プロローグ ◆オリュンピア帝国/剣の間

 ——帝歴一二四七年、四月。

 皇帝ユピテルが治める帝国オリュンピアの首都、帝都・オリュンポス。

 白い石造りの柱や低いアーチを多用した、装飾性の高い重厚な城が聳え立つ。

 そして、その周りから空までぐるりと覆い囲う、大鳥も羽根を思わせる形をした半円型の城壁を備えた文字通りの難攻不落の城塞は、白き雷帝の異名を持つユピテル帝に相応しき白亜に輝く帝都の象徴そのものである。

 しかし、そんな荘厳な印象には似合わず、城内は使用人たちが血相を変えながら回廊を走り回ったりなど、何やら慌ただしく落ち着かない空気が漂っていた。

 それもそのはず。王宮内にある「剣の間」において、皇帝に対するクーデターが発生。

 首謀者は、オリュンピア七大公領地の一つであるメラクの領主——ザウラク。皇帝に次ぐこの帝国における七名の実力者「七星剣」の一振り、巨門の座を拝命するはずだった男だ。

 本格的な春を迎えたこの日は、帝都ではザウラクの巨門拝命式を含めた星剣会議が行われる予定だった。ザウラクは会議の開始前に、皇帝を会議会場——通称、剣の間に呼び出し、暗殺を決行する。

 しかし、万が一のために控えていた第一皇子シリウスと第二皇子ポルックスにより、皇帝の身は無事に保護された。


 ——皇帝の暗殺未遂事件からおよそ、一日後。

 剣の間に一人の少年が荒々しく扉を開けて現れる。

 乳白色を基調としたシンプルな石壁に、黒い縁のあるガラス製の大窓。天井には、蝋燭の火が灯った豪華なシャンデリアが吊り下げられている。室内の更に奥へ続く壇——その天を見上げれば、星間の運行を模した機械細工の美しい薔薇窓が覆う吹き抜けが展開されていた。広々とした室内には、大理石の床に敷かれた朱い絨毯の上へ、ロの字に長机が配置されている。

 少年は、その席に静かに座すひとりの男——皇帝ユピテルを見つけると、彼のもとに駆け寄った。

「ご気分はいかがでございますか、父上」

 ——オリュンピア帝国第一皇子、シリウス。

 赤毛が混じる金の髪に、焼けた小麦色の肌。常に不機嫌そうでいて、鋭い切っ先の朱い双眸が特徴的な小柄の少年だ。長い髪は三つ編みで結われており、首を一周して後ろでまとめている。凶暴性を秘めた彼の性質も相まって、少年特有のあどけなさとは縁遠い。常に獲物を求める猟犬の印象を、見る者に与えていた。鷲羽根の意匠を施された赤と金の礼服が、彼の獰猛さをより一層際立たせる。

 シリウス皇子は、風を切るように足早に歩を進めた。翻ったマントからは、中の衣装が袖無しのためか、引き締まった二の腕があらわになっていた。鍛え上げられた筋肉からは、彼がただの幼い少年ではない、れっきとした武人であることがうかがえる。

 剣の間に辿り着くまでに王宮内の回廊を走ってやって来たシリウス皇子だったが、呼吸の乱れた様子は微塵もなかった。

「——問題ない」

 天板に敷かれた白いテーブルクロスの裾が、開け放たれた扉からそよぐ風によってわずかにたなびく。父上と呼ばれた男は読んでいた本を静かに閉じ、駆け寄るシリウス皇子の方へ顔を上げ、よく通る声で答えると穏やかな微笑みを浮かべた。心配そうな息子を横に吞気に本を読んでいたその姿は、まるで先日まで命を狙われていた者には到底見えなかった。

 シリウス皇子と同じ、鷲羽根をあしらった白と金の法衣を身にまとった金髪の男。ただ、男性にしては細めの体躯とまっすぐに伸びた姿勢からは、鷲よりも白鷺を思い浮かべやすい。

 同じ金髪ではあるもののシリウス皇子とは異なる、色白のきめ細かな絹肌。室内を照らすシャンデリアの灯りは、彼の美術彫刻を思わせる端正な顔立ちを浮かび上がらせた。

 金に光るやさしげな、やわらかい目元。この柔和で大人しそうな若い青年こそが、オリュンピア帝国において一番の権力者であり、眼前の少年の父。

 ——オリュンピア帝国第三代皇帝、ユピテル本人だった。

「それよりも、この場を去ったザウラク殿はどうした?」

「ただいま、ポルックスが確認しております」

 シリウス皇子がそう報告をするや否や、すぐにもう一人の男が扉を開けて剣の間に入ってきた。

「ポルックス、参上つかまりました」

 凛とした声が、広間に反響する。

「遅い! もうザウラクめが行方をくらましてすでに一日だぞ! いったい今まで何を道草食っていたのだ!」

「それは申し訳なかった、兄上」

 歯を剥き出しにして吠える少年皇子を兄上と呼んだ青年は、謝罪の言葉とは裏腹に、全く申し訳なさそうに見えない調子と素振りで二人のところまで向かう。規則正しく歩くその様は、機械的でいて人間味がまるで無かった。

