第91話 草の原の中の道

 アヴェラは丘の上に立ち微風に目を細めた。

 青空の下、丈の低い緑草の密集する大地が広がり、黄や白をした小さな花々が風に揺らぐ。その微風にのって、草花の濃密な匂いが鼻腔をくすぐっていく。

 横ではノエルが青空に向け元気に手を振っているが、その先には飛び立った飛空挺の姿があった。如何にもファンタジーな物語に出て来そうな飛行物体で、魔法の力で航空力学だの浮力など完全無視で飛んでいる。

「文明社会との唯一の接点が遠ざかっていく……」

 アヴェラは嘆いた。

 ここは探索都市アルストルから遠く離れた場所だ。飛空挺で三日、徒歩で移動していれば数週間はかかったであろう距離だ。辺りは草原が広がるばかりで街はおろか村すらない。

 ある意味では荒野というべき場所だ。

「大丈夫です、御兄様が不安に思う要素は何一つありません」

 白蛇状態のヤトノが襟元から姿をみせると、存在をアピールするように、尾の先でペチペチ肩当てを叩いてみせた。

「このヤトノめが御兄様を全力で御守りいたします。ええ、もちろんですとも」

「それはそれで困る。ヤトノが力を使えば悲惨な事になるだろ」

「御兄様のいけず。そんな意地悪言って酷いです。もうっバカバカ大好き」

 さらっと言って飛び出ると少女の姿になった。

「んーっ!」

 ヤトノは両手を組んで頭上に伸ばした。さらに爪先立ちして足も伸ばし、体全体で伸びをする。身体を反らし露わになった喉元が白く眩しかった。

 飛空挺の料金節約のため、ずっと身を潜めて寝ていたので窮屈で退屈な思いをしていたらしい。満足すると物珍しそうに辺りを見回した。

「ふむ、まさしく草原。何もありませんね」

「そうだな。でも草の中に道がある。往来はそれなりにあるという事だ」

 地面には言葉通り轍の二連筋がある。それを追って改めて景色を眺めやった。

 緩やかな起伏をした大地は草に覆われながら広々と続き、先の方で濃緑の木がポツポツと現れる。やがて木々が密集し森となる。さらに遠く先では岩と草地がコラボする急傾斜、やがては雲と雪の白さが混じりだす。そして青空へと到達するのだ。

 山麓から山岳への変遷が見事に分かる迫力ある風景だった。


「思えば遠くに来たものだ」

 遠くに出かけた事は、以前の初心冒険者講習ぐらいで、アヴェラは基本的にアルストルから出た事がない。

 それは交通機関が発達していない世界なのだから当然だ。

 飛空挺や帆船などはあるが、それは個人の旅行で気軽に使用出来るものでもない。思えば前世のような自由に旅行が出来る環境とは、その時は少しも気付かなかったが極めて特別で凄い事だったのだろう。

 故に、この壮大な景色が珍しくて仕方がない。

「エルフの里は、あの森の先でいいのか?」

「うむ、そうじゃな。本来は森を迂回するんじゃが、そうなると四日は余分にかかるでな。このまんま直進して森を突っ切ればよい」

「イクシマがいるからこそ森を進めるか」

「そうじゃぞー。我のおかげじゃぞー、もそっと感謝してありがたがるがよい!」

「コレジャナイエルフでも、エルフはエルフか」

「またそれ言うっ! 我はっ、正真っ、正銘っ! エルフじゃあああっ!!」

「はいはい、エルフだエルフ」

「誠意が感じらぬわあああっ!」

 何遮るものもない青空と草原にイクシマの声が響く。

 それを軽く聞き流しアヴェラは森を見やった。

 軽く興奮し意気込んだ表情となるのは、これから向かうエルフの里に思いを馳せるためだ。ファンタジー世界で行きたい場所は幾つかあげたとすれば、その一つはやはりエルフの里だ。そこに何かを期待しているわけでもないが、ただもうエルフの里を思うだけでワクワクしてしまう。

「やっぱりエルフは森に住んでいるのだな」

「うむ? まあ森の中と言えば、そうじゃな」

「そうなると家はツリーハウス、いや待てよ樹木を無慈悲にくりぬいて中に住んでいるのかもな。いやキノコ型のファンシーというパターンもあるな」

「あのなーお主なー」

 イクシマは呆れ顔だ。

「いっつも思うのじゃが、お主のエルフに対する果てしなーい偏見ってのは、どっから来とるんじゃって。我としては、そっちの方が気になるわい。まあいいが、あんまし期待するでない。別に大した事のない普通の村じゃでな」

