炎をみつめる

織沢実

『炎をみつめる』


 

 

 

 目をカッと開くと光と熱が眼球を貫いて痛くなる。薄目を開け、その光源を見つめた。

 無風の闇の中で燃える炎は、空に消えようとするみたいに上へ上へと揺れのぼっている。

 パチッという薪の弾ける音を聞いて悠太は靴の先に火が燃え移っていないか不安になった。

 野外活動で来たキャンプ場は真っ暗闇に霧が立ち込めている。自分がさっきまで寝転んでいたテントが何処にあるのか分からなかった。

 石の多い砂利地に座っている悠太は足先の温かさに比べてジャージに包まれたお尻が冷たいと思った。火にお尻を向けたら温まるかも知れないという考えが浮かんだが、すぐにそんな恥ずかしいことは出来ないと思った。

 焚き火の周りには悠太の他にもう一人、男がいた。その男があたっていた焚き火に悠太は割り込んだのだ。

 男のことを悠太は密かに山男と呼んでいた。見た目がハイジに出てくるアルムのオンジにそっくりなのだ。山男は目が隠れるくらい深く〝つば広の帽子〟を被り、ポケットのたくさんついた半袖のチョッキから木の幹のような腕を出していた。帽子の下から唇に垂れ下がるように大きな鼻が出ていて、外国人の顔に見えた。

 山男は置物みたいだった。何せ一言も声を出さない。夜中に子供(中学生は県の条例で子供ということになっている)が一人、キャンプ場をうろうろして、勝手に焚き火に手をかざしても咎める訳でも、心配する風でもない。ただ焚き火を見つめていた。

 寝ているのかなと疑ったが、金属製のカップでコーヒーを飲む動作をしているので、起きているはずだ。

 悠太は炎と山男を交替に見つめた。炎は常に形を変え、組まれた薪から炎の先を出しては中に入り、入っては出てきた。時々パチッと弾ける時以外、特に悠太の気を引くようなことが起こる気配はなかった。

 かえって山男の方は変化に乏しく、呼吸をしているのか疑うぐらい動かなかった。しかしその佇まいは悠太を惹きつけた。いったいこの人は何者なのか、どんな声なのか、どうしてそんなに鼻が大きいのか、日本人なのか、もしかしたら人間じゃないかも知れない……。

 悠太がいくらジッと観察しても山男に変化はない。する動きと言えば、精々がコーヒーを啜るぐらいだ。

 山男がジッと見つめる焚き火にどんな面白いことがあるんだろう? 悠太はふとこの疑問に行きあたった。その答えは間違いなく炎の中にある。悠太はしばらく山男を見つめるのをやめにして炎を見続けることにした。

 

 

 炎の先はピラミッド型に組まれた薪の頂点から飛び出し、木々に隠れて見えない夜空の方へ昇っていく。その形は常に変化しているので、何々の形と断定することはできない。強いて似ているものを挙げるなら寝癖に似ているかもしれない。

 人が一生で形作る寝癖の全てが、炎によって一瞬のうちに現れては消えるようだった。

 寝癖の周りを火の粉が舞っている。火の粉は空に消えるものもあれば、悠太に向かって飛んでくるものもある。

 空に消える火の粉を追って悠太は空を見上げたが、上は木に遮られて暗闇しか見えない。悠太のいる方とは全然違う方向に飛んで行く火の粉を追って見ると、蛍のような微かな光は霧に吸い込まれてすぐに見えなくなってしまった。

悠太は急に自分が閉じ込められている感覚に陥った。闇は焚き火のぐるりを覆うように充満していて、少しでも闇の中に入れば何かオオカミみたいなものに食べられてしまいそうで怖い。

悠太は火の粉の来そうにない距離をはかりながら、焚き火に少し近づいた。

 

 寝癖のような炎を見ているうち、ピラミッドの一辺を成していた薪が折れて、焚き火が今までのバランスを失って崩れた。崩れた拍子に炎の中心に空気が入ったらしく、一際大きな炎が立ち上がって悠太に近づいた。