 ——オリュンピア帝国第二皇子、ポルックス。

 彼の外見は、皇帝ユピテルとうり二つだ。瞳の色、体格、声……。何もかもが鏡合わせのごとき容姿。

 ただ、唯一異なる点と言えば、まっすぐに伸びた髪の毛先。それが肩が触れるところで、綺麗に切り揃えられていることだった。

「よい。報告を聞かせよ」

 凛と立ち上がった皇帝ユピテルは開口一番、ポルックス皇子に訊ねる。皇帝ユピテルの銀と翡翠の髪留めが窓から差し込む陽光にキラリと煌めいた。三つ編みで一房にまとめていた金の髪。それが、右肩から胸にかけて小川の流れのように滑り落ちていく。

「はっ」

 ポルックス皇子は返事をすると軽く目を伏せ、右手を胸に当て皇帝に一礼した。

 皇帝ユピテルと第二皇子ポルックスの違い。

 髪型もさることながら、優雅に微笑む皇帝に比べ、ポルックス皇子は無愛想で、表情の機微が少ない点も挙げられる。

「申し上げます。ザウラクは前もって集めていた己の部下と共に帝都より逃亡した模様。臣下たちが城内をくまなく捜索したものの、発見することはかないませんでした」

「……なんだと? 全ての各城門に、このオレ直属の兵を配備したんだ。不審な者がいればすぐにわかる。奴はこの城から一歩も出てやいまい」

 ポルックス皇子の淡々とした報告に、シリウス皇子は訝しげな顔をした。

「ええ。しかし先ほどカストルが索敵用に飛ばしました、ステラ・実機連星アルテアから情報が。転送された記録によると、半日前、すでにザウラクは自分の兵を集め十五名程度の小隊を編成。……彼らを連れて、南西の方角へと向かったことが判明いたしました」

 カストルとは、オリュンピア帝国第三皇子にして、ポルックス皇子の一卵双生児の弟である。彼の外見もまた皇帝とポルックス皇子にうり二つなのは言うまでもない。

 怒りをあらわにして、小さく舌打ちをするシリウス皇子。

 ただでさえ普段から激情型の彼だが、皇帝の前では借りてきた猫のように大人しい。

 ——その余裕さえ無くなっているということは、己の兵がザウラクを取り逃がしたことに対して余ほど焦っているということだ。

「ふむ。……城の、内部の者による手引きが妥当だろう。運悪く逃走中に居合わせてしまい、脅迫され従った者か。または、もともと反逆後に落ち合う予定だった彼の協力者か」

 組んでいた腕を緩める皇帝ユピテル。隠れていた胸元には、大きく横一線に剣で切られたと思われる布が裂けた跡があった。

 しかし、その傷口には血の一滴も流れた痕跡がない。

 皇帝ユピテルは見る者が目を奪われるほど美しく滑らかな動作で、おもむろに右手を上げた。法衣の袖より、城壁と同じ白亜に輝く腕があらわになる。

 それは、肘から指先にかけて覆われた鎧の籠手だった。……腕だけではない。胸元の無惨に裂けた衣の隙間からにも、その輝きが垣間見える。

 憂いを帯びた瞳が影を落とす。

 ——次の一手を考えているのか。

 ユピテルは、白銀の右人差し指で軽くトントンとゆっくり自分のこめかみを小突く。 

「どちらにせよ、反逆者の逃走を幇助したのだ。その者には、後ほど厳罰を下さねばなるまい。そうでしょう、父上」

「待たれよ、兄上。それでは——」

 皇帝ユピテルに同意を求めんとするシリウス皇子と、それを止めるポルックス皇子。

 その束の間……シリウス皇子の一言で、ユピテルの動きが突如として停止した。

「————不和」

 一瞬の沈黙の後、皇帝ユピテルの口から機械的な、鉛の一言が発せられた瞬間——二人の皇子の顔がこわばる。剣の間の空気が、温度が。瞬く間に急激な勢いで冷えていくのがわかった。呼吸する度、冷えた空気によって肺が悲鳴を上げ始める。

