せんせいとお友だち
『お友だち』 きのしたるり
わたしは、お友だちとずっとなかよくしたいです。
だけど、ときどきけんかをしてしまうことがあります。
けんかをしたときは、すごくおこってしまうけど、あとになって、すごくかなしくなります。
だから、けんかをしたくありません。
だけどすみちゃんは
「けんんかできるくらいの方がいいよね」
と言います。
どうしてけんかがいいのかわかりません。
********* *********
脇山さんから渡された絵は部屋の壁に立てかけて置いてある。脇山さんに返すべきだと思うのだけど、返したくないという気持ちの方が大きくて、結局そのまま私の部屋にある。
私のことを描いたという赤い色調の絵を眺めながら私は何度も考えた。
そしてもう認めるしかないと観念した。
考えるのを止めようと決めたって、結局私は脇山さんのことを考えてしまうのだ。
そう、私は脇山さんのことが好きなんだ。
脇山さんは受け持っている児童の家族で、話したことなんて数えるほどしかない。私よりだいぶ年上だし、きれいな女性とか男性とか親密そうな人がたくさんいる。
それでも私は彼女に惹かれてしまったのだ。
素直に認めてしまえばそれだけのことだった。
児童のご家族ということで何か言われることがあるかもしれない。だけど不倫をしようというわけでもないし、犯罪というわけでもない。ただ、私が脇山さんを好きだというだけだ。
私がいくら脇山さんを好きだったとしても、脇山さんが私を好きになってくれるとは限らない。
嫌われてはいないと思うけれど、ただ嫌われていないというだけのような気がする。
私は壁に立てかけられている絵を見た。
教室の中で繭を破ろうともがいている私だ。
脇山さんは、若く幼い私のことを微笑ましい気持ちで見守っている感覚なのかもしれない。
大学を卒業して先生として児童の前に立ち、私は一端の大人になれたつもりでいた。だけど脇山さんから見れば私はまだまだ子どもなのだろう。
いつか私がこの繭を破ることができたら、脇山さんは私を独りの女性として……一人の人間として見てくれるようになるだろうか。
そんなことを考えていたとき、携帯がピロンと電子音を響かせてメッセージの着信を伝えた。
確認すると、それは大学時代の友人のみどりからだった。会って話がしたいという内容だ。私は承諾の返事をして出掛ける準備をはじめた。
みどりと待ち合わせをしたのは、この間大学時代の仲間と飲み会をした店の近くにあるカフェだった。
「わざわざごめんね」
先にカフェに来ていたみどりが笑顔で言う。
「何かあったの?」
私は店員にアイスコーヒーを頼んでからみどりに問いかけた。
みどりは大学の頃よりも幾分か落ち着いた雰囲気になった。年齢のせいもあるかもしれないが、結婚が決まったことも影響しているのだろう。
大学で出会ったころのみどりはもっと子どもっぽい印象だった。
天真爛漫な笑顔が魅力的で、子どもっぽいわがままもかわいいと感じた。
当時の私はみどりに夢中だった。大学二年、思いを打ち明けたあのときまでは――。
「実はね、樹梨に披露宴でスピーチをして欲しいんだけど」
「え、いやだよ」
私は渋い顔を隠すことなく即答した。
表面上を取り繕って言葉を選ぶ必要がないくらいには長く友だちを続けている。
「嫌がるだろうとは思ったんだけどね……それなら、美咲か久美子のどちらかと歌をうたってくれる?」
「は? その二択なの? 何もしないって選択肢は……」
「ない」
みどりははっきりと言い切った。
「先生をやってるんだから人前で話すことには慣れてるでしょう?」
確かに子どもたちの前でいつも話している。だけどそれと披露宴はまったく別のものだと思う。
「実はもう、美咲と久美子には歌を頼んであるんだよね。何を歌うか考えはじめてるみたいだから、代わってもらうなら早く連絡しないと……」