 悠太は驚いて後ろに仰け反り、背を地面にくっつけた。膝を抱えた悠太の体は、ゆりかごの要領で再び座っていた位置に戻った。戻ってみると、炎は先程の一際な大きさから、今まで見ていた焚き火の半分ぐらいの大きさになっていた。

 崩れ倒れた薪たちは、組まれた薪の中にあった炎の空間を押し潰して、隠して、寝癖型の元気な炎ばかりを見せていた。

 炎の変化を何となく見つめていた悠太の隣で、山男が少しお尻をあげた。

 山男は大きなトングみたいなもので倒れてしまった薪たちを、またバランスよく組み立てた。一本は折れていたのでそのままにして、三本の大きな薪で組み立てた。

 再び見えるようになった薪の中の世界は、始めちょろちょろと小さく燃えていたが、空気が通るようになって、次第に眩い光を薪の外へ発散するようになった。

 眩い光に照らされた山男は、満足そうに唇の端を少し上げて、また元の位置に動かなくなった。

(山男は炎の先端ではなく、薪の中で輝く炎を見ているんだ)

 と悠太はこの時になって気がついた。

 気づいた悠太は薪の中の炎を注意して見てみた。炎の先端ばかり見ていた時は、薪の中の炎は電灯のように静かに安定した光を外に発散するばかりだろうと思っていたが、よく見ると薪の中の炎も寝癖の炎のように目まぐるしくうごめいていた。それは黄金の波のようだった。

 見るうち、揺らめく黄金の一波が風になびく髪に少し見えた。悠太は髪に見えた炎を追うように視線を動かした。動かした先に生え際が見えた。そこから額が見え、眉が見え、目鼻が見えてそれが同じクラスの澪だと気がついた。

 

 

 

 澪は教室にいた。悠太と同じ教室だ。南向きの窓から光が真っすぐ入って、話し声のする部屋を照らしていた。

 澪は悠太の斜め前の座席を班の形に移動させて給食の準備をしていた。教室が休み時間なのに少し静かなのは給食当番で半数の生徒が教室を出ているからだろう。

「昨日投稿された動画見た? あの寒天の中にスマホ入れるドッキリのやつ。え、マイクラ? そっち見てないかも。あ、サブチャンネルの方か。昨日眠くてメインチャンネルのドッキリ動画しか見れてないわ。マイクラ動画どんな感じだった? うん、お城建設で門の所を作ったのは見た。うん。うん。うん。え、そのあと後ろから弓で狙撃されて。うん。で、落ちるんだけど、生きてるってやつ。あ、それ見たかも。それ昨日の実況動画? あ、じゃあ私それ昨日見てるわ。あ、逆にドッキリの方見てない? あぁ、あのねぇ、壊れて使えなくなったスマホを寒天の中に入れてぇ、でこの寒天が、赤くて透けない部分と透明で透けて見える部分とあって、それが赤が上、透明が下って固めてあるのね。で下から隠しカメラでスマホが見えた瞬間を撮るんだけど、その見た瞬間の顔がめちゃくちゃ面白くて、しかもケースが同じやつだから焦るのね。で、

『は、何やってんの?』って聞いたら。

『あ、入っちゃってましたか?』

 って言ってぇ──」

目尻に皺を作って会話する澪、その白く滑らかな肌が日光のためか眩く輝いたように見えた。

 給食当番が教室に入ってくる音がして、澪の話は一区切りになった。話の相手は悠太ではない誰か。たぶん近くの席の由比だろう。配膳の列に並びながらも澪は話を続けていた。時々悠太の耳に、「えぇ、ホント?」とか「いやいやいやいや」とかいう澪の声が聞こえる。悠太も列に並んでいるので澪の顔は見えないが、トレーを持ちながら横に移動する黒いポニーテールが見えた。

 澪と悠太は同じ班で給食を食べる。もちろん他にも班員はいる。さっき澪と話していたであろう由比やそんな二人の会話に入ることの出来る○○だ。

 悠太は出来るだけ班の中で存在を消すように給食を食べる。由比の方にも○○の方にも視線をやらない。澪にも送らない。ただ目の前の給食にだけ視線を送る。しかし意識はずっと班員たちの会話に向かっている。

