せんせいとかばん

『かばん』 きのしたるり


せんせいが赤いかばんをもっていました。

とてもかわいいかばんだと思いました。

おかあさんに

「かわいいかばんだね」

といったら、おかあさんはとてもニコニコしていました。

すみちゃんは、

「あの顔はわるだくみしているときだから気をつけな」

といいますが、おかあさんはいつもやさしいので、わるいことはしないと思います。


********* *********


 花丸の書かれたコピー用紙と、海のポストカード、そして『未来』というタイトルの絵を眺め、「今日もがんばるぞ」というのが私の朝の日課になっている。

 新学期がはじまり、私にもいつもの日常が戻ってきていた。

 すみ枝さんの部屋をいきなり訪ねたけれど、それから特に進展はない。だけど少しだけすみ枝さんのことを知ることができた。それで今は十分だ。

 「中学生じゃないんだから」という心の声もたまに聞こえるが、まずは、私が繭から羽化するべきなのだろう。そうしなければ、すみ枝さんに大人の女性として見てもらうことなんてできない。

「あ、いけない、時間だ」

 私は時計を確認して慌ててバッグを持つ。

 今日は児童の通学路で登校の見守りをする日だ。いつもより少しだけ早く出勤しなければいけない。



 私が担当する通学路に着くと、すでに三名の保護者が来ていた。

「おはようございます」

 私は笑顔であいさつをする。

「おはようございます」

 あいさつを返した保護者の中に、すみ枝さんの姉・みち枝さんの姿もあった。

「お仕事は大丈夫ですか?」

 ほとんど無意識にみち枝さんに話し掛けてしまった。みち枝さんが仕事で都合がつかないときにはすみ枝さんが代打で学校に現れる。だけどそれを期待して聞いたわけではない。

「今日は仕事がお休みなんですよ」

 みち枝さんは笑顔で答える。だが次の瞬間、少し表情が硬くなったような気がした。

 少し引っかかったけれど、それはほんの一瞬のことですぐに爽やかな笑みを浮かべていたので、私の見間違いだったのかもしれない。

「あら、先生。そのバッグ、素敵ですね」

 みち枝さんが私のバッグを見て言った。

「ありがとうございます」

「大きくて書類も入れられるサイズなんですね。使いやすそう」

「はい。中もポケットや仕切りがあるので、細かいものも分けていれられて便利ですよ」

「私もそういうバッグが欲しいわ。赤ってちょっと派手過ぎるかと思ったけど、その色は落ち着いていていいですね」

「ええ、私もこの色がすごく気に入って買ったんです」

 誕生日に奮発して買ったバッグを褒められて、私は少しうれしくなっていた。

 みち枝さんとそんな世間話をしていると、やがて子どもたちが登校してきた。

 整列して歩く子どもたちの姿を見送り、保護者たちにお礼を伝える。

 そうして学校に戻ろうとしたときみち枝に呼び止められた。

「先生、少し相談があるんですけど、今日、時間をいただけますか?」

「夕方で良ければ……。流里さんたちは大丈夫ですか?」

「妹に頼むので大丈夫です。それでは夕方学校に伺いますね」

 みち枝さんはきれいな笑顔を浮かべて頭を下げた。



 一日の授業を終え、児童たちが下校したころ、約束通りみち枝さんが学校に現れた。

「職員室でよろしいですか?」

 私が職員室の一角にある応接スペースを示すと、みち枝さんは少し困った顔をした。

「できれば二人だけでお話がしたいんですが……」

 その表情からは少し深刻な雰囲気が漂っていた。他の先生には聞かれたくない話なのかもしれない。

「では、教室でよろしいでしょうか?」

 児童はすべて下校している。教室ならば他人を気にすることなく話せるだろう。

 みち枝さんが承諾の意を示したので、私たちは二年一組の教室に移動した。

 ガタゴトと机を動かして面談できるスペースを作る。

 大人が座るには小さな椅子だが、そこは我慢してもらうしかない。

「流里さんのことで、何かご心配なことでもありましたか?」

 私は少し緊張をしながらみち枝さんに尋ねた。

 学校での流里さんの様子を思い浮かべるが、変わったところは見られなかった。

 だけど私が気付いていないだけかもしれない。