そう言ってみどりは困った顔を作ると上目遣いで私を見た。
どうやら二択でもないらしい。
みどりにはこうした抜け目のないところがある。もしも最初に私にスピーチの依頼をしていたら、久美子や美咲に任せるように言い含めて断っていただろう。
先に美咲と久美子の了承を得ることで私の逃げ道を塞いだのだ。しかも歌とスピーチの二択ならば、私は間違いなく後者を選ぶ。
「はぁ、分かった。スピーチね。やればいいんでしょう」
私がこれみよがしに大きなため息をつきながら答えると、みどりは両手を組んで「やった」とかわいらしく微笑んでみせた。
そんなみどりを見ながら、私はみどりのようなタイプの女の子が好きだったはずなのにな、と考えた。そんなに多いわけではないけれど、これまでに付き合った人も年下か同じ年のかわいらしいタイプの女の子だった。
それなのになぜ私は脇山さんに惹かれてしまったのだろう。
しかもほとんど一目惚れと言ってもいいような状態だ。
初対面のときなんて、脇山さんはボサボサ頭でヨレヨレの服を着ていて、かわいらしさもかっこよさもなかった。
雨の日に会ったときはちょっとかっこいいと思ったけれど、私の好みのタイプとはかけ離れている。
そして私よりもずっと年上だ。
恋とは落ちるものだというけれど、どこにそんな落とし穴が潜んでいたのかまったくわからない。
「ねぇ、樹梨?」
みどりは頬杖をつくと、私を見つめてやわらかな声で私の名前を呼んだ。
「なに?」
「樹梨って今、付き合っている人……いるの?」
私は少し首をひねる。みどりは私が女性を好きになることを知っている。だからだと思うが、一度も私の恋愛について聞いたことが無かった。
「今はいない、かな」
脇山さんのことが少し頭をよぎったけれど、気になっている人がいることまで教える必要はない。
「そっか。その……樹梨は女の人が好きなんだよね?」
今まで避けてきた話題にあえて触れるなんて、みどりが何を考えているのかわからない。
「うん。まあ、そうだけど」
「大学のとき、私に……言ってくれたよね?」
私がみどりに告白をしたことを言っているのだろう。あのときみどりは、私の告白に気付かないフリをした。私の想いを無いものにしてしまった。
確かにもう過去の話だけど、いや、過去の話だからこそ今更なんでもないような顔で持ち出されると少し嫌な気分だ。
「それって、今も?」
みどりの視線が私に絡みつく。「今も女性を好きなのか?」という意味ではないのだろう。
この間の飲み会で、みどりの結婚を聞いた私の様子が少しおかしかったことに気付いたのかもしれない。それで今でも私がみどりのことを好きなのではないかと勘違いをしたのだろう。
確かにあのときは少しショックだった。だけどみどりを好きだったからではない。
それにそのおかげで脇山さんと偶然に出会い、連絡先まで手に入れることができたのだから、今はショックどころか感謝をしているくらいだ。
だから私は「今は友だちだとしか思ってないよ」と答えようと思った。けれどその言葉を発することはできなかった。
みどりが上目遣いで私を見つめたまま、私の手にその手をそっと触れたからだ。
指先で私の肌をなぞり、ゆっくりと指を絡ませる。
結婚を控えて、一度くらいは女とも経験をしてみたい、そんな好奇心に違いない。
そうわかっていたのに、私の体に緊張が走ってしまった。みどりは目ざとくそれに気付き、さらになまめかしく指を絡ませた。
私はグッとおなかに力を入れて気持ちを立て直してスッと手を引いた。
「話は終わりだよね? スピーチの件は了解。それじゃあ、私はもう行くね」
そう言って立ち上がり、みどりに背中を向けて店を出た。
「馬鹿にしないで。結婚前にちょっと女ともヤってみたい? それならそこらの女をナンパでもすれば? 私を利用しないで!」
それくらいのことを言えればよかったのかもしれない。だけど私には言えなかった。
