一つ間違ったことは言っていない……!!」

 死に体に鞭打ち、傷んだ肺を搾り上げてザウラクは声を張り上げる。痛々しい男のその様態に、アルテミスは悲哀の相を浮かべてステラ・アドラステアの切っ先を向けた。

「ええい!!いじいじと解りづらい上に長ったらしい!根暗かよ、あんたは!

 ――つまり貴公はこう言いたいわけだ。人間に化けて人を滅ぼそうとする天士ユピテルを倒すために、国民一丸となって叩きのめしましょう!人類の存亡を、我々の命をかけて戦いましょう、と!」

「……!」

 沈黙を以って肯定を示したザウラク。そんな彼を前にしてアルテミスは大きく一呼吸を置くと、腐臭を大きく呷って吐き出した。

「……ばあっっっかじゃねぇ~の⁉」

「な…ッ⁉」

 叫ぶや否や、鼻を小指でほじくり出すアルテミス。その無頓着でいて、この状況において逸脱した行為とただならぬ偉容をザウラクは見咎めた。

「ユピテルが天士だということを公にしたとして、そこからまず真っ先に起こると予想されることはなんだ?――それは、民衆の暴徒化だ」

 砂の混じった鼻糞を何の感慨もなさそうに一瞥して指で弾き、放り捨てる。それに反して、アルテミスは粛とした声と面持ちでザウラクへの反駁を重ねていく。

「人の姿をした、人間を滅ぼそうとしている別次元の生物が紛れ込んでいるという事実。

 ……普通の人間に、寄生した天士たちとそうではない者の見別の術を持たぬ民たちが行き着く先は疑心暗鬼まみれの渦の中だ。

 誰が天士で、誰が人間なのか――混乱に陥った奴らの異常な結束ほど醜いものは無い。不安に駆られた者たちが、民衆の中から天士をあぶり出そうとしたらどうする?集団私刑や誤情報の拡散、偏見差別の発生は?

 ……最後に待つのは、自滅の道だ。それこそ、天士たちの思うつぼだ!」

「——っ!!……しかし、それはあくまで可能性の話だ!それも踏まえて、我々は——……!」

「いいえ、いいえザウラク公。……貴公がこれから成そうとしていること。そこからこの世に訪れるのは我々が嫌でも知っている『不和』――戦争、そのものなのだ」

 アルテミスは、ステラ・アドラステアの標的をザウラクから逸らす。代わりに切っ先が指し示した彼方……ザウラクは、その剣が導く先へ視線を追った。



――人の営み、栄華の痕跡すら消え去った閑寂の荒野。


――戦禍に呑み込まれ破壊尽くされた街の残骸。



 見渡す限りの、ただ茫然と広がる無常と絶望の揺籃。

 ザウラクの視界に飛び込んだのは、朝焼けに朱く浮かび上がる傷ましい敗国の結末であった。


「……かつて、このアリオトで散っていった連合軍とエリュシオンの戦士たち。

 彼らが築いてきた数多の流血と骸の山を礎に、仮初めとは言えども現在の安寧が成り立っているのだ。彼らの求めたより良い暮らしを、平穏を……どうして、公は今まさにいたずらに踏みにじろうとしているのか!」

「違う…!違う、違う、違う――否!!

 我が行くは民同士の戦に非ず!民を守るため、全ては残された者たちに明日への道を切り開くため……!」

「――この頑固者め!!」

 アルテミスはそう叱咤し、ザウラクの浅葱色の羽織――その胸ぐらを掴むと、衝撃と共にザウラクの視界に火花が散る。

 腐った皮膚、それによって汚れるのも厭わずに、アルテミスはザウラクの額に頭突きを喰らわせた。

「では、なぜおのれの兵たちを連れて危険を顧みずにこの破軍に会いに来たのだ……!俺の協力を仰ごうというのならば、他にいくらでも無血の道はあったはず――!

