「恋」より始めよ

獺野志代

「恋」より始めよ

春の陽気は置いてきたように、気がつけば「暖かい」はすでに「暑い」へと変化していた。五月中旬だというのに日射は容赦ない。然れど、朝6時の太陽は寝ぼけているのか、林冠のすき間すき間からこぼれる木漏れ日を作れる程度だ。それは高校2年生の安藤あんどう 悠馬はるまにとって、大変都合がよかった。悠馬は高校の陸上部に入部している。悠馬にとって、陸上は人生そのものだ。今日も、8月に控えている全国大会に向けて、5月も始まってすぐの土曜日から、自宅近くの運動公園で朝練を始めていた。


カチッ

「…4分36秒、まだまだだな」


悠馬の専門は1500メートル走。なかなか記録が伸びず、思わず吐息が重たく淀む。朝練を始めて、まもなく3週間が経つ。

この悠馬の疲れと苦悩を癒すのは、練習後のシャワーでも、大好物の唐揚げでもない。


「や」


それは、東屋あずまやの下での他愛ない会話だ。


スズメがやかましくさえずり、羽ばたいて往く。昼なんかには喧騒で満ちるこの世界も、朝には、耳をすましても燦々とした朝日の欠伸あくびと小鳥のちょっとした鳴き声のみが辺りに響くばかりだ。こんなリリカルな朝を一人楽しむ。

いや、一人ではなかった。


悠馬は、運動公園で朝練をする時には、きまって、ある東屋で休んでいた。


練習を始めて数日、その東屋を訪れると先客がいた。それが、そのお姉さん、紗那さなとの出会いだった。


「4分36秒って、どれくらいなの?」


「いや、目標にはまだまだ指すら触れてないって感じですね」


会話の大方は、悠馬の陸上についての話が占めていた。紗那は頑なに自分のことを話さないが、悠馬にとってはそれもよかった。話を聞いてもらえる相手がいる、それだけで十分だった。

これ以上にない、幸せな時間。

悠馬にとって、朝の東屋はユートピアだった。


罪悪感に揉まれていた心が、晴れていくような気がした。


ピピッ「…4分24秒!」


6月下旬、梅雨も開け、いよいよ夏本番といったように、ジリジリと日照る。


「悠馬、順調だな」


顧問は悠馬の努力を屈託なく認めていたが、悠馬はやはりこれではダメだ、と感じていた。


久方ぶりに陸上部の友人らとぶらぶらと寄り道をしながら帰った。某ハンバーガーショップで、談笑しながらハンバーガーを頬張ったり、ゲームセンターで、UFOキャッチャーに奮闘したりと、部活の疲れが流れていくようで楽しかった。

それでも、朝の紗那との時間とは比べ物にならなかった。


友人らと別れた後、なんだか強く紗那を想い出し、いつもの励ましの感謝がしたくなった。帰り途中にある雑貨店で、黄色い手ぬぐいを買った。ポカポカとした雰囲気の紗那には、黄色が一番似合う、と悠馬は自負した。


精算を済ませ、再び帰路を辿る。ふと、ちらりと目を遣ると、電柱のふもとには一束の花が供えてあった。未来を憂う花束だ。

忘れかけていた罪を今になって思い出す。ギュッと心が強く締め付けられる。

まだ贖罪しょくざいは終わっていない。


「わっ、手ぬぐいじゃん!どうしたのこれ?」


翌朝、例によって東屋で会った紗那は、わかりやすくサプライズに驚いていた。


「いつも応援してくれているので、そのちょっとしたお礼…みたいな。」


口に出すとなんだか照れくさい。


「ありがとう!ぜひ使わせてもらうね」


気味悪がられたらどうしよう、と葛藤していたけれど、紗那の笑顔はそんな悠馬の葛藤を全く霧散させ、ポカポカと悠馬の心は休まった。

大会まであと2ヶ月もない。


最近、頻繁に同じ夢を見るようになった。

3月某日のことだ。

悠馬は19時半頃、普段通り自転車で家を目指していたが、視線はいつも前には向いていなかった。ながら族というやつだ。

片手にスマートフォンを携え、友人とチャットをしていた。

不注意だった。

T字路に差し掛かった辺りで、一人の女性を通り過ぎて道に出た時、パッと白光に包まれ、恐怖が身体中を巡った。

『死』の文字が頭を過ぎった最中、ドライバーは突然飛び出してきた自転車を避けるように右ハンドルをきって、なんとか悠馬を避けることが出来た。悠馬は。


ドシャッ!


