その時、誰かのスマホが鳴った。

望月奏汰

その時、誰かのスマホが鳴った。

物語は光と影の濃い部分しか写さない。白と黒の2つ。灰色は、使われない。例えば、部活の試合で勝って喜んでいるシーンは描かれるが、審判に整列を急かされるシーンはまず書かない。結婚式に別の男が来て花嫁と逃げ出すシーンは目を離せないが、その後の結婚式場なんて、目も当てられない。逆もそうだ。主人公に本当にショックなことが起きたとして、部屋でふさぎ込んでいたとして、そこが描写されてもその五分後にトイレに立った主人公なんて誰が見たいものか。白いものは真っ白な所だけ。暗い所は真っ黒な部分を好み、ピックアップする。それが物語であり、「ドラマチック」というものなのであろう。

―などと常にグレーの道を歩いてきた彩は思う。ふと見た玄関の時計は07:07を指し、さっきまでのあっても無くてもいい思考の時間を悔やんだ。7時15分の電車に間に合うためにはいつもなら家から10分はかかる。ドアノブを払いのけ、かかとの部分を踏まれたままの靴の悲鳴を無視してペダルに足をかける。まだ半分眠ったままの身体は自分のものでは無いような感覚で、うまく動かない。駅に着くと同時に電車がホームに到着する合図が鳴る。7時14分。やっと自分とリンクした身体と、漕ぐたびに何かが軋む音がする自転車を労う。電車に乗り込んだら、あとはもう普段通りの1日だ。勝手に自分を別の場所に運ぶ機械。きっとこのまま知らない土地へ連れていかれても抗えないんだろうな、と無駄なことを考えていると、高校の最寄り駅に到着し、さっきまでの思考が無駄だったことを再確認する。

「彩!」

今朝鳴らなかった目覚まし時計の音のような声が後頭部を殴る。

「あ、舞、おはよー」

短いスカート。明るい髪飾り。緩んだリボン。彩とは正反対と言っていい風貌のその子の名を呼ぶ。その瞬間の周りの目線にも慣れ始めていた。

「今日の体育長距離だってよ、だるくない?」

「そうだねー」

「昨日さくら彼氏と別れたらしいよ」

「そうなんだー」

会話、と呼べるのかすら不安なそれが続く。彩は反応をするだけでいいので楽なのだが、舞は毎日どこからそんなにネタを持ってくるのだろう。疑問に思うが口には出さない。なぜ舞が彩と一緒に登下校するようになったのか。それは彩が誰よりも疑問に思っていたことだが、勿論、口には出さない。ただ、周りからの目線を感じる度に、喉の少し下の辺りを締め付けられるように苦しくなるのだ。

「でさー、メールしたのに全然返ってこなくてさー、ひどくない?」

『そうだねー』と言ったつもりだった。何故か声は出ていなかった。さっき口に出さなかった疑問が排水溝の髪の毛みたいに詰まってしまったのか、今日の朝焦って声帯を家に忘れてきてしまったのか、原因は分からなかった。そして、ああ、やってしまったと直感した。

「ねえ聞いてなかったでしょ?」

ビクッと身体が強張るのが分かる。首だけ動かして声のする方を見る。口角は上がっていて、それでも目は笑っていなかった。すぐに前を向き直し、彩はその顔を見たことを後悔した。石をひっくり返したら蟲がいた時に近しい感覚だった。