 こうした面談で相談されることといえば、勉強についていけないや、教師へのクレーム、そしていじめだ。

 みち枝さんは沈黙したまま校庭を眺めている。

 いじめの問題だとすれば慎重に対処しなければいけない。子どもたちの関係はデリケートだ。対処を間違えれば子どもたちの心に大きな傷を残しかねない。

 私は表情を引き締めてみち枝さんの言葉を待つ。

 けれどみち枝さんが話しはじめたのはまったく予想外の内容だった。

「先生、妹の作品展にお越しいただいてありがとうございました」

 芳名帳を記入している。私が作品展に行ったことをみち枝さんが知っていてもおかしくはない。

 それに教師が児童の家族の作品展に行ってはいけないというルールもない。

 それなのに私の心臓はバクバクと跳ね上がりはじめた。

「案内状をいただいたので」

「海の絵が多かったでしょう?」

 みち枝さんは笑顔を浮かべて話している。だが、その笑顔が妙に恐ろしく見えた。

「あの子、子どもの頃に海で溺れかけたことがあって、まったく泳げないんですよ。それなのに海の絵ばかりを描くんです」

「そうなんですか」

 みち枝さんが何を言いたいのかさっぱりわからない。だけどなんだか私にとって良い話ではない気がしてならない。

「あの子の絵には、いつも人魚がいるでしょう?」

「そう、でしたね」

「溺れかけたときに、見たんですって。人魚の姿を」

 みち枝さんはまっすぐに私の目を見る。

「溺れかけたあの子を助けたの、私なんです」

 そのとき、プールですみ枝さんが流里さんたちに話していた言葉を思い出した。

『泳ぎならお母さん頼みなさい。あの人、実は人魚なんだぞ』

 流里さんに泳ぎを教えて欲しいと頼まれたとき、確かにみち枝さんのことを人魚だと言っていた。

 すみ枝さんが絵の中に必ず描いている幼い人魚は、すみ枝さんを救ったときのみち枝さんの姿だということなのだろうか。

 そしてそれが意味するものは何だろう。

 私は必死で考えようと思っているのに、心臓の音がうるさくて考えがまとまらない。

 それでも私は必死で平静を装い、みち枝さんの話に耳を傾ける。

「そういえば、先生のバッグ」

 みち枝さんは突然話題を変えた。

「あのバッグってどこで買われたんですか?」

「それは……」

 店の名前を伝えようとしたとき、みち枝さんは私の言葉をさえぎる。

「同じバッグを、すみ枝の部屋で見掛けたんですけど、人気なんですね、あのバッグ」

「……!」

 みち枝さんは、あの日私がすみ枝さんの部屋にいたことに気付いているのだ。そしておそらく私のすみ枝さんに対する気持ちにも気付いているのだろう。

 だけどそれは私の一方的な想いに過ぎない。そもそもやましいことなんて何一つないのだ。

 否定をしてしまえばそれで終わる。まだ何もはじまっていないのだから――。

「それは、違ッ……」

 私は立ち上がり、否定の言葉を発しようとした。だけどみち枝さんが人差し指を立てて私の言葉を制した。

「落ち着いてください、先生。大丈夫ですか?」

 みち枝さんは相変わらずきれいな笑顔を浮かべている。

 きっと私の顔は青ざめているだろう。みち枝さんの視線に、私は身動きひとつできない。ヘビににらまれたカエルとは、こんな状態を言うのだと身をもって感じていた。

「私とすみ枝って、姉妹なのに似てないでしょう?」

 みち枝さんは再び唐突に話題を変えて、意味深な笑みを深めた。

「それは、お二人が血の繋がらない姉妹だということですか?」

 震える声で私は聞く。だがみち枝は笑顔を浮かべるだけで答えない。

「婚姻届けなんて、私たちには必要ないんですよ。だって、ずっと家族だったし、これからもずっと家族なんですから」

 そして急に鋭い視線を私に送ると、スッと体を近づけて耳元でささやいた。

「私たち家族の間に入り込むつもりなら、覚悟をしてくださいね」

 そして何事もなかったかのような笑顔に戻ると、「お話、聞いていただいてありがとうございました」と頭を下げて教室を出て行った。

 みち枝さんが去った教室で私はへたり込んだ。

 足に力が入らない。

 みち枝さんの言葉は、私への宣戦布告だ。

 幼い頃からあの姉妹は特別な関係だと伝えに来たのだ。

 私に入りこむ隙など無いと言いたいのだろう。