時々会話の中で面白い言葉が出ると、存在を消している悠太でありながら少しニヤけてしまう。会話に入らない人間が、話の輪の付近でニヤニヤしていることの気持ち悪さにすぐさま表情を戻す悠太だが、そんな行動の全てが班員に、澪に見られているようで酷く居心地が悪い。

「この間動画でメンバー何人かでやってたサバイバルのゲーム、名前なんだっけ? あのぉ、範囲が段々狭くなるやつ」

(PUBGだろうか?)

「あ、そうそう、PUBGだ。あれまたやってくんないかな? あれめっちゃ面白かったよね。あのぉ、途中何でもない所で間違って打っちゃってメンバーがみんなびっくりしたりさ。ああ、確かに。うん。うん。うん。あぁ、でもメインチャンネルでもいっかいやるならみんなでキャンプ動画かなぁ、深夜肝試し、そうそうそう。あれいいよね」

 澪はどんどん話を展開していく。そのスピード感を保ちなが食べる手を休めない。悠太の前にあった給食も空になっている。澪が食べたのか。そんな訳はない。

 給食が終われば昼休みだ。机を元の位置に戻してみんな長い休み時間を自由にすごす。ただ次の時間が体育らしいので、少し不自由も感じる。常に時計を意識しなければならないからだ。男子はまだ教室で着替えるから楽だが、女子は更衣室で着替えなければならない。移動の時間を考えると時計への意識は男子より強く持っているかもしれない。

 十三時ちょうどに針が動くと教室の半分の生徒が立ち上がり、移動を始める。澪も机の横に掛かっている体育着の袋を持って教室をユーチューバーの話をしながら出て行った。

 悠太も着替える必要がある。次は体育の時間だ。しかし視線が澪を追って、体もつられて、廊下に出てしまった。更衣室は廊下のどん詰まりにあって、女子らは幾つかの教室の前を通っていく。澪が前を通る教室はどこもドアが閉じられ、姿の見えない無数の生徒たちの話し声が、奇声が、叫び声が、不思議なポリフォニーを巻き起こしていた。

 教室の対面にある廊下の窓は雨の水滴に光が当たってきらきら輝いている。雨など降っていなかった気がするが。輝く廊下を進んでいく澪はお尻を左右に揺らすように下半身を駆動させ、ポニーテールをなびかせる。その後ろ姿はいつまでも悠太の視線を離さなかった。

 

 悠太は着替える為に教室に戻った。教室は静かだった。静かというか生徒が一人もいなかった。みんな運動場に移動してしまったのかもしれない。いや雨が降った後なら体育館に移動したのかもしれない。悠太は机の横に掛かっている体育着を出して着替え始めた。上半身を体育着の中に入れ、袖に腕を通す。首を出してから腕を通しても良いけれど悠太はいつも腕から通す。体育着の薄暗い内部でごそごそ首を出そうと動いていると、体育着の外で誰かが自分を睨みつけている空想に襲われた。物音や息遣いを感じたのではなく、そこに何か自分を戒めようとする怖いものがいる気がした。

 悠太はずっと体育着の中で生活する訳にもいかないので襟元から首を出した。教室の中は薄暗くなっていた。窓の外の太陽は隠れ、教室の照明は消されていた。窓から冷たい空気が入って、お腹を冷やした。悠太は急いで教室を出た。

 さっきまで雑多な声で満ちていた廊下は全く静かだった。窓から日光は入ってこず、水滴もなかった。

 悠太は廊下を更衣室の方へ進んだ。体育館にも運動場にも至らない道のりを進んだ。

 横を通り過ぎる教室は人気がない。授業の気配もない。放課後の校舎のように薄暗く、静かだった。

 

 悠太は更衣室の前に立ち、止まった。目の前の部屋も人の気配がない。授業をやっている時間なら当然のことだが悠太には異常なことのように思えた。

 悠太は更衣室の戸に手を掛けた。開けようと指に力を入れた時、

(これは覗きではないか)

