悪魔の考え

yurihana

第1話

男は悪魔の考えにとりつかれていた。

男の生活は常にその考えと共にあり、男の脳はそれ以外に何も考える余裕がなかった。

悪魔の考えとは、至極単純なものであった。

夢と現実の境界はどこなのか、というものである。


ある夏の日、テーブルを拭いている時にその考えが、ふと浮かんだ。当初、男はすぐに答えを出し、この考えを捨てる気でいた。しかし、いざ答えようとすると自信を持って答えることが出来ない。人から質問された訳でもないのに、男は真剣に考え始めた。


それが、全ての始まりだった。


夢と現実の境界はどこなのだろうか。こう考えた時、男は「寝ているかどうか」という結論を最初に出した。しかし、よく考えてみると、寝ている状態とは何を指すのか分からなくなってきた。目をつぶっていても、眼球は動いている。周りの様子が分からなくなっても、脳は活動している。夢を見るのがまさにその証拠だ。寝相というものがあるから、体の筋肉が完全に弛緩しているわけでもない。自分の考える寝ている状態とは、実際には起きているということになりはしないか。ならば、どの状態が寝ているということになるのか。どんな状況で、夢を見てるといえるのか。

男は本格的に夢と現実の境界が分からなくなった。自分が今、苦しんで努力をしても夢だったら、何の意味もない。夢のなかだと思っても、夢で死んだ時に現実で生きている保証がない。


男は怯えながら暮らすようになった。人と交わらず、消極的な性格になっていった。周囲を注意深く見渡し、何にでも警戒をするようになった。


一年後、男は運命の出会いというものを体験した。たまたま町ですれ違っただけの他人だった。だが、その女性を見た途端、この人でなければならない、と男の中の何かが叫んだ。男は勇気を持って話しかけた。人とめったに話さない男にとって、自分から女性に話しかけるのは特別なことであった。

女は最初警戒していた。見知らぬ男から声をかけられたのだから当たり前である。しかし、話すうちに女はこの男は自分に危害を加える者ではない、と考えるようになった。男が顔を真っ赤にしながらたどたどしい言葉を必死につむぎ出していたからである。女は自分の連絡先を教えた。

何回か会ううちに、女は男に心を許していった。女は少しずつ自分の生い立ちを話すようになった。そしてしばらくして二人は結婚をした。

男の頭から、まだあの悪魔の考えは消えていなかった。だが、幸せな家族生活を送っているうちに、その考えが男の中で、重要ではなくなってきた。今、男には二人子供がいた。妻も自分のことをよく思ってくれていて、円満な日々であった。男はここが夢であろうが現実であろうが関係のないことだと思い始めた。どんな状況であろうと、自分が幸せであったら、それが全てなのだと。男はいつしか、深く考えないようになっていた。


男がまた悪魔の考えにとりつかれるようになったのは、それから三年後のことだった。妻子が事故に遭い、亡くなったのだ。三人で夕飯の買い物に行く途中で、よそ見運転をしていたトラックが突っ込んできたのだという。トラックの運転手も亡くなったそうだ。

一瞬にして、最も大切にしていたものを奪われた男は、呆然とするしかなかった。さっきまで笑って話していたのに。いつものようにお帰りって言えると思ったのに。運転手も死んでしまったら、復讐も出来ない。

葬式は思いのほか早く終わった。日常に戻ると喪失感が一気に襲ってきた。葬式の手配などをしている間は忙しくて気が紛れていたが、することがなくなるといつもとの違いが、嫌というほどよく分かるのだ。男は感情の整理が上手く出来ていなかった。頭のどこかでまた妻子に会えるという根拠のない希望があった。また、死んだ、というたった三文字が全てを消してしまう事実に恐怖と、言い様のない絶望を感じていた。心にぽっかりと大きな穴が空いたようだった。

一週間がたった。男は脱け殻のような状態で過ごしていた。見える景色がテレビに映っているものをみているような気分になる。何を食べても味がしない。何を見ても面白くない。男の心はまさに押し潰されようとしていた。そんなとき、長年忘れていた、あの考えがぽつりと浮かんだ。夢と現実、その曖昧な線引き。


妻子は死んだ。死んでしまった。だが、もし、夢なら…?目が覚めれば、また会えるのではないか?またあの愛おしい笑顔がみれるのではないか?


馬鹿馬鹿しい考えだと思った。現実を見られなくするために悪魔が人間に与えたような考え。だが、唯一残された希望だとも思った。男はここは夢の中だと考えるようにした。男にはここが夢の中でないことぐらい分かっていた。だが、そう思い込むことが男にとって、最後の自己防衛の手段だった。

人の脳とは不思議なもので、しばらくすると、本当に自分は夢の中にいるのだと信じるようになった。男は目が覚めれば、妻子に会えるのだと思って、明るく振る舞うようになった。周囲の人々は男が立ち直れたのだと思い、安心した。


少しすると、男は苛立ち始めた。いつまでたっても夢が終わらないからである。いよいよ我慢が出来なくなった男は、夢から覚める方法を模索し始めた。

男は部屋にこもり、研究を始めた。すなわち、夢から覚めるための研究である。動物を使っているのか、家からは時々腐臭がした。また、頭を壁に打ちつける音や人の叫び声が聞こえてきた。


幾年か経った後、普段なら止む腐臭が消えないことに違和感を覚えた近隣の住民が警察に通報した。警察が部屋に入ると、そこには本能的に見たくないと感じる程の無惨な男の死体があった。捜索をすると、机の上に置かれたノートが一冊見つけられた。


そこには丁寧な字で一言書き加えられていた。


『我、夢の真髄、知り得たり。』




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