第1話 遭難者
ザザ……ン
何処かで波の音が聞こえる。
規則的に繰り返すそのリズムが耳に酷く心地良い。何だが海のすぐに近くに居るような気がする。穏やかな風が頬を撫でて潮の匂いが鼻腔を擽った。
今、ゆっくりと目を覚ます。
目覚めた瞬間、飛び込んで来たのは――視界いっぱいの蒼だった。
「……ここ、どこ!?」
私は跳ね起きた。
何これ?一体何がどうなってるんだ?
昨日は確か早めにベッドに入って寝た筈だと思ったのだけれど。目が覚めたら何故か部屋のベットの上ではなく、白い砂浜の上に横たわっていた。しかも何故か学校の制服を着て。
なんで……!?
まだ覚醒しきれていない頭を必死に働かせ昨夜の記憶を辿ってみる。
昨日は確かにパジャマに着替え、ベットに入って寝た筈だ。そこまではしっかりと記憶もある。それなのに――
もう一度顔を上げてみた。
しかし、やはり目に映ったのは――
蒼く晴れ渡った空。
さんさんと輝く太陽。
白い砂浜。
何処までも続く蒼い海。
自分の部屋とはまるで違う、見たこともない景色だった。
「一体、何がどうなってるの……?」
というか、どうしてこんな所にいるの?
どれだけ考えてみても先程目覚めたばかりの私には全く身に覚えが訳で、頭は更に混乱していく。あまりにも突然過ぎるこの状況に私はただただ呆然とするしかなかった。本当に訳が分からないんですが。
キョロキョロと辺りを見回してみた。けれど、やはりどう考えても自分部屋だとかそれ以前に。
ここ、屋外じゃん。
目の前に広がるのはどこまでも続くような青い空蒼い海。聞こえるのは波の音と遠くの鳥の囀りだけ。
海水は透明に透き通っていて、そこだけを見ればまるでどこかの南の島かリゾート地にでも来たかのような気分になる。しかし、そんな所に来た覚えは全くないのだが。
頭上にさんさんと輝く太陽はじりじりと容赦なく砂浜を照り付け、気温は間違いなく猛暑日だろうと思われる。
ここにバカンスでもしに来たのなら申し分ないのだろうが、そうでない私にとってはこの日差しは欝陶しい以外の何物でもなかった。ただじっとしているだけでも汗が出て来る。日射病になりそうだ……。
とにかく、いつまでもこうしていても仕方がない。
しばらく気を散していたが、私はようやく重い腰を上げた。立ち上がり制服に付いた砂を払って歩き出す。とりあえず辺りを少し散策してみることにした。
幸いな事に何故か靴までもしっかりと履いており、外を歩くのにも何も問題はなかった。
最初はこれは夢なのだろうと思っていた。
しかし、靴底から伝わる砂の感触や降り注ぐ暑い太陽の熱。聞こえる波の音。潮の匂い。五感を通して伝わる感触は夢というにはあまりにもリアルで。
頬っぺたを抓るなどというありきたりな方法も取ってはみたが、夢から覚める気配は一向にない。
たぶん、これは夢なんかじゃない。
「それにしても暑いなー…」
そんな事を思いながら、しばらく辺りを歩いてみて分かったのは、今居るここはどこかの島のようだということ。そして、この島はそんなに大きくはないということ。
あるのは、白い砂浜と島の中央に向かって広がるジャングルくらい。他には何もない。人もいない。
たぶん、ここはどこかの無人島なんじゃないだろうか。
そんな事をまるで人事のように考えてから私ははっとする。
……ちょっと待て。
何でこんな所に居るのかは別にしても、もしもこの島が本当に無人島だったとした場合、ここには今私しかいないということになる。
広い海。どこか知れない小さな島。小さな無人島。
その小さな無人島に私は今、たった一人。
……これ、ちょっとヤバいんじゃない?
***
「――――」
突然、風に乗って人の声のようなものが聞こえた気がした。
私ははっとして辺りを見回す。声の出所を探した。
また聞こえた。その声はどうやら島の中央に向かって広がるジャングルの奥からしているようだった。
もしかしたら他にも誰か人がいるのかもしれない。そう思った私は、僅かな希望を抱きながら声が聞こえた方へと駆け出した。
ガサガサ……
鬱蒼と生い茂る草や空へと向かって青々と伸びた葉。それらを避けながらジャングルの中を進んで行く。
ジャングルは思っていたよりも広くはなく、しばらく進んで行くと急に開けた所に出た。出た場所は先程まで居た場所とは反対側にあたる海岸。
「ここってやっぱり小さい島なんだなー…って、何あれ……!?」
目の前に広がる海から何気なく視線を移すと少し離れた所におかしな物が見えた。その光景に私は思わず息を呑む。
そこにあったのは停泊する一隻の船。しかし、その船というのは、ごく普通に見掛ける客船やタンカーなどではなかった。漁船という訳でもない。
遠く見えるその船は船体が木材で出来ていた。そして、風を受けて船を進ませる為の帆が備え付けてある。いわゆる帆船というやつだ。
それを更に上へと辿っていき、ある一カ所を見て私はもう一度目を息を呑む。帆柱の先に一際目を引くそれはあった。
黒地に白で描かれた、バッテンに組まれた骨。その上に頬の辺りに十字の傷が刻まれた髑髏の印。
高く掲げられた、海賊旗。
「海賊、船……?」
思わず口が半開きとなる。
……ちょっと待って。なんで海賊船!?なんでこんな所にこんな物が!?
