私の王の王国
狭倉朏
私の王の王国
その少女は清らかな微笑みを絶えず湛え、常に朗々と言葉を発し、輝ける瞳で世界を見つめていた。
この地上の誰よりも麗しく、この王国の誰よりも愛されて、この王城の誰よりも優しくて、そして誰よりも王に不適格な少女だった。
私は王の護衛役として彼女に仕えるものだった。
彼女を守り、彼女を愛し、彼女と共に生きた。
それだけの女。それだけの存在。それだけの人生だった。
「おはよう、リーリエ」
私の王はいつものように私の名を呼ぶ。
「おはようございます、陛下」
私は王に深々と頭を下げる。
私の王は今日も微笑み、その言葉は朗らかで、輝ける瞳に見つめられるだけで私は幸福を覚え、そして彼女が常から寝台に伏していることを心の底から苦しく思った。
「今日の予定は?」
「はい。午前はいつものように陳情の儀を執り行います。昼には国境の領主の名代が城に到着します。国境の動きについて報告があるようです。午後にはケーニッヒによる歴史の講義がございます」
「ケーニッヒの講義ね。私、彼の話好きよ。どうしてああも愛想がないのに話し上手なのかしら」
「奴は昔から勤勉でしたから……ジョークも学習したのでしょう」
「そう」
私の王は朝食を口に運びながら優雅に微笑む。
「リーリエ、貴女の予定は?」
「いつも通り、陛下に付き従います。護衛として、おそば付として」
「ありがとう」
王は破顔して見せた。
私なんぞにはもったいない表情に私はひたすら頭を下げた。
この地上から神々が去ってからもう千年の時が経った。
神の威光によって抑えつけられていた土地の災いは噴出し、人々はいつ襲うとも知れぬ五つの獣たちに怯えて暮らした。
多くの試行錯誤の末、この地上を治めるにおいて、人である王が神の代わりを務めることとなった。
王はその身に宿す強大な魂を地上に送り込むことで、国土を治めた。
それは土地との契約であった。
川の氾濫、大地の震え、天候の乱れ、ありとあらゆる災いを王はその魂を削って治めた。
歴代の王がその役目に殉じ、儚い命を散らしていった。
幼い私の王が王位に就いたのは彼女の父王が増加する災いに耐えきれずその魂を削りきり、死を遂げたからであった。
その死に際しても彼女は凛としていた。
父王が亡き後も彼女の朗らかさは健在であった。
たとえ王国のためにその魂を削り、体力を削ろうとも、私の王はその表情を曇らせることはなかった。
「それではさっそく陳情の儀から。私の民に会いに行きましょう」
ゆっくりと慎重に、その身に必要以上に負荷をかけぬよう、私の王は寝台から立ち上がった。
「……はい」
私は畏れ多くもその体を支えながら、顔を曇らせる。
陳情の儀は言ってしまえばただの儀式である。
選ばれた民に王が健在であることを示し、満足と安心を与えるためだけの形骸化した儀式。
王は民の言葉を聞くが、その処遇は結局のところ後ろに控える宰相たちが決める。
幼き王に物事の決定権はないに等しかった。
私の王はそれをどう思っていらっしゃるのか、それを聞くことは憚られた。
優しい笑みを浮かべ、時に悲しみの涙を流し、私の王は民に接する。
私には欠伸をかみ殺したくなるような聞き飽きたお決まりの民の言葉。
私はそれらの陳情を王の反応を見守ることで聞き流した。
王と同じく私もその民の言葉を聞き入れる権限など持っていなかったから。
昼餉には国境からの使いが同席した。
普段は寝台でゆるりと食事を召し上がる王は、正装のまま応接の卓についた。
国境は実りの時を迎え、収穫祭はつつがなく行えるという。
そのほかには大きな動きこそないものの、亡命を求めて国境を突破しようとするものが何人かいたという。
私の王はその亡命者たちへの寛大な処置を国境の領主に求めた。
昼餉の後に王は仮眠を取った。
「おやすみなさい、リーリエ。ケーニッヒが来たら起こしてね」
「はい、おやすみなさいませ」
私は王が眠りについたのを確認し、寝室を後にした。
それが最後の会話になるなどと、そのときの私は思いもしなかった。
ケーニッヒは約束の時間になっても王の勉強部屋に姿を見せなかった。