 先の戦いでエピメテウスの手にかかって命を落とした彼らだって、公の守るべき民に含まれていたはずだ!!」

「ぐうお…お、ああ、おああああ……っっ!!」

 苦悶の声を上げたザウラクは生え換わった右腕でアルテミスの手を振り払うと、慙愧に頭を抱えて蹲る。

 震える腐欄した積怨の集積物を前に、アルテミスは男がまだ人の領域から脱していないことを見出していた。

「そもそも貴公のお話からでは、ユピテルへの抵抗運動において武器を持たぬ国民ですらも参加することが前提となっているように聞こえる。

 守りたいと吠えておいてその実、対象をむざむざ命の危険に及ぶ行為へ扇動するなど……統一戦争を経験した貴公が、なぜよりにもよって護国の戦士たる貴公こそがそれを一番理解していない…!」

「…………!!」

 男は、覚醒した意識に顔を上げる。頭突きの衝撃――それによって糜爛した瞼が、大部分の視力を無意味なものとしていた。

 それでも――彼は闇に染まって見えていた世界に、心に、暖かな燈が灯る。


 ――破軍、アルテミス。 


 そこに立つは、人の似姿で輝く清廉なる有明の月。

 一望千里の荒野と寂れた丘を――道に迷った愚かな自分を、先へと照らす道しるべ。


 ……頬に伝う、焼けるような熱。しとしとと濡れた透き通った雫が、静かにこぼれ落ちていく。

 これが己の涙だと気づいた頃には、ザウラクはアルテミスの鮮烈な赫耀に心を奪われていた。


 機は、満ちた。

 ステラ・アドラステアを下げたアルテミスは、腰元の蒼き匣に手を触れて決意を口にする。

「――ステラ・パンドラよ。

 大王の冠たる、いと麗しき瑠璃匣の姫君よ。俺は、ザウラク公を救いたい……どうか、また貴女の力を貸して欲しい」

『――承認。破軍・アルテミス。

 君臨者の御子たる、哀れで優しき月光の城塞よ。その愚かさに免じて、汝の願いを聞き届けましょう。』

 金の光が瞬き集う。

 パンドラへ戻るステラ・アドラステアと入れ違いに現れた金と銀の輝きは、やがて二つに分かたれる。一つは荘厳なる銀の弓に。そしてもう一つは見覚えのある一振りの槍となってアルテミスの手に収まった。

「また叩き起こしてすまないな、イアペトス。

 ――だがお前の強さはこのアルテミスが誰よりも一番知っている……さっき味わい済みだしな。もう一仕事、頼んだぞ。」

 自分の頬を人差し指で小突きながら槍へ柔和に微笑んだアルテミスは、すぐにその顔を不屈の戦士に染め上げた。


 握りを持って、剛と弓を構える。

 銀の細光が鮮やかに、アルテミスの総身を照らす。

 破軍の決心に応えた三日月型の弓――ステラ・フェーベは、白く光る亀裂が走り、本体の丸みを帯びた外殻を展開させる。滑らかで美しかったその外殻は蟹の甲殻に似た荒々しく厳つい強弓と変形していく。

 元の形からおよそ二倍の大きさとなったステラ・フェーベは、そのリムへ銀に瞬く光の弦を張り詰めた。


 ……その強弓に番えるは、細き矢よりも猛き巨槍こそ相応しい。


「――行くぞ。ステラ・イアペトス、ステラ・フェーベ。

 彼を蝕む闇を、彼方先まで……今ここに、天の光をもって吹き飛ばす!」


――刮目せよ。

――清聴せよ。

――そして、その身を以っておのが運命を受け入れよ。


 アルテミスの剛腕が番えた槍は、自らの意志で柄を使い手に合わせて収縮すると、その末尻に高熱を徐々に集中していく。

 やがて、その熱量はステラ・イアペトスの発射と共に金色に煌めく灼熱の尾を引いて迸る。

 

 ステラから生み出される熱風にたなびく黒髪。

 映る全てを呑み込む、常闇の瞳。


 城塞と謳われた常勝の戦士は高らかに、流れる星へ願いを託し、吼える。


「奈落に落ちた彼を導け、ステラ・フェーベ!

 ……そして、彼を苦しめる悪根を突き穿て——ステラ・イアペトス……ッッ!!」


 月光から放たれた黄金の槍は、燦然と輝く閃光の矢となって再び荒野を駆け抜ける。


 ――眩く束ね上げられた光の渦。


 その極光はザウラクの胴の中心を貫いたのち、背中の肉腫ごと腐敗した闇を祓い照らした。

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