というかなんか凄い、某海賊映画のセットみたいなんですけど。
その船の全貌はまるで小説や映画の中に出て来るような海賊船を連想させた。まるで映画か何かのセットのような光景である。
「それにしても随分リアルだなー」
何かの撮影でもしているのだろうか。
遠目からではあるものの、そのあまりにリアルな船の様子に素直な感想が口をつく。なんだか本当に海賊が出て来そうな雰囲気があった。
そんな事を考えながら再び視線を動かすと船の上で何かが動いていた。
よくよく見てみれば船に人が乗っている。船の上で動いていたのは数人の乗組員らしき人達だった。彼らは皆口々に何かを言いながら甲板を忙しそうに動き回っている。
まるでこの船を出航させる為の準備をしているかのように。
***
「女の子?」
「……!?」
突然、背後から声を掛けられた。その声にびくんと肩が跳ね上がる。
驚いて振り返ると、そこには男が一人立っていた。
「何でこんな所に女の子が?」
男はこちらを見ながら不思議そうに首を傾げている。
見た所、歳は同じか少し上くらいだろうか。
髪は短く色は鮮やかな赤。その瞳もまた赤い。深緑色のマントのような物を羽織った格好をしている。なんだか変わった感じの人だ。
「随分と変わった服装だね」
「え、いや……」
寧ろ貴方の方が変わってると思いますけど。
物珍しそうにこちらを見詰めていた男だったが、私を上から下へと一通り眺めたのち、そんな言葉を口にする。それに対し思わず切り返し掛けた時。
「おっと、もう行かないと」
男は私から視線を外し、そして唐突に歩き出した。
「ま、待ってください!」
私は咄嗟にその男の腕を掴んだ。
いきなり腕を捕まれ驚いた男は掴んだ相手を振り返る。
「こ、ここはどこなんですか!?」
「え……?」
私は腕を掴んだまま男に尋ねた。
失礼かも知れないとは思ったが、とにかく今は今居るここがどこなのか、何よりも情報が欲しかった。
「ここはランプ島だけど?」
男はいきなりの問い掛けに戸惑いながらもそう答える。
「ランプ島……?」
聞いたことがない名前だ。耳慣れない名前に思わず首を傾げてしまう。
海外のどこかだとは思うけれど、それだけではここが一体どこであるのか判断が出来ない。
「ここから日本まではどのくらい掛かりますか!?」
今度は日本という名前を出して尋ねてみた。
「ニホン?ニホンって言うのは国の名前?そんな国は聞いたことがないけれど……」
しかし、男はどうやら日本を知らないらしく、そんな名前は聞いたことがないと言う。
それでも私は諦めずにより詳しく日本の位置を説明する。
「大平洋の沖に浮かぶ島国なんですけれど……」
「タイヘイヨウ?知らないな。というより、そんな国も海も存在しない筈だけど……」
だが、男は尚も知らないと首を振った。それどころか、男はなんとそんな国も海も存在しないと言い出しだのだ。
「そんな筈ないですよっ」
私は説明の仕方が悪かったのかと、更に詳しく男に対し説明を重ねる。
何故だろう、何かが変だ。
私は妙な違和感を感じていた。
男の外見はさて置いて、話す言葉は確かに日本語な筈なのに、何故だが男にはいくら説明しても日本の位置が伝わらない。
根気強く何度も説明をしてはみた。だが結局、男の答えは変わらなかった。
「ニホンという国もタイヘイヨウなんて海も存在しない」
男は言った。はっきりと。
知らないではなく、そんな海も国も“存在しない”と。
「そんな……」
私は絶句した。
日本が……大平洋が存在しない……?
一体なんで……だったら一体――
ここは何処なんだ?
全身の力が抜ける。私は掴んでいた男の腕を放した。
「君、どこから来たの?」
「日本から……来たと思います」
半ば放心状態に陥っていると、男に声を掛けられた。
しかし、自分でここに来た訳ではない私はそれに曖昧な返事を返す。
「帰り方は分かるの?」
重ねられた男の問いに私はただ首を振った。
分からない。もともと自分でここに来た訳じゃない。目が覚めたらいつの間にかここに居た。
帰り方なんて分かる筈がない。
それどころかどうしてこんなことになったのかも。
これからどうしたらいいのかも。
何一つ、分からない……
***
「――わかった」
しばらくの沈黙が流れた。それを打ち破るようにして男は突然声を上げる。その声に私は落としていた視線を上げた。
「え……?」
視線を上げてすぐに目の前に手があった。赤髪の男が私に向かって手を差し出していたのだった。
唐突なその行動。私は訳が分からずに驚いて男の顔を見る。男は真っ直ぐにこちらを見詰めたままゆっくりと口を開いた。
「一緒においで。俺がなんとかしてあげるよ」
私は目を丸くした。
そして戸惑った。
確かに今は物凄く困っているし、今手を差し出している男は見た目は少々変わってはいるが、いかにも人が良さそうに見える。
とはいえ、果たして今さっき出逢ったばかりの見ず知らずの男にほいほいとついて行っても大丈夫なのだろうか……?
しかしそうは言っても、今のこの状況では何一つ為す術がない。
自分一人ではどうすることも出来ないのなら、選択肢は一つしかなかった。
私は迷ったが、意を決し差し出された男の手を取った。
こうして私、桜川春は、無人島で出会った赤髪の男にやむなくついて行くことにしたのだった。
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