虫
夕凪
第1話
「ささ、入ってください。少々汚れていますが」
「入ってくださいって…。ここ、あなたの家じゃないんでしょう?」
蜘蛛の巣とたまり放題のホコリだけが目に映る六畳ワンルームの部屋は、住居というより倉庫を連想させた。
日当たりの悪さも相まって、玄関に立っただけで不快度は相当なものだった。
隣に汗の染み付いたシャツを身に着けた小太りの男が立っているのだから尚更だ。
「でも本当に大丈夫なんですか?いくらボロアパートの空き部屋って言ったって、一応管理人とかいるわけでしょう?流石にバレるんじゃないですか?」
「大丈夫ですって、隣の住人は私の知り合いですし、そこら辺のケアは怠りませんから。あなたはここで大人しくしていれば、それでいいんです」
2時間前、私はマンションの階段で虫を踏んだ。どこかで見た気はするが名前は知らない、そんなどこにでもいるような虫だった。
異変が起きたのは1時間後のことだった。
コンビニで買い物をした帰り、冬なのに蝉の鳴き声が聞こえることに気がついた。
最初は遠かったその音はだんだんと近づいてきて、耳元まで来たところで俺は倒れた。
目が覚めると、真夏の海辺の街にいた。
「お兄さん、どこから来たんですか?」
「○○です。△△に来たのはこれが初めてで…。と言っても、来たという感覚は無いんですが」
私を起こしてくれたらしい小太りの男は、エンドウと名乗った。コンビニの袋を持ったまま道路脇で倒れていたので、熱中症だと思ったらしい。
聞いたことも無い街に飛ばされてしまったらしい俺は、スマートフォンも持たずに散歩に出た2時間前の自分を憎んだ。
それにしても、この街は独特の臭いがする。潮の香りとも違う、焦りを誘う臭いだ。
「あなたも目が覚めたらここにいた、っていうやつですか?」
「ええ、そうなんです。あなたもって、私の他にもいるんですか?」
「毎年2,3人はいますね。ここら辺の住民は、夏の悪戯なんて呼んでいます」
家に帰りたい。それが率直な気持ちだった。休日は家で過ごすのが私の流儀だ。
「ここから○○までって、電車でどのくらいですかね?家に帰りたいんです」
そう聞くとエンドウは、この地域は交通の便が悪いこと、今日はもうバスが来ないから、1泊してから帰ったほうがいいと言った。
まだこんなに明るいのにもうバスが来ないとは。1日1本のバスって本当にあるんだな、なんてふざけたことを考えていた。
宿泊を勧めたくせにホテルも民宿もないらしく、連れてこられたのは古びたアパートの二階にある一室だった。
「でもこれじゃ寝られないですよ。掃除用具とかありませんか?少し綺麗にしたいです」
「ああ、ありますよ。ちょっと待っててください。下の倉庫をから持ってきます」
待っている間、酷い耳鳴りに襲われた。
耳鳴りは爆発の予兆のようで苦手だ。
エンドウは箒と水入りバケツと雑巾を持ってくると、一旦家に戻ると言った。
ホコリはベランダから落として構わないとのことだった。
一通り掃除を終えると、もう日が暮れていた。掃除用具を倉庫に戻し部屋に戻ると、私以外のここに飛ばされた者達がどうなったのかを聞きそびれていることに気がついた。
エンドウはその日戻ってこなかった。
色あせた畳の寝心地は最悪だった。
だがどこか牢獄を思わせるがらんどうの部屋は、居心地が良かった。
翌朝、日課の散歩に出掛けようとしたところ、玄関のドアが開かないことに気がついた。
鍵は開いているのに、ドアが開かない。
なにかが変だと思った瞬間、強烈な目眩に襲われ意識を失った。
目が覚めると、そこは自宅のリビングだった。見慣れたテレビに見慣れたソファ、まさしくそこは私の家だった。
眠気覚ましにシャワーを浴びようと服を脱ぎ始めた私の目は、親指の爪に釘付けになった。
黒光りするそれは、昨日踏み殺した虫の羽を思い出させた。
虫 夕凪 @Yuniunagi
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