四角四面を絵に描いたような男にしては珍しいことだった。
私はケーニッヒを探すために、王の居室から出た。
広い王城を男の居そうな場所を順繰りに巡ったが、男の姿はどこにもなかった。
「リーリエ様!」
私を切迫した声で呼んで駆けてきたのは王に仕える侍女の一人だった。
「どうした」
侍女は肩で息をしていたが、その顔は真っ青だった。
「陛下が……陛下が……」
悲痛な叫びはそれ以上、言葉にならなかった。
侍女が泣きながら崩れ落ちるのを横目に私は王の部屋へと一目散に駆けた。
心臓が早鐘を打つ。
頭が痛い。
最悪の予想に全身をかきむしりたくなるような寒気が走る。
「姫様……?」
寝室に到着した私の口から思わず漏れたそれは過去の呼び方であった。
まだ生まれたばかりの彼女の護衛役として任命された頃の呼び方だった。
覚えている。まだ十代の小娘の指を強く握りしめた赤ん坊のことを。
色褪せない。雪降る中の赤く染められた頬を。
忘れない。花咲く野を駆ける無邪気な後ろ姿を。
胸に残る。夏の果実を半分こにしてみせた小さな手を。
その彼女が今冷たい体を美しく磨き上げられた床に横たえている。
私の目の前には私の王の骸がある。
微笑みは絶えた。
言葉は途切れた。
瞳は暗く翳った。
麗しさは損なわれず、私の愛は失われず、彼女の優しさは報われずに地に落ちた。
「……どうして」
膝から崩れ落ちながら、抑揚のない声が私の口から漏れ出る。
「そもそも制度に無理があったのだ」
どこをどう侵入したものか、私の王を骸に変えた男は淡々と告げた。
罪悪感などないように。
返り血など顧みずに。
それが当然であるかのように。
その男がケーニッヒであると気付くのに、私には時間が必要だった。
「王が強大な魂を持たぬのなら……未熟であるのなら王位はよそに譲られるべきだった。神去りしこの世界と世襲制はあまりに相性が悪い……そんなことは誰もが知っておくべきことだった」
私には返す言葉がなかった。
男の言葉は正論であり、反論の余地がなかった。
「……王権が宙に浮くぞ」
呪詛の言葉を撒き散らしたい思いを押さえつけ、私は男にそう吐き捨てた。
王権は魂を削る王に土地から付与される。
王国の王権は世襲制であり、少女は選ぶ間もなく父王亡き後、即座に王となった。
その体はボロボロだった。
その魂はボロボロだった。
しかし彼女は役目を果たし続けた。
強く儚く優しい彼女。
彼女の次の王位継承者はいなかった。
彼女が配偶者か養子を取ることで次の王位継承者を決める。
それは急務であったが幼い彼女にそれをさせるのは酷だと先延ばしにしていたのは他ならぬ私たち近臣であった。
彼女が死んだ今、王位は誰にも継承されない。
下手人をそのまま王にするような野蛮な制度をこの世界は取っていない。
土地との契約は結び直す必要がある。
王権は宙に浮く。
それはすなわち土地に災いが再び訪れるということだ。
彼女がボロボロになってまで守ろうとしていた土地に災いが降りかかるということだ。
「貴様は王にでもなるつもりなのか、土地との契約を結び直す猶予を我々が……」
王の暗殺は成功した。
この男は王の側近の一人であった。
そのもくろみを見抜けなかった私に、我々と呼べる仲間がどれほどいるのか不明瞭だった。
もしかしたらこの王国にはもう私と彼女の味方など居ないのかも知れない。
彼女の仇を取ってやりたいと願う人間など私しか居ないのかも知れない。
「……私が許すと思うのか?」
だから私は言い直した。
言い直さずには居られなかった。
「……リーリエ。俺は王というあり方にこそ疑問を呈する」
「なんだと?」
「なあリーリエ。王というのは必要だろうか」
男の言葉は妙に力がなかった。
「必要だ。王なくしては土地の安寧は訪れない。王が魂を削るからこそ土地は安らぎ民も我々もそこに暮らせる」
私の答えは明瞭だった。
「その王の犠牲を我々は本当に許容してよかったのだろうか」
「……何を言っている、ケーニッヒ」
私の口の中が乾いていく。
私の腹には怒りが煮えたぎる。
私の心には疑問が湧き出でる。
「……何が言いたい、ケーニッヒ。お前の物言いは……まるで王のことを思っているかのようではないか」