正直に言ってしまえば、みどりに指をからめられてゾクゾクした。
みどりは好みのタイプに間違いないのだ。だから今もみどりは魅力的に感じる。ほんの一瞬、一度くらい関係を持ってもいいかな、という気持ちがよぎった。
関係を持って、もしも私のことをみどりの胸に刻みつけることができたならば、「あのときはごめんなさい」くらいのことは言わせられるのではないだろうかとも思った。
だけどもしもそうしていたら、私は次に脇山さんと会ったとき、彼女の笑顔をまっすぐに受け止められなくなるだろう。
みどりとの友情が終わることになっても後悔はしない。だけどはじまってもいない脇山さんとの関係に、自ら影を落とすような真似はしたくなかった。
駅にたどりつき、私はバッグの中から携帯を取り出して電話を掛ける。
四回目のコール音が鳴ったところで相手と電話がつながった。
「急にすみません。今からお邪魔してもいいですか?」
了承の返事を聞き、私はすぐに電車に飛び乗った。
目の前にお茶が出される。
「本当に突然お邪魔してしまってすみません」
勢いでここまで来てしまったものの、何を話せばよいのかわからず、私はひたすらに恐縮してしまう。
「いえいえ、いつでもどうぞ」
目の前の脇山さんはそんな私を気にする様子もなくニコニコと笑って答えた。
そう、私は駅から脇山さんに連絡をしていきなりこの部屋に押しかけてしまったのだ。
今日の脇山さんはゆったりとしたチノパンにピッタリと体に貼り付くタンクトップを着ていた。おそらく出掛ける用事もなく家でゆったりと過ごしていたのだろう。
そこに押し掛けたことを申し訳なく思うが、それよりも体のラインがはっきりとわかることの方が気になって、どこに視線を置けばいいのかわからない。
ついつい思っていたよりも胸が大きいなとか、体のラインがキレイだなとかそんなことばかりを考えてしまう。
テーブルにお茶を置いた脇山さんは、私と向かい合ってあぐらをかいて座った。その位置とその姿勢だと、視界の真ん中に胸の谷間がやってくる。
先ほどのみどりとのやりとりもあって、私の頭の中は邪念比率が高くなっているようだ。
「それで今日は何かご用ですか?」
脇山さんがのほほんとした口調で言った。
「え、ええ、あ、そう。絵、絵です。あの絵、本当にいただいてしまってもいいんですか?」
私は咄嗟に思いついたことを口走ったけれど、もしも私を描いてくれたというあの赤い絵を「やっぱり返していただけますか?」なんて言われたら泣いてしまうかもしれない。だけど今思いつく話題なんてそれくらいしかないのだ。
「もちろん。邪魔になるかもしれないですけど、もらっていただけるとうれしいです」
脇山さんは笑顔で言う。私は密やかに息を付いた。
「でも、作品展で見たとき売約済みになってましたよね?」
「ああ、あれは私が自分で貼ったんです」
そう言うと脇山さんはボサボサの頭を乱暴に掻いた。そして少し照れくさそうに私を見て言葉を続ける。
「あの絵は先生のために描いたので、展示するつもりはなかったんですよ。それなのにまわりが展示しろってうるさくて。だから誰にも買われないように、先に貼っておいたんです」
私はニヤケてしまいそうになる顔を必死で固めた。
「私のためって……どうして、ですか?」
「私、先生のファンなんです」
脇山さんは背筋を伸ばしてにこやかに宣言する。
「ファン?」
ちょっとうれしくてちょっと期待外れなその答えに、私は首を傾げる。小学校の教師に向かってファンなんて言う人を見たことが無い。
脇山さんのファンという人ならたくさんいそうだけれど――。
「授業参観を見せてもらって、なんかいいなあって思ったんです。私もがむしゃらに頑張ってたころがあったなって思い出したら、すごく描きたくなってウズウズしたんですよ」
脇山さんは目をキラキラさせていった。
