噛み砕かれた甘さ

みなづきあまね

噛み砕かれた甘さ

仕事とプライベートははっきり線引きをして生きてきた。学生時代から勉強にも部活にも我ながらストイックで、普段も自分が決めたノルマを達成することを未だに意識している。


急に、ではない。じわじわと広がるように、彼女は俺の生活の一部になった。


4月から新しい職場に入り、同じ部署に彼女はいた。自分よりも年下ではあるが、既に一回り以上上の社員を動かす役目を持つ人だが、決して完璧人間ではない。


自他に厳しい俺は、そんな彼女を肯定的でも否定的でもなく、とりあえず仕事上の付き合いの中での良し悪しで見て、用事がなければ席が近くても、なんら注目もしなかった。


だが、彼女は不思議だ。俺は比較的表情に感情を出さない、と言われ、その対価として人も他人行儀に接してくることが多い。


しかし彼女は話をする時、俺の目をしっかりと捉えてくる。時々答えづらい質問をした後、躊躇いながら目を彷徨わせているが、必ず笑いかけ帰っていく。


抗えなかった。気づけば彼女を見た。


8月も末。近頃ようやく暑さが和らいだが、9月は残暑が囁かれている。真夏の連続残業が祟ったのか、38度近い熱が出た。しかし、休むわけにもいかない。


翌日までに仕上げなくてはならない書類を作るが、なかなか先に進まない。いつもより働かない頭を必死に動かそうとしていると、控えめに呼ばれた。


「すみません。あの、一覧訂正版が出来たので、お渡ししておきます。」


彼女は座っている俺と目線を合わすよう、床に片膝をついて紙を差し出した。


「そろそろ忙しくなりますね。一人で厳しかったら・・・仕事頼んじゃおうかな。」


「いやー、まだこれも終わってないのに」


俺は気恥ずかしくて、パソコンに向き直った。


「何ですか?」


「新人研修の報告書。明日までなんですけど、まだこれだけで。」


「あー、懐かしい!課題を読むのも骨が折れますよね。大丈夫、なんだかんだですぐ終わりますよ!」


「文章書くの、苦手なんですよね・・」


椅子の背もたれに寄りかかり、思わず頭をかいた。目眩がする。


「そうなんですか?計算は速いのに。」


彼女はいたずらっぽく笑った。そして、


「頑張ってくださいね。」


と言うと、スカートをふわりと揺らし、戻っていった。



昨日は意識が朦朧としていたが、無事仕事は終わり、彼女とのやりとりも忘れてはいない。帰りに医者に寄り、薬も飲んだが、本調子ではない。


コピー機の前に立っていると、同じタイミングで彼女が印刷に来た。


「昨日は終わりましたか?」


「なんとか。」


昨日より意識がはっきりしているせいか、普段のそっけなさが戻ってきた。


「というか、風邪?昨日は普通だったのに。」


彼女は俺のマスクを指差して聞いた。


「いや、実は昨日から38度近くありました。でも、休むわけにもいかなかったし。」


「え!休みましょうよ・・・私の3倍くらい働いてるし、夏の疲れが出たんでしょうね。」


「いや、たしかに日曜も来たりはしてるけど、この間は1日家にいたんだけどなあ。」


そう遠くを見る俺の顔を、彼女はしっかり見据えて、「お大事に」と言うと、印刷したものを抱えていった。自分も席に向かったが、顔が緩んでいるのが分かり、ひとつ咳払いをしてから仕事にかかった。


1時間後に会議が始まった。自分のグループごとに座るが、たまたま彼女の横しか空いておらず、そこに座った。幸運だと素直に思った。


規模が大きい会議のため、報告することもない自分が言葉を発することはなく、隣に彼女の存在を感じながら時を過ごしていた。


もし彼女と二人になれたら何を話すか。彼女はいったい何を思っているのか。自分に可能性は・・・


急に彼女の名前が呼ばれた。彼女はすっと立ち、話し始めた。


「私事ですが、結婚することになりました。皆様にはいつもご迷惑をおかけしてばかりですが、引き続き頑張りますので、よろしくお願い致します。」


拍手や歓声が上がる中、彼女は微笑を浮かべて座った。今までで最も優しく、残酷な笑顔だ。


喉が痛くて口に含んでいた飴が、ガリッと音を立てて割れた。周りに聞こえる程の音だった。


笑顔は見れても、手は届かないことを知った。いっそのこと、今日も高熱なら、少しは気休めになったのかもしれない。

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