一
一通の手紙が彼の家に届いた。差出人は書いていなかった。宛名の文字を見ても、その筆跡に心当たりは無い。消印を見ても何処か分からない。知らない地名、というのではなくかすれて読めない。
中は便箋が一枚。そこに書かれた文字に目を走らせる。そこに差出人の名前が書いていると思ったから。
だが、彼が感謝されているような内容が一文、書いているだけだった。
彼には、そんな事をした心当たりは無かった。
残しておく物でもなさそうだからゴミ箱に捨てても良かったけれど、彼の気持ちの中にあった錨のようなものがそれをやめさせた。結局、その手紙は本棚の隅っこに押し込んだ。
ある時、気がついたら真っ暗な空間で彼は立っていた。どこでこんな場所に足を踏み入れてしまったのかと考えた。
「ねぇ、覚えている?」
どこからかそう聞こえた。声の主は分からない。
そして、辺りは真っ白になり、何処からともなく文字が横から流れてきた。
目で追った。そして、その文字に触れようと手を伸ばしたけれど届かなかった。歩いて寄ろうとても、近づく気はしない。だが、彼は前に進み続けた。だんだん早足になりながら。そうこうしているうちに文字は消えてしまった。
そこで目が覚めた。
何かに引き寄せられるように、寝間着のまま真っ先に本棚の隅を探す。色んな書類や手紙が煩雑に押し込まれていた。その中から、幾つかの皺がついてしまっていた差出人の名前が無い手紙を見つけた。中の便箋を取り出して目を通した。
夢に出てきた文章と手紙の文章は全く同じだった。せめて、あの夢に人が出ていれば、と思った。差出人が誰か分かったかもしれないに。単に、手紙を読み込んだからこんな夢を見てしまっただけかもしれないが。
電話が鳴った。はっとして受話器を見る。画面に表示された番号はどこかで見覚えがあった。
「もしもし?」彼は受話器を耳にあてる。
「もしもし、政重だけど」
小学校の頃からの友達だった。一体、何年ぶりに聴く声だろう?
「ああ。久しぶり。なんか用か?」
「いや、あのさ、俺達が住んでた村、もう無いらしいってことを聞いたから」
「知ってる。前、行ったときには既に廃村だった」
「どうして行ったんだ?」
その時、彼の脳裏には稲妻が落ちたかのように記憶が閃いて、思い出が展開された。
まるで、幻のような、夢のような。
彼は黙っていた。
「どうした? 聞こえてるか?」
あの頃は、ある夢を繰り返して見ていた。
雪の日の夢を。
窓を見た。
雪だった。
今季の初雪だった。
この前、行った時も雪が積もっていた。
もう、今年も十二月になるんだな、とカレンダーを彼は見た。
日付を見る。そして苦笑いをした。
「ずっと前の明日の事、覚えているか?」
二人は黙った。辛い沈黙だった。
ひとときも忘れないようにしていたつもりだった。
でも、忘れていた。
なんと情けないことだろう。
耳を塞ぎたくなる急ブレーキの音。
目を瞑りたくなるトンネルの壁の血。
生々しい嫌な思い出が瞬く間に蘇った。
「俺は今朝まで忘れていたよ」
「どうして思い出した?」
「分からん」
オーロラが出てくるような沈黙が再び。
「こっちは今、初雪が降ってる」
「こっちも降ってきた」
「あの日も雪だった」
十センチぐらい雪が積もっていたか、あの日は。
「ああ」
「明日は暇?」彼は誘ってみることにした。
「え? 休日だから一応」
「行かない?」
「本気か?」
「当然」
「別に構わないが」
「分かった。明日の朝八時にお前の家の前で」
「了解。また明日な」
電話が切れた。電子的な音の連続が続く。彼はしばらく受話器を耳にあてたまま立っていた。
自分も、政重も、変わったかなと初めて思った。
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