 という考えが頭をかすめた。同時に澪が嫌悪の眼で自分を睨む姿が想像された。いやだなぁと思った。しかし悠太のいやだなぁとは関係なく掌の真ん中に力が加わって更衣室の戸が一気に全開になった。

 

 

 更衣室の中は廊下や教室以上に暗かった。窓の外は夜みたいで、ナイターの赤い光が差し込んでいた。

 部屋には人が一人。悠太に背を向けて立っていた。

 澪の後ろ姿に似ている気がしたが、身長は澪よりも顔一つ分は大きいようだった。

 教室にただ一人立っているその人も髪をポニーテールに結っていた。

 悠太はポニーテールの垂れる背を上から流し見た。毛先を通り越して、その人の腰を眺めた。腰骨のある辺りがへこんでいた。悠太はその人の臀部を見た。弛みのない、艶々した肉は悠太の今まで見たことのない膨張をしていた。

 その人は、裸だった。裸のまま仁王立ちして、更衣室の壁をジッと見ていた。

 悠太は喉を思いきり鳴らして唾を飲んだ。喉の音を聞いてか裸の人は悠太の方に振り返った。耳がどくどく鳴った。

 裸の人は、女のようでもあり、男のようでもあった。胸に垂れた肉があって、中心にある二つの桃色が、悠太に向かって突き立っている。下腹部に臍の辺りまでそそり立つモノがあって、これもまた悠太に向かって突き立っていた。

 悠太は、その人の鼻を見た。ツンと立った鼻は常に空気を取り入れようと穴を大きく広げている。それは美しい鼻なんだろうと思ったが、その常に吸い込む動きをしているだろう在り方が不気味で、怖いと感じた。

 鼻の穴が中心に収縮するように動いて閉じ、また左右に動いて開いた。

 鼻の動きを見て、悠太の視線はその人の眼の方に上った。

 その人の眼は透明だった。視線を悠太の方に向けているらしいが実際何を見ているかわからない。悠太と目が合う事はなかった。ジッと眼球を覗くと、透明な眼を突き抜け、頭部の暗がりでボコボコ動いている脳みそまで見えそうだった。

 悠太が眼の先の暗がりをじっくり見ている内にその人は一歩、悠太の方に歩み寄った。悠太はその急な動きに驚いて、深みに入り込んでいた視線をその人の顔に戻した。

 戻して悠太はその人もまた悠太の眼を覗き込み、悠太の頭の暗がりでドクドク動いている優秀でない脳みそを覗き込んでいたことに気がついた。その人は脳をただ見ているばかりか、悠太が澪の事ばかり考えていることも見ていた。

 悠太は怖くて逃げ出した。

 長い廊下を自分の教室の方に走った。廊下には人気がなく、助けてくれそうな人はなかった。かといって廊下沿いにある他の教室に入れる気もしなかった。

 左肩甲骨の辺りに何か近づく気配を感じて、後ろを振り向いた。後ろには自分に覆いかぶさるように追いかけてくる裸の人が丁度悠太の肩を掴もうと腕を伸ばしている所だった。

「────」

 悠太は叫びのようなものを出して右前方に小さく跳んで、さらに速く駆けた。一瞬見えた裸の人の、眉が吊り上がり、毒々しいほど赤い唇をニタリと笑んだ顔が、悠太の背骨に汗を吹き出させた。

 背の汗に難儀を感じた瞬間、悠太の頭は頷いたように下がった。裸の人が悠太の後頭部を掴み押し倒そうと力をかけたのだ。悠太は後ろを向こうと体を左に捻り、そのまま右腕から地面に倒れた。