「思っていた、のだ。リーリエ、君だってそうだろう」
「……陛下のあり方に疑問や苦しさを覚えていたのは確かだ。しかしだからといってお前のしたことは……陛下を殺すことは物事の解決ではない」
私はようやく立ち上がった。
私はようやく剣を抜いた。
私はようやく王の護衛役としての仕事を果たそうとしていた。
「……お前を殺そうケーニッヒ。王を殺したお前を殺そう」
「構わない」
男は淡々としていた。
右手に提げた王の血で赤く染まった剣を構えようともしなかった。
「俺はどちらでも構わない。ただ俺は信じているのだリーリエ。この後の世界で王には誰も続かない」
「……世迷い言を」
私の言葉は力がなかった。
私を奮い立たせていたものはすでに亡く、その残滓のために私は立っていた。
「これからの時代に王は要らぬ。王が魂を削って治めた土地をこれからは人の手で治めていく。それこそが俺の見た未来だ。我らの王と歴史を見比べて俺が得た結論だ」
「……ふざけたことを、これ以上ぬかすのをやめろ」
「そしてこれは王が同意された未来だ」
その言葉に私の手から剣は滑り落ちた。
ケーニッヒという生真面目な男が冗談と嘘を苦手とすることを私はよく知っていた。
あらかじめ学習し用意しなければそれを口にすることなど叶わないと知っていた。
私は信じたくなかった。
しかしケーニッヒは容赦なく言葉を続けた。
「陛下は淡々と受け入れた。俺の裏切りも俺の剣も俺の世迷い言も」
ケーニッヒの顔に表情はなかった。
とても年端のいかぬ娘を殺したとは思えないほどの淡泊さだった。
しかしそれこそがケーニッヒという男の強がりなのだと、気付けぬ私と男の仲ではなかった。
「『私は国土のためにその命を失うわけには参りません。死ぬことは許されません』」
ケーニッヒの言葉が私の頭の中では王の声色で響いた。
「『しかし、あなたがそういうのなら、それはきっと叶えられるでしょう。ケーニッヒ、私は貴男を信じましょう』」
私は王のことをよく知っていた。
知っているつもりであった。
故にその言葉が王のものであると私には分かってしまった。
私にはもう握る剣はなく、ケーニッヒを殺す理由はなく、そして生きていく理由もなかった。
私の剣を握れぬ手は冷たい床に横たえられた私の王の骸を抱き上げた。そして彼女を柔らかい寝台へと寝かしつけた。
その体は思っていた以上に軽く不安定だった。
ケーニッヒはその後粛々と捕らえられた。王殺しの男に極刑の判決が下るのに時間はかからなかった。
しかし王を失った王国の天地は荒れ狂い、五つの獣は目を覚まし、その対処に人々は追われた。
ケーニッヒの豊富な知識は重宝され、刑の執行を猶予され続けた。男がそこまでのことを考えて凶行に及んだのかは私には分からなかった。
私はといえば荒れた天地にも捕らえられ男にも見向きをせずに、私の王の葬儀を執り行っていた。
私の王の王国では王の葬儀と次代の王の即位はひとまとめに行われる儀式だった。
そのため私の王の葬儀は前例がなく、また王国が荒れている今、割ける人員も費用もなかった。
彼女の葬儀はとても質素なものとなった。
私はそれを心苦しく思ったが、彼女なら許してくれると自分を無理矢理に慰めた。
それを終えた私にすでに守るべきものはなく、私に握れる剣はなく、私に救える王国はなかった。
私はすべてを失い、すべてから歩み去った。
かつてその土地には王国があったという。
その王国が滅びてから千年の時が経った。
そこに今は小さな国がある。
常に何らかの災いにさらされながらその小さな国は今日も営みを続けている。
その場所にかつて王がいたことを誰もが知っているが、その最後の王の名を知るものはなく、最後の王の思いを知るものはなく、最後の王のそばに控えた彼女の存在を知るものも誰一人としていなかった。
私の王の王国 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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