 すみ枝さんは、すべての絵に姉の姿を描き込んでいる。

 しかし、私を描いたという『未来』には人魚の姿はなかった。

 それにはどんな意味があるのだろう。

 他人に渡すとわかっている絵に大切な人を描くことはできないということだろうか。

 仲の良い叔母と姪の姿をずっと見てきた。私にそれを壊すことができるはずがない。

 ようやく自分の気持ちに向き合い、やっと一歩踏み出そうとしたところだった。

 はじまってすらいない。私がこの想いを諦めればそれで済む話だ。それなのに胸が苦しい。息ができない。

 流里さんや里香さんが悲しむことになったとしても、すみ枝さんが欲しいと思ってしまう。

 いつの間に、こんなにもすみ枝さんのことを好きになってしまっていたのだろう。



 それからの一週間、私はボロボロだった。

 みち枝さんの言葉の一つひとつが私の頭をよぎり、そのたびに失敗をしてしまった。

 先輩の教師から「いつまでも学生気分じゃこまりますよ」と小言をもらったのも一度や二度ではない。

 気持ちを切り替えなければいけない。

 私の心の中がどんな状態であっても児童たちには関係ない。学校にいるときは、「樹梨」ではなく「先生」でなければいけないのだ。

「せんせい、どうしよう」

 帰り支度をしていた流里さんが目に涙を溜めて駆け寄ってきた。

 朝から少し元気がない様子で気にはしていたのだが、みち枝さんのこともあり、話し掛けることができなかった。

 これでは先生失格だ。

「流里さん、どうしたの?」

 そのとき姉の里香さんが教室に現れて流里さんを呼んだ。

「おねえちゃん、どうしても行かなきゃだめなの?」

「今日はお父さんとの大事な用事があるって、お母さんが言ってたでしょう」

 妹を説得しようとする里香さんの顔にも暗い影が差している。

「一体どうしたの?」

 私は二人をなだめるように、できるだけやさしい声でいう。

「あのね、すみちゃんが病気なの」

「すみちゃんが倒れちゃったって。お母さんは入院した方がいいのにって言ってた」

「え?」

 心臓が跳ね上がる。すみ枝さんが倒れたとはどういうことだろう。入院が必要なほどの病状とはどんな病気なのか。

「も、もう少し詳しく教えてくれる?」

 平静を装って二人に尋ねたつもりだけど、装えている自信がない。

「お母さん、忙しくてすみちゃんの所に行けないみたい。だからよくわからないの」

 里香さんが答える。

「すみちゃん、大丈夫かな」

 流里さんが涙ながらに言う。

「どなたか、すみ枝さんの様子を見に行ったの?」

「お母さんが朝早く行ったみたい。でもお母さんお仕事があるし。お母さんが病院に行くように言ったけど、すみちゃんが大丈夫だって言って、家に一人で寝てるって」

「おねえちゃん、今からすみちゃんのお家いこうよ」

「ダメだよ、お父さんと約束があるでしょう?」

 つまりすみ枝が体調を崩して臥せっているが、姉のみち枝さんも流里さんたちもすみ枝さんの看病には行けないということらしい。

「せんせい、どうしたらいいの?」

 私はハンカチを取り出して流里さんの涙をぬぐう。

「きっと大丈夫だから、とにかくあなたたちはお家に帰りなさい」

「でも……」

「お母さんがちゃんと考えていてくれるわ」

 私は笑顔で流里さんをなだめた。

 流里さんと里香さんを何とか家に帰し、私は小さく息を付く。

 すみ枝さんはどんな容体なのだろう。今すぐにでもすみ枝さんの部屋に行きたい。

 しかし私が出しゃばるところではないはずだ。

 みち枝さんは先日、私にすみ枝さんに近づくなと、家族に割り込むようなことをするなと伝えに来た。

 それならばみち枝さんが何とかするはずだ。

 そうしてもらわなければ困る。

 病床のすみ枝さんを放置してまでも行かなければいけない「お父さんの用事」とは何だろうか。

 あれほどの独占欲を見せつけておいて、いざとなると大切な妹よりも夫を選ぶのだろうか。

 心の奥に沸々と怒りが込み上げてきた。

 それならば私が遠慮をする必要なんてない。

 私はすみ枝さんの部屋を目指して駆け出した。

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