 横向きに押し倒された悠太は、怖くて廊下の木目ばかりを見ていた。心臓の音が耳の中で激しくなり、首の後ろが異様に冷えた。

 裸の人は悠太のお尻に触れ、悠太の体育着のズボンを脱がしにかかった。悠太は抵抗しようと思ったが廊下の方に投げ出された自分の腕に切り傷や引掻き傷ができるのが嫌で諦めた。裸の人はズボンを脱がし終え、露わになった悠太のお尻を冷たい廊下に静かに置いた。お尻に霜が降りたようだった。お尻の冷たさを感じると共に、裸の人と自分が一体化する感覚を覚えた。それは最早裸の人は一人ではなく、悠太自身も半身ながら裸の人になっていたからだ。この一体化に悠太は心地良いものを感じた。

(僕もこの人も裸)

 悠太はその時になって、胸の辺りが息苦しいほど暑く、下腹部も熱を持っていることに気がついた。呼吸が未だ整わなかった。

 廊下に面した教室の扉、窓がいっぺんに開いた。閉ざされていた教室から冷たい空気が廊下に流れ込む。教室の中にも人の気配はなかったが、どこからか我々裸の人々を眺める視線が感じられた。見られることが不快でないのが悠太には不思議だった。裸二人の一体化は心地いい。もう一人の裸の人、両性具有者は悠太から奪わず、悠太の差し出すものを大事に受け取る。悠太は差し出す快感に充たされた。

 風が一吹き、炎が揺らいだ。

 

 

「悠太あ、悠太あ」

 遠くから呼ぶ声が聞えた。声は大人の声。担任の藤原先生の声だった。

 下半身裸の悠太は暗い森の中で横たわっている。

(先生がくる)

 恐れがお尻をまわって膝を震わせた。

「悠太あ、悠太あ、悠太あ、悠太あ」

 声は近づいていた。悠太の周りを取り囲む木々のすぐ後ろにいてもおかしくない。

「あ、悠太!」

 俯けていた視線をあげた。光と熱が眼球を貫いて痛くなった。

 焚き火の脇には同じテントの一輝がいた。

 

 

 

 悠太と一輝は同じ五番テントで眠ることになっていた。悠太はその五番テントのテント長で、点呼や帰るときの点検の仕事を任されていた。

 五番テントには六人の男子が入ることになっていたが、悠太はじめテントの仲間はみんな外に出ているので、今頃テントの中は黒々しているだろう。

「なんだこんな所にいたのか」

 日焼けで肌の黒い一輝が悠太の脇に近づいて座った。

「みんなは?」

「知らない。八番テントを出たときは全員いたけどその後霧の中で逸れた」

「ふうん」

 八番テントは澪はじめ同じクラスの女子たちが寝ているテントだ。

「結局来たんだな」

「え?」

「いや、あんなにテント間の移動は禁止って言ってたのに、悠太もテントから出たんだなと思って」

 炎が静かに揺らめいている。山男は一輝の登場にも全く動じず、手に持ったコーヒーカップの持ち手を撫でていた。

「途中で先生に見つかったら僕の責任になるから」

「ふうん」

 一輝は悠太と同じジャージで胡坐を掻き、両手を後ろに空を仰いだ。頬のホクロが目についた。空には木々が、一輝の背後には深い霧と闇が立ち込めていた。

「じゃあ、八番テントには行かなかったんだな」

「……うん」

 嘘ではないが真実でもなかった。悠太は八番テントの前まで行ったが、女子の艶めかしい話し声しかしないので中に入る勇気を出せなかった。

「二人だけで話すの割りと初めてかもな」

「ん?」

「いや、俺と悠太だけで話すの初めてかなって」

「あ、あぁ。僕あんまり人と話さないから」

 一輝はクラスの中心で、賑やかく仲間と話したりするような人種だ。翻って悠太は教室の片隅でじっと読書している。それでも教室に籍を置く一人であるから、何となく集団に属している感覚はある。一輝の仲間らは大きな声で話をするから自ずと悠太にも会話の流れが掴める。掴めるから疑似的に会話の輪に入っているような気にもなっている。一輝の仲間らもその辺り大らかなので、突然悠太が「それって──じゃない?」と会話に入り込んできても嫌な顔せず、「おお、そうだそうだ」と反応してくれる。悠太のような人間がクラスの中で完全に孤立せずにいられるのは彼らの大らかさのためだった。