ドライバーも悠馬も目を見張った。ドライバーがハンドルをきった先で横たわる女性の周りを「赤」が染めていく。街灯が息絶えだえにチカチカと女性を照らした。

ドライバーは膝からくずおれて頭を抱えていた。悠馬は恐怖に対して、「逃避」を選ぶ以外の勇気がなかった。急いで自転車に乗り直し、家までペダルを漕いだ。


誰かが見ていた気がした。


朝、目が覚めるとびっしょりと汗をかいている。息切れもひどい。それほどにまで苛まれた後悔を、容易く溶かすなんて甘えが通用するはずなかったのだ。

こういう時、いつも紗那を求めた。


カチッ「4分33秒………」


尾を引く夢と、走ることをないがしろにしたいという邪心とに挟まれてタイムがガタ落ちしていた。束の間には、重く淀んだ空気を吐き出していた。

あと、1ヶ月もないのに。


東屋へ行くと、やはりそこには紗那が笑んで手を振っていた。片手には一冊の文庫本。


「何読んでいたんですか?」


腰掛けたベンチは、昨日の雨で湿っている。


「『かいより始めよ』って高校でやったりしない?国語とかで」


「大きなことをするには簡単なことから始めるべきだ、みたいな意味の故事成語でしたっけ」


昨年の冬に授業でやった覚えがあったが、詳らかに答えられるほどではなかった。それでも、その故事成語の意味はまだなんとか覚えていた。


「まあ、だいたいそんな感じかな。かつての中国で、えんっていう国の王様が賢者を集めるにはどうしたらいいか、って郭隗かくかいっていう政治家に尋ねた時に言った言葉なの。好きなんだ、この言葉」


そう言ってはにかむ紗那は、悠馬にとって非常に愛らしかった。


「先づ隗より始めよ」

思い立ったが吉日、悠馬はかつてのT字路に来ていた。申し訳程度の花束をその場に手向けた。

あのドライバーはあの後どうなったのだろうか。

あの女性は助かったのだろうか。

なんにせよ、もはや悠馬に出来ることといったらこの程度のことだけだった。

あまりに遅かったけれど、これが悠馬なりの決意と誠意だった。簡単なことだけれど、毎日毎日ここを訪ねることにしよう。そうすればいずれかは親族にも出会うこととなるだろう。そしたら誠意を尽くして謝罪するのだ。決して許されるものではないし、自己満足でしかないけれど、小さいことからやっていくしかないと気づいたのだ。


大会まで残すところあと一週間というところまできていた。夏の暑さはいよいよピークに達し、至る所で陽炎かげろうが揺らめいていた。

朝だというのに、常識知らずなセミは力任せに鳴いていて喧しい。

悠馬は5日間の合宿に参加していた。これからは根詰めて練習に励まなければならない。心惜しいけれど、紗那との談話もお預けだ。

しかし、それを前日の朝、前もって話した悠馬は、


「頑張ってね」


という激励の言葉と共に、額に唇が当てられた。

あわあわと震える悠馬を横目に、紗那はにこりと笑って去っていった。


思い出す度に悠馬の頬はくしゃくしゃに綻びたが、それと同時にやる気に駆られ、4日目にはとうとう目標としていたタイムを記録することが叶ったのだった。

それを早く紗那に教えたかった。


それほどまでに悠馬の心は紗那でいっぱいだった。


合宿が終わり、大会はいよいよ眼前に迫ってきた。もちろん緊張や不安は容易になくなったりしないけれど、十分なポテンシャルが悠馬には確かにあった。

そして、大会でいい功績を残さなければいけない理由を作った。


いい功績を残した暁には、紗那に告白する


翌朝、大会前日の朝。悠馬はいつも通り、自宅近くの運動公園で走っていた。

風が気持ちいい。セミが奏でる追走曲カノンでさえも清々しく思える。


カチッ「…4分8秒。よし、今日も順調だ」


タオルで汗を拭きながら、いつもの東屋を目指す。嬉々としてそちらに目を遣ると、そこに紗那の姿はなかった。

もしかしたら、連日の悠馬の不在からつい忘れてしまっているのかもしれない。しかし不思議なことに、そこには紗那の鞄と『先づ隗より始めよ』の本が置いてあった。


ぶわっ


いやに強い風が悠馬を襲う。サワサワと木々が揺れ、葉々が擦れる。

その時、悠馬の目に映ったのは、紗那だった。


大木に黄色い手ぬぐいで首を吊るした


紗那であったなにかであった。


「なん…で……」


足がすくんでまともに立つことが適わない。

この5日間で何があったというのだろうか。皆目見当がつかない様子で、悠馬は泪も流す暇がなかった。

自分が高飛車になっている間、紗那の身に、気持ちに、何があったのか。


その全てが、あの本に遺されていた。


もはや地に足がついている感覚さえ乏しいなか、悠馬は引き寄せられるように東屋に置かれた文庫本を手に取っていた。

そこには、1枚の紙が挟まっていた。


『悠馬くんへ

まずは、先立つ不幸をお許しください。もちろん許してくれなくても構いません。むしろ、深く悲しみに沈んで立ち直れないほどになってくれたらいいな、と思います。

契機は3月某日に遡ります。

私の妹は、ある夜、交通事故に遭って亡くなりました。その現場に私も立ち会わせていました。私はそれが悔しくてたまりませんでした。そこで私は見てしまったのです。その事故の直接の起因となる人を。

「先づ隗より始めよ」

思い立ったが吉日、私は君を見つけました。それで、今日までに至るのです。

君は私を好きになってくれたでしょうか。

好きになってくれたなら、光栄ですが、私は、君が大嫌いです。

だから、君が一番嫌なことを私が叶えます。

さようなら

悠馬くん

紗那より』


読んでいくうちに、大鷲に掴まれたように心が痛められた。

これは自殺じゃない。悠馬が殺したのも同然だ、そう思った。

視界がける。


何をする気力もない。


走るなんてもってのほかだ。


大会?そんなもの知らない。


このまま無に帰したい。


安藤 悠馬は、大会を棄権した。


陸上を、やめた。

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