「——よいか。それはいかなる時も、いかなる理由であっても、この世に、余が統べるこの世界においてあってはならぬ。——滅するべき悪そのものだ。……そうであろう」

 これまで始終穏やかであった皇帝ユピテルの声が、冷たく重いものに塗り替えられる。

 それだけではない。いつの間にかシャンデリアの灯りも消え失せ、剣の間にはしっとりとした一面の闇に早変わりしていた。

 皇帝の……いや、皇子たちの頭上からは、室内だというのにどこからともなく雷鳴が轟き始める。

「——おっしゃる通りでございます」

 すぐさま皇帝の前に膝をつき、こうべを垂れる皇子両名。未知の恐怖のあまり、彼らは皇帝の顔を見ることができなかった。目の前にいるのは、仕えるべき皇帝でもあり自分たちの父親でもあり。——そして、指先一つでいとも簡単に「死」の断罪を下す、超越せし者であることを思い知らされる。

「では、シリウスよ——貪狼とんろうよ。我が、至高たる猛き星剣の一振りよ」

 名前を呼ばれたシリウス皇子は、伏した絨毯に垂れた雫によって自分が濡れていることに気づく。まさか、この部屋に雨でも降ったのか。

 ……否、それは畏怖のあまり額から流れた自身の脂汗だった。

 全身の筋肉が、命の危機を感じて硬直したまま動けない。

「……皇帝陛下の、御心の、ままに」

 シリウス皇子は、必死に喉から声を絞り出して答える。かすれた声が、窓の隙間から漏れた風の音のように情けなく聞こえたのが自分でもわかった。

 ごう、と突如轟いた雷鳴と共に、天井から火柱がシリウス皇子の真横に爆ぜて落ちる。朱と金で彩られた羊毛の絨毯は、見るも無惨に黒く焼け焦げていく。ちょうど大人の手のひらほどの大きさに穿った穴は、稲妻を迸らせていた。    

「わかればよいのだ」

 この部屋自体が落ちてくるとは言わんばかりの、皇帝ユピテルの圧は跡形もなく消え失せた。——普段通りの、暖かい声が降り注ぐ。

 ……恐る恐る、皇子たちは顔を上げる。

 するとそこには、当初と変わらぬ優雅な微笑みのまま、自分たちを優しく見下ろす父の姿があった。

「むっ! 脱線してしまったな。さて、話を戻そう。ザウラク殿の行方だったな。……ポルックス、カストルを呼べ。ステラ・実機連星アルテアを、アリオトまで飛ばすのだ」    

「かしこまりました、すぐに手配を。しかし、なぜアリオトに?」

 ユピテルの命を受け、素早く立ち上がったポルックス皇子は訊ねた。

 ——顔は、まだ青ざめたままではあったが。

「ザウラクは南西へ向かったと言ったな。……そうか!」

「うむ。追手を恐れ、この帝都から人目を離れ向かうとすればあそこしかあるまい」

 嬉々としていつもの調子を取り戻したシリウス皇子にそう答えると、皇帝ユピテルは、出口へ向かってゆっくりと歩を進み出した。

「テスティオス!」

 ポルックス皇子は手を二回ほど打って従者の名を呼び、皇帝の後を追う。すると、呼ばれた従者は駆け足で歩く青年皇子の足元の陰からぬうっ、と現れた。

 ——いや、影そのものが、ポルックス皇子から引きはがされたというべきか。

 テスティオスと呼ばれた影の男は、すぐ木製の扉に手をかける。そして、皇帝ユピテルのために扉を開けたと同時に、室内に光が射し込む。テスティオスは陽光に照らされたかと思うと、蒸発するように消え失せた。

「しかしザウラクを追うとなりましても……陛下、アルテアは単独での戦闘機能は——」

「案ずるな、ポルックス。アルテアはあくまでも通信手段だ。ザウラク殿のことは……うふふ。あいつに任せる」

 気をかける息子に目配せをした皇帝ユピテルは、いたずらっ子のように口角を上げる。

「あいつとはまさか……」

 扉の一歩外に出た皇帝ユピテル。金に輝く麗しの男は、一度くるりと息子たちの方へと振り返った。

 午前を回った朝陽が、皇帝ユピテルの背中越しに剣の間へと光を射す。

 ——それは、逆光で目がくらむほどに。

 しかし、はっきりと皇帝ユピテルの、両腕を掲げる輪郭が浮かび上がるのがわかる。光を背に一身に受ける皇帝の姿は、まるである種の神性を帯びていた。

「これより、オリュンピア帝国第三代皇帝ユピテルが命じる。七星剣が一振り、破軍アルテミスをアリオトまで向かわせるのだ」

 粛然とした硬い口調、澄んだ声とは打って変わり、皇帝ユピテルは悪戯を覚えたばかりの子供の笑みを浮かべる。

 それは無垢とも、無邪気とも形容しがたい、鳩尾をくすぐる蠱惑的な微笑みであった。

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