「でもアルストルの街とは違うんだろ」

「それは当然じゃろって。ほれ、いつまでも喋っておるな。ここで立っていても仕方なかろ。さっさと行こまいか」

 イクシマは重たげな荷物を背負い、ちょこまかした足取りで歩きだす。しかし久しぶりの帰郷にしては、それほど嬉しそうではなかった。

 飛空挺に乗り込む頃までは普段通りだったが、日が経つにつれて何やら不機嫌そうな感じが増えてきている。その理由は何かは分からぬが……しかし、出会った最初の頃を思い出せば何となく理由は察せられた。

 そもそもイクシマはエルフの氏族の三の姫である。それが遠く離れた都市に一人で暮らしているのだ。その点も合わせて考えれば察する事はいろいろある。

 もちろん話さない事を問いただすような事はせず、アヴェラとノエルはそれぞれの荷物を背負い後を追う。


 空からは光がさんさんと降り注ぎ雲一つない。草原に風はあるものの、暖められた空気を僅かに動かす程度の勢いしかない。美しい景色とは裏腹に、長時間ここにいれば体力を消耗する危険な場所だ。

「でもさ、私は気になっちゃうけど。ナニア様が探してる人って誰なんだろね」

「そういう詮索は止めておいた方がいいな。下手に首を突っ込むと面倒だぞ」

「うん、そうなんだけどさ。たとえば……身分違いの恋で一目惚れしちゃった旅の吟遊詩人とか、遠い異国に旅立って行方の分からない恋人とかだったり?」

「どれも関わって面倒な話ばっかりだと思うんだが。そもそも、あの人がそんな恋愛を気にする人か? もっとこう実利に関わる案件じゃないのか」

「だったらお家騒動で継承権を巡って、重要な事実を知っている人とか?」

「帰りたくなってきたぞ」

 どれも関わって良い案件ではない。ナニアからの信任は厚くなるだろうが、それに対するリスクも大きくなる。ただでさえ厄神関係で多方面から疎まれているのだから、あまり波風は立てたくないのがアヴェラの本音だ。

「なんにせよワケありなのは間違いない。下手に関われば厄介事に巻き込まれるだけじゃないか。だから目的を果たす事だけを考えた方がいい」

「それそうだね。よし、私はもう気にしない」

 ノエルは両手を握って力を込めた。


 旅の最中に安全な場所などない。

 無計画に歩けば体力を消耗するため、余力を考え歩かねばならない。悪天候ともなれば体力を消耗し食糧や水を損じてしまう。水の確保は重要だが、安易に川や泉の水を口にすれば腹を下す。野営するにも頃合いの場所を日暮れまでに探す必要がある。

 何より外敵の襲撃を警戒せねばならない。

 それは野生動物やモンスターだけでなく人間相手にでもだ。野営の夜間だけなく、日中であろうといつ何時襲われるか分かったものではないのだ。

 旅は命懸け。

 飛空挺を使用し旅程を短縮、さらに道を知るイクシマがいても危険はまだ多い。普段の探索と同じく武装はしているが安全とは言い切れない状態だった。

 ここは慎重に行かねばならないところだ。

「御兄様。周囲の警戒といった細かい事など、わたくしが行います。ですからドーンと構えて下さいませ」

「そこはかとない不安が漂うが、まあ任せよう」

「ああ、御兄様に任されてしまいました。ヤトノ感激です!」

「感激はいいが、頼むから程々にしてくれよ」

「まあ酷い。わたくしは常に御兄様のためを思っておりますのに」

 やや強めに吹いた風が草花を揺らす音が響く。

 そのまま丘を上がっていき、その一番上に来たところでイクシマが足を止め、前方を指し示した。

「見よ、あの御山の麓が我が故郷じゃ。まあざっと森まで二日で、森に入って一日ぐらいかのう」

「なるほど。森の中に食べ物はあるか?」

「そうじゃな今の時季じゃったら茸かのう、もちろん果物も魚も獲れるぞ。じゃっどん、この時期になると恐ろしい一つ目鬼めが餌を求めて悪さをしだすでな。それは気を付けねばならぬがな」

「一つ目鬼!?」

「うむ、エルフの里が襲われた時に見たがのう。こーんなに大きかったんじゃって」

 小さいイクシマが両手を精一杯広げ説明してくれる。それで分かるかと言えば分からないが、とりあえず人の背丈より大きい事だけは分かった。

「恐がるな恐がるな、そんなん出てくるのは十年に一度とかそんなもんじゃって」

「いやむしろ戦ってみたい」

「えっ、なにそれ。お主な、そういうリスキーな考えするとかな。人としてどうなんじゃって?」

「おかしい人みたいな事を言うなよ。お前だって、敵をぶちのめすの大好きだろが」

「違あああうっ! 天と地ほど違うっ! お主なんぞと一緒にすんなあああっ!」

 声を張りあげるイクシマは元気な様子で、ノエルとヤトノは楽しげに笑っていた。

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