第92話 賢者は闇に沈み続ける

 深い海に突き落とされたかのような暗闇の中だった。


 全身を突き刺す冷たさだけが唯一感じられるものだった。石のように重くなった手足は、もはや自分の力では動かせない。呼吸ができているのかも疑わしかった。巨大な黒杯の中に飛び込んだ瞬間から、バリエラはひたすら沈んでいる。


 直前に使った治癒の奇跡のおかげで、効果が切れるまでは溺死の心配はない。だが、あれから時がどれだけ経ったのだろうか。長くも感じられれば短くも感じられる。それでもなお、未だに体はどんどん深く落ちている。果ての水底に辿り着く気がしなかった。


 無為に過ぎていく時間のせいで、意識が保てなくなりそうになる。


(いったい、どこに沈んでいるのかしらね、私は)


 自分が今どこにいるのか全くの見当がつかなかった。黒の魔人がいた広間では収まりがつかないほど、地下深くまで沈み続けている。この黒い水はいったいどこから来ているものなのだろう。いったい塔のどこに、ここまで大きな貯水池があったのだろうか。


 しかし、そんなこと今更になって考えても意味はない。バリエラには今できることをやるしかなかった。ただひたすら耐え続けて、ひたすら待ち続けるのみ。行動を起こすとしてもまだ早い。


(……っ)


 気が遠くなるくらいの時間を経て、やがて身体はぬかるんだ壁に当たって止まる。泥とも砂とも違う奇妙な柔らかさを背中に感じていた。ようやく止まった身体にバリエラは安堵する。このまま無限に落ち続けるんじゃないかと不安だった。


 ほとんどの五感が封じられ、常に孤独と戦わなければならない。気が狂いそうな環境で心が折れそうだった。だけど、ここで諦めてしまえば本当に死の運命が確定する。


 あえて黒い魔人の誘導に乗ったのだ。まだ終わるわけにはいかない。


『また……誰かが落ちてきたか……』


(ん?)


 行動を起こそうとしたところで、唐突に聞こえてきた声にバリエラの思考は停止する。気のせいかと思ったが、そうでもなさそうだった。水の中にしては、やけに鮮明に聞こえる声に動揺する。頭の中で直接響いてきているような……。


『ほう、哀れな犠牲者かと思ったが、何かしらの守りの術を使ってるな。どのみち無駄だが、能無しではないらしい』


(いったい、どこから聞こえているの?)


『それに答えても意味はない。どうせ、オレの姿はお前には見えん。お前の姿もオレには見えんがな』


(…………。私、何も喋っていないはずなんだけど)


 口に出していないはずなのに、返事が勝手に聞こえてくる。思考をそのまま読んだかのように的確な返答。でも、そんなことが有り得るとは、あまり考えたくはない。


『クハハ、残念だが、その認識で正しい。ずっとお前の思考は聞こえている。慣れろ。ここはそういう場所だ』


(嘘でしょ!?)


 思考だけでの会話が成り立つことに賢者は驚くしかなかった。この暗闇ばかりの水の中に、自分以外の存在が確実にいる。敵か味方か分からないが、迂闊なことは考えることさえ許されなさそうだった。


(嫌な感じ。ずっと心の声がダダ漏れだなんて。しかも一方的にだなんて)


『クハハ、きちんと頭は働いているようだな。そうだ、お前にはまだできんだろう。この環境に馴染まなければ、できんことだからな。今のオレには他の者の考えを覗き見ることくらい訳はない。お前も長くいれば、これくらい、――む?』


(こらっ、勝手に読むな! なに堂々と覗いてるのよ! 最低っ! 百歩譲って事故なら許すけど、わざと人の思考を読み取ってんじゃないわよっ、変態っ! 馬鹿っ! 死ねっ!)