「そんなことないよ」

頭は働かずとも、今度は勝手に声がでた。玄関で靴を履き替えるまで、首の向きを変えることはなかった。やってはならないことだったとどれだけ後悔しても、その数秒は戻ってこないことを彩は知っていながら、それでも後悔は尽きなかった。『舞への対応マニュアル第23条 絶対に無視をしてはならない。』を犯してしまった。どこかで挽回せねばと思いながら教室のドアに手を掛ける。小さく息を吐き、出来るだけ音を立てないように力を少しずつ入れる。1日の中で1番彩に視線が集まる瞬間だからだ。その日も、一瞬時が止まったかのように音が無くなりいくつもの目がこちらを見ている。一瞬でありながら永遠のようにも感じられた。全身から汗が噴き出してくるのを感じるまで、身体は全く動いてくれなかった。それを隠すように彩は足早に席についた。私の席は教室の左後ろの隅。席の後ろには必ず所謂カースト上位と呼ばれるグループが作られている。そしてその気味の悪い目線の先は私、ではなくその先。私の右斜め前の席。その机は黒や赤で文字が一面に書かれている。今日では時代遅れとも思えるそれをその席の主は隠すように伏せていた。ふと後ろを見やると笑顔と表現するには余りに惨いそれを顔に貼り付けていた。彩は急いでその表情を自分にコピーアンドペーストした。きっと舞をはじめとした私の後ろのグループは間違っている。でも、悪いのは右前の彼女だ。「間違い」は「悪い」ではないし、「正解」は「良い」と似て非なるものだ。彼女はきっと正解を持っている。それはここでは悪いこととされる。残念だが、ここに順応できなかったあなたが悪いんだよ、まあ今は私もだけどね、と伏せた身体に目を向けると、少しだけ目が合ってしまった。本日二度目の後悔。

結局彩は舞との関係を戻せずに帰路についた。足取りが重い。長距離走のせいかとも思ったが、違うということは彩が1番よく分かっていた。舞を怒らせてしまったことで、自分が少数派になってしまうのではないか。あの目を、あの顔を向けられる対象になってしまうのではないか。机が、汚れてしまうのではないか。

気づけば少しずつ足を出すスピードが遅くなっていた。ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。16時32分。いつもより早く学校を出たせいか、駅の隣のコンビニに着いた時間はいつもと同じくらいだった。電車が来るまで残り11分。コンビニで時間を潰そうと思ったが彩と同じ服装の人間が2人入っていったのを見てやめた。駅入り口の横のベンチに座る。入り口とベンチの間には大きな木があり、ちょうどベンチは木陰に隠れて涼しい。プラスチック製の古いベンチは座るだけで鈍い音を発し、不安を煽る。そんな感情の全てを体内に流し込もうともうぬるくなったペットボトルに口をつける。

―その時、誰かのスマホが鳴った。

反射的に少しだけ音のする方に目線がいった。当然大きな木が邪魔をして音の主は見えなかった。代わりに目に入ったのは木の根元に置いてあるダンボールだった。覗き込むと中には痩せた黒い猫と目があった。こんなのアニメでしか見たことなかったな、と少し手を近づけると、後退りしながら鳴き声を出す。弱りきっているのだろう、その声には力がない。それでもその目だけは力強くこちらを見ていた。彩はこの目に見覚えがあった。舞を怒らせてしまった時の目ではない。私がコピーしたグループの目でもない。そうだ、彼女だ。机に伏せた状態から少しだけ顔を上げた彼女の目。反抗。憎悪。そして、意志。

カンカンカンカン、という踏切の音で彩はふと、我に帰った。スマホを見ると16時44分と表示されていた。



教室のドアに手を掛ける。小さく息を吐いて勢いよく扉を引く。足早に自分の席に向かい、机を持ち上げ右前に運ぶ。伏せた頭が置いてある机を無理やり持ち上げ、自分の席へと運ぶ。

「ちょ、彩?なにしてんの?」

これは舞の声だ、と思う。机をそのまま自分の席にセットする。

『舞への対応マニュアル第23条 絶対に無視をしてはならない。』

「彩、あんた自分が何してるか分かってんの?私に許されると思ってるの?」

舞は彩の目の前に来る。思わずうつむく。小さくてもいいから声を出せ。自分自身に言い聞かせる。

「舞、あなたはね、特別な力を持ってる訳じゃ、無いんだよ。私とも、他のみんなとも、大して変わらないんだよ。」

『第16条 周りの人間と同じ括りにしてはいけない』

「舞は本当は一人でいるのが怖いんだよ。だから周りのみんなと友達みたいに付き合ってるけど、本当は周りも舞自身もこんなの友達じゃないって分かってるんだよ。そんなの、間違ってるよ。」

『第2条 否定してはいけない』

「私もそうだった。でも今は違う。あなたと違って今の自分から逃げたりしない。全てに向き合うの。立ち向かうの。だから、」

彩は顔を上げた。顔を、上げた。

「だから、もう関わらないでいいよ。」

『第1条 目を見て話してはいけない。』

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その時、誰かのスマホが鳴った。 望月奏汰 @kanataaaaa1

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