「そうだっけ? 割りと誰かと話してると思ってたけど」

 この通り、大らかなのである。

「俺たちがテント出てからずっとここにいたの?」

「いや、みんなを探してたらこの焚き火を見つけて、寒かったからちょっと暖まってたんだ」

「ふうん。確かに寒いもんな」

 言いながら一輝はジャージの背を擦った。シャカシャカ音が闇に吸い込まれていった。

「あの人誰? 先生じゃないよね」

一輝は小声で山男の話を始めた。

「あの人寝てるの?」

「いや、さっきからカップの把手を擦ってるから起きてると思うよ」

 一輝はお尻を浮かして少し悠太に近づいた。

「なんか日本人じゃないみたいだよな。鼻デカいし。体も大きいし。なんか…」

「ハイジのおじいさんみたいだよな」

「アルムのオンジみたいだよね」

 二人同じキャラクターを思い描いていたことに可笑しくなって大声で笑った。山男は大笑いにも沈黙していた。

「僕、あの人のことこっそり『山男』って呼んでたんだ」

「山男……いいね」

 焚き火がパチッとなって火の粉が一輝の方に飛んできた。

「あ、ぶね」

 一輝の座っている場所まで届かない火の粉だったが、一輝は少しお尻をあげて後ろに下がった。

「山男はずっと動かないの?」

「いや、焚き火の薪が崩れた時は組み立てるために動いてたよ。たぶんあの、三本の薪が組まれてる中の炎を見てるんだと思うよ」

「中の炎?」

 一輝は悠太に向けていた顔を焚き火の方に向けた。悠太も続いて炎を見つめる。

 しばらく焚き火の微かな音のほか何も聞こえるものがなかった。

 悠太が炎の光に耐えかねて目を細めた頃、一輝は小さな小さな声で、

「伶奈……」

 と言った。

 

 

 春雨の雲が教室を暗くしていた日、悠太は一輝と伶奈が付き合っていることをクラスの中で最後に知った。知ったのではなく悟ったといった方が正しい。

 ショートボブの明るい髪色が優しさと人当たりの良さをにじませる伶奈は少々小柄で、少々ふくよかな明るい女子だった。

 その日の休み時間、悠太は伶奈の席で彼女の筆箱の中身で遊ぶ一輝を見た。一輝は伶奈の持ち物である文房具を全て机の上に出して文房具のタワーを組み立てていた。シャープペン、消しゴム、赤いペン、青いペン、黄色いペン、ハサミ、スティックのり、修正テープ、シャーペンの芯、薄ピンクの付箋が机の上で積み上げられていた。

 迷惑だなと悠太は思った。悠太に迷惑でないけれど伶奈には迷惑だろうと思って彼女を見た。

 伶奈は「やめてー」と言っているが楽しそうだった。

 その時、斜め前の席に座って由比と話していた澪の肘が悠太の筆箱に当たって落ちた。筆箱の中身は教室の黒い床に散らばった。悠太は何か澪に申し訳ない気持ちになった。こんな所に筆箱を置いてしまって申し訳ないという風に。

 申し訳なさを抱えながら席を立ち、床に散らばったものに手を伸ばすと、落ちた物共を拾い上げる手があった。澪の手だった。

「悠太くん、ごめんね」

 澪は筆箱の中身を悠太に渡すとまた席に座って由比と話を始めた。

 予鈴が鳴ってみんな席に戻った。伶奈の机の上にあったタワーは一輝によって片付けられていた。

 しばらくは澪に筆箱を拾って貰ったことで頭がいっぱいだった。澪の口から放たれた「悠太くん」の音が耳にこびりついていた。

 学校を終えて、悠太が一人家路を辿っている時、不意に一輝と伶奈が付き合っているという考えが浮かんだ。一輝と伶奈が普通の男子女子以上に仲がいいのは悠太も知る所だったが、今日起きたことの重なりの内に悠太は実感としてその考えに辿り着いた。