 勝手に心を覗かれて不快でないはずがない。苛立ったバリエラは、とにかく罵倒で思考を埋め尽くした。どうせ漏れると理解していても、積極的に読むなと釘は刺しておきたかった。


 だが、相手の反応はバリエラの予想とは真逆のものだった。


『クク、ハハハハハハ。いいぞ、思ってた以上に威勢がいい。久々に楽しくなりそうだ』


(ちょっと!? なに喜んでいるのよ)


 頭の中で響いた笑い声に、バリエラは思わず凍り付く。罵倒されて喜んでいるとか、本物の変態が相手なんじゃないかと心の中で引いていた。


『いや、勘違いするな。暇つぶしにはなるから丁度いいという意味で笑ったのだ。ここに堕ちた人間は、やがて自分の意思を失い、壊れていくから話し相手もできん』


(ああ、そういうこと……)


 ずいぶんと困る役回りを押し付けられたものね、とバリエラはそう思った。世間話なんてする気分には到底なれない。そもそも、やることがあるのだ。構ってなどいられなかった。


『ほう、何か事を起こすつもりでいるのか。どうせ無駄だろうが頑張るといい。オレは自分が消えるのが何時になるか、予想しながら待つことでもしよう』


(変わった奴ね……。消滅することを自ら望んでいるの?)


『戦いが全てだったオレにはふさわしい結末だ。敗れたのだから文句は言わん』


(へぇ……敗者か)


 バリエラと同じように、あの黒い魔人と遭遇して敗れたのかもしれない。だが、あまり共感はできなかった。戦って負けて、潔く死を選ぶなどバリエラには考えられなかった。


 巻き込まれては死にかける。襲われては死にかける。立ち向かわないといけなくなって死にかける。バリエラにとって戦いとはそのように理不尽なものだった。なので、戦いを好むとかは論外で、堂々と自ら死を選ぶなんて真似はするつもりもない。


(まぁ、戦闘狂な人種がいるのは理解してるつもりだけどね。強い相手にしか興味を抱かない勇者が身近にいたわけだし)


『………………』


 残り二つの人格に隠れて、滅多に表には出ない竜の勇者の人格。バリエラもあまり話すことがないが、強者ゆえに漏れる威圧感と本人の好戦的な性格は覚えている。特にレイガルランを最後まで守り抜いた巨竜の姿は、瞼に焼き付いていた。


(……あれ?)


 ふと我に返り、何も声が返ってこないことに違和感を覚えた。それまでいたはずの見えない存在が何も発さなくなっていた。


(ちょっと!? いないの?)


 慌てて頭の中で、見えない声の主へ呼びかける。だが、反応はしばらく待っても返ってこなかった。そういえば、自身もいずれは消える的なことを、あの声の主は言っていたような気がする。でも、このタイミングで? と思わずにはいられなかった。


 再び訪れた孤独感に、不安と戸惑いが渦巻き始める。もっと会話しておけば良かったと後悔しだした頃になって声の主は現れた。


『ク、ハハハ、ハハハハハ、なるほど、そうか! どうりで覚えがしたわけか』


(は!? ちょっと、居たなら返事くらい――)


『少し態度を改めねばならんようだ』


(――え?)


 ガラリと変わった見えない声の雰囲気に、バリエラは緊張する。次の瞬間に感じたのは体全体を凍らせるような強烈な悪寒と、本能が警鐘を鳴らすほどの威圧感。


(な、なに……?)


 想像を超える豹変ぶりに、バリエラは戦慄を覚える。顔も姿も見えないはずなのに、身が縮まるくらいの恐怖を感じていた。何故ここまで恐ろしく思えるのか、自分自身さえも理由が分からない。


 そして、見えない存在の声は告げた。


『改めて、――久しいな、結界の賢者。そういえば、バリエラと呼ばれていたか……』


 いきなり自分の名前を告げられて、バリエラの思考は混乱する。


『レイガルランでのお前は、なかなか勇ましかった。あの勇者にオレが敗れた後も、生き残っていたのだな』


(レイガルランで、って、……まさか、あんたは…………)


 バリエラはやっと一つの記憶に辿り着いた。それは、あの城塞都市での攻防戦での記憶だった。死力を尽くしても、どうにもできなかった理不尽の化身が脳裏に蘇る。


 見えない声の主の正体にようやく心当たりがついて、動かないはずの身体が震えているような錯覚を感じた。


(……まさか、……そうなの?)


 それは竜の勇者との激闘の果てにたおれたはずの灰色の魔人。かつて、レイガルランを機能停止にまで追い込んだ強大な悪鬼。バリエラにとってトラウマに当たる凶悪な魔人が、同じ場所に存在していたのだった。

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