それはうれしい言葉なのかもしれないけれど、私はガッカリしていた。やはり脇山さんは私のことを「がんばっている子ども」を見守るような気持ちしか持っていないということだ。
ズーンと落ち込んでいく私の心とは裏腹に、脇山さんは弾む声で言葉を続けた。
「早く描き上げて先生にお見せしたかったんですけど、思った以上に作品展の準備に手間取って、描くのに時間がかかっちゃったんですよ。七夕の日、先生にお会いしたじゃないですか。それで絶対に完成させて先生にプレゼントしようって思ったんです」
「あの、もしかしてあの街でお会いしたのは、作品展の準備をなさっていたからですか?」
「ええ。普段は家に引きこもってることの方が多いんですよ」
脇山さんは普段あの街に出ることは少ない。そして私もそんなに頻繁にあの街に行くわけではない。だから二人が偶然に二度も出会えたのは運命なのではないだろうか。そんな風に都合よく解釈して、私は自分の背中を押す燃料に変えた。
「す、すみ枝さんは画家さんだったんですね」
さりげなく「脇山さん」ではなく「すみ枝さん」と呼んでみた。けっこう勇気を振り絞ったのだけど、脇山さん……すみ枝さんは呼び方が変わったことにすら気付いていないようだった。
「画家じゃありませんよ。絵は趣味みたいなもんです。本業は、Webデザイナーってやつです」
呼び方を変えて急接近作戦は空振りに終わったけれど、この機にすみ枝さんの個人情報をできるだけ引き出しておこう。
「倉田さんはお仕事のパートナーって言われていましたけど」
「そう、Webでも私はデザイン系なので、キタローにコーディングとかプログラムを任せてるんです、ってわかります?」
「いえ、あんまり」
「ですよね」
そう言ってすみ枝さんはケラケラと笑った。
ピンポーン
ドアチャイムが鳴る。
いい感じですみ枝さんの情報を引き出せていたところに水を差されて、私は若干の苛立ちを感じた。
「誰だろう? 今日は来客が多い日かな?」
そうつぶやきながらすみ枝さんがのっそりと立ち上がろうとしたとき、ドアの向こうから鋭い声が届く。
「スミっ、さっさと開けなさい!」
その声を聞き、すみ枝さんは「ああ、みっちゃんだ」と言った。
「みっちゃん?」
作品展で見た何人かの親し気な女性の他に、まだ親しい女性がいるのだろうかと眉をひそめる。
だが、次の瞬間、私はサーっと一気に青ざめた。
「すーみーちゃんっ」
という友だちを呼ぶような幼い声が聞こえたからだ。その声には聞き覚えがあった。私のクラスの児童であり、すみ枝さんの姪でもある流里さんの声だった。
つまり「みっちゃん」とはすみ枝さんの姉、みち枝さんで間違いないだろう。
「あー、今開けるよー」
そう言いながらドアに向かおうとするすみ枝さんの腕を引き、私はブルブルと首を横に振った。
今この場で教え子とその母親に会うのはまずい気がする。
「別にやましいことがあるわけでもないし、大丈夫だとおもいますけど?」
呑気に言うすみ枝さんの言葉に、私は大きく首を横に振る。
すみ枝さんにやましい気持ちがなかったとしても、私にはあるのだ。
「うーん、じゃあ奥の部屋にいてください」
私は頷き、すみ枝さんがさした扉の向こうに慌てて飛び込んだ。
私が隣室に入るのを待って、すみ枝さんは玄関を開けた。私は耳をそばだててその様子を伺う。
どうやら作品展のあと、打ち上げも片付けも姉に押し付けて飛び出したことを叱られているようだった。
私の存在には気付いていないようだ。
そこでようやく息を付き、私は部屋の中をぐるりと見渡した。
部屋の隅にはパソコンやプリンターが置かれている。そして中央付近の開けたスペースにはイーゼルや画材があった。
この部屋はすみ枝さんの仕事部屋なのだろう。
イーゼルに立てかけられたカンバスには、雨に濡れる幻想的な街の風景が描かれていた。
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