 

 

「伶奈……、はぁ」

 一輝の溜息が、澪の「悠太くん」を思い出していた悠太の耳に入り込んだ。

「伶奈さんも一緒に野外活動来れれば良かったのにね」

 一輝はハッとして、悠太の方に振り返り、

「仕方ないよ、引っ越したんだし……」

 と下を向いた。

 伶奈は二月前、西方に引っ越していた。高速バスで半日かかると以前一輝がクラスで大声で嘆いていた。

「引っ越してから連絡って取ってるの?」

「うん、スマホあるし。今まで通りラインで通話してる。でも会えないの辛いな」

 それでも寂しいんだなと悠太は思った。それと一緒に中学を卒業した後、自分と澪が繋がるきっかけなどあるのだろうかと思った。

「一輝くんは優しい人だね」

「え?」

 自分でも意外な言葉が出て悠太は驚いた。何故こんなことを言ったのだろう? 悠太にその優しさがないからそう思ったのか?

「そんなことないと思うよ」

「いや、一輝くんは優しい人だよ。自信持っていいと思う」

「はぁ……」

 戸惑い声で一輝は応えた。

 雲の立ち込めていた空が晴れ、木々に遮られていると思っていた頭上に星空が微かに見えだした。

 焚き火は勢いを衰えさせ、寝癖のような部分は完全になくなっていた。

「だいぶ火が弱くなってきたな」

 一輝が焚き火に向かって言った。

「そうだね」

「新しく薪をくべた方が良いんじゃないか?」

「そうかもね」

 悠太、一輝、山男の三人は衰え始めてなお、ただ炎を見つめ続けた。

 炎は組まれた薪から飛び出す力を失って、薪の中の炎を小さく光らせるばかりになった。

 悠太の眼に裸の人の姿は見えず、澪の朧げなポニーテールが見え隠れしていた。

 一輝の方も伶奈の像がぼやけ始めたようで、

「薪をくべた方が……」

 と呟いている。

 更にしばらくの間が経って、薪の中の炎は焚き火というよりロウソクの灯の集まりのようになった。

 そろそろ痺れを切らした一輝が辺りにあった手ごろな枝を取り上げて悠太に渡した。

「やっぱり薪をくべるべきだよ。悠太、お前にも見えるんだろう? それのために薪をくべるべきだよ」

 悠太はそれもそうだと思って一輝の差し出す枝を受け取った。山男は静かに一輝の言葉を聞いていた。少し嗤っていたかもしれない。

 枝は火の近くに落ちていたのか異様に温かかった。悠太が枝を握ると、枝の内部で脈動がドクドクと音をたてた。

 悠太はその不気味な枝を握ったまま動けなくなってしまった。

動けない悠太を他所に、一輝は他の枝を見つけて焚き火の中に投げ入れた。

 一輝の投げた枝は焚き火の周りに立ち込めていた霧を吸い込み、膨張して炎の真ん中に落ちた。大きな「パチッ」という音と火の粉が一輝に投げ返された。

 一輝は、

「あ、ぶねぇ」

 と言いながら火の粉を避けた。

 焚き火の反撃を恐れて、再び枝を投げ入れようとは考えないらしい。

 

 

 いよいよ消えかかった炎は最後の光を三人の前に輝かせた。

 澪は由比と他愛ない話をして、伶奈は文房具タワーに悲鳴をあげて、純粋な恋慕は眩く輝いていた。

 小枝に取りついた火が風に煽られて消える時、悠太は澪のことを強く考えながらもだんだんどうでもいいような気がし始めていた。

 

 

 

 焚き火の残骸を囲んで、三人はジッと微かにのぼる煙を見つめていた。煙は木々の間から姿を現した月に照らされ、たゆたっている。

 動かなかった山男が立ち上がり、暗い森の中に消えていった。

 彼は何故森へ向かうのか? 或いは再び悠太の前に焚き火を起こすためかもしれない。悠太はぼんやりそう思った。

                  了

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炎をみつめる 織沢実 @mattarikakeru1012

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