第22話「あなたと私は湯煙の中で」
「ようこそお越しくださいました」
旅館の中に入った二人を迎えたのは、暖色の照明と琴の音色。そして受付を担当している着物姿の女将さんだった。
「こちらに記帳をお願い致しますね」
受付の帳簿に二人の名を記帳する。ただし、愛の名は『新藤愛』と記した。名字が違って変に勘ぐられるのも面倒だ。
「あらあらまあまあ」
そう記すとなぜか女将さんはまなじりを下げ、口許を袖で隠した。
「なにか?」
「いえいえ、お話は係のものから聞き及んでおります。さぞ大変だったでしょうに」
「?」
愛もまた首をかしげている。
そういえば福引きの時にバイト君が「面倒にならんようワイが話を通したるさかい」って言ってたな。多分それのことだろう。
「年の差を理由に二人を引き裂こうとする実家から駆け落ちし、安住の地を求めて各地を転々とされているとか」
「ははは、いやぁそうなんですよ」
「――」
バイトォ!!
案の定、隣の愛はポフっと音を立てて赤くなっている。そんな愛を見て女将さんはあらあらと微笑ましいものを見るように笑みを浮かべる。
「お任せください、我が宿の温泉がきっとお二方の疲れを癒してみせますとも」
女将さんはグッと拳を握る。好きなんだろうなぁ、こういう駆け落ちとかの話……
「よ、よろしくお願いします」
とりあえず話を合わせておく。隣の愛も慌てて表情を取り繕い、優の腕を控えめに取ったりしている。
「ふふ、それではお部屋までご案内いたしますね」
寄り添う二人にまた笑みをこぼし、女将さんは板張りの廊下を進んでいく。
面倒事にならなかったことにホッと一息つき、しかし腕は絡めたまま二人も奥へと続いた。
「悪いな姫さん、変なことになって」
フルフルと首を横に振り、なぜか愛は更に密着してきた。
「ど、どうした?」
頭をくっつけるように押し当てている。さっきの話がよほど恥ずかしかったのだろうか?
その様子に違和感を覚えつつも、なにも言わない愛からはそれ以上の情報は得られなかった。
「それでは、夕食の時間までごゆるりと」
そう言って女将さんは襖を閉めた。
「弾丸ツアーでどんなもんかと思ってたけど、綺麗な部屋だな」
女将さんを見送り、優は部屋を見渡した。
畳の敷かれた広い部屋だ。木造の机の上にはお馴染みの急須の他になんとフルーツが盛られている。
そして何より目につくのは、窓の外に隣接している露天の温泉だった。
「すごいな、まさか部屋にあるとは」
これなら周りの目を気にすることなく温泉を堪能できるというもの。愛も窓の外の温泉にじっと見入っている。早く入りたいのだろうか?
「夕食前に温泉に入るってのもありだな、どうする姫さん?」
「――」
なぜか愛はモジモジと太ももを擦り合わせる。
「んー? あぁ、部屋から丸見えだもんな。カーテンはあるけど気になるだろう。俺は土産コーナーでも見てるわ」
そう言って立ち去ろうとする。しかし、腕に引っ掛かりを覚えて立ち止まった。
愛が、服の袖を握っていた。
「どうした姫さん。まさか、一緒に入りたいのかー?」
くくく、と冗談めかして聞く。いつも通りハリセンが飛んでくるだろうなと思いながらそう言った。
しかしあろうことか、愛は――
「――」
しっかりと、こちらを見て頷いたのだ。
「まずいな……」
マナー違反とはわかりつつも、俺は腰にしっかりとタオルを巻いて温泉に浸かっていた。
愛に強引に背中を押され脱衣所に閉じ込められた俺は、流されるままに温泉へと導かれていた。
そんな愛は『少し待っていてください』と残して部屋に引っ込んだ。窓のカーテンは閉められていてこちらからは見えない。
「いや……」
きっとこれはあれだな。お父さんの背中を流したいとか、そういう流れだな。日頃からお世話になっている人の背中を流したいという、健気な子ども心的サムシングに違いない。
決して色気のあるようなオチにはならないだろう。きっと今、水着かなにかを用意しているのだと思う。
そうとも。だから俺が緊張していたら、愛もきっと気まずい思いをする。ここはどっしりと構えておかなければ!
よし、と心を奮い立たせたところで、ガラリと硝子戸を開ける音が背後から聞こえた。ペタペタと足音がこちらに近付く。
「おう姫さん、待ちわびたぜ」
そう言って振り返り愛の姿を見る。その姿は……
一枚のタオルを身に纏っているのみだった。
手で目を擦る。いやいやそんな馬鹿な。きっとここからじゃ見えない水着のデザインなんだって。ほら肩紐とかよく見ればありませんねぇ!
普段見ることのなかった彼女の肌に目が吸い寄せられる。
触れれば折れてしまいそうな細い腰。タオルに締め付けられてちょっぴり窮屈そうに寄せられている胸。上気した頬から水滴が顎を伝い、なまめかしい鎖骨へと流れていった。
「~~」
凝視する視線に耐えきれなかったのか、恥ずかしそうに後ろを向く愛。しかしそれは逆効果であった。タオルが水気を含みピッタリと肌に張り付いた結果、愛の可愛いお尻の形がクッキリと……
「……」
俺は静かに温泉から上がった。そして少し離れた石畳の上に五体投地し……叫んだ。
「いやっほーーー!! 姫さん最高ーーーーー!!」
もはや自棄であった。お巡りさーん! 俺でーす! アーオレロリコンニナッチャッタヨー。
「ハァ……ハァ……」
ひとしきり叫んだところで冷静になれた。愛はそんな俺の姿を見て冷や汗を流している。何引いてんだお前のせいだぞ。
「ったく、なんなんだいったい。どうしたんだ姫さん」
よいしょ、とシャワー近くにある風呂桶に腰かける。
すると愛はテトテトと背後に回り、持っていた小さなメモ帳をこちらに渡した後、タオルを石鹸で泡立て始めた。
心地よいタオルの感触を背中に感じながら、愛の行動を疑問に思いつつメモ帳を開いた。
『新藤さんは、私を女の子として見てない』
最初のページにはそう書かれていた。
そんなことはない、と思う。普段から彼女を傷付けないよう配慮してきたつもりだ。着替えを覗いたこともなければ、こちらからは無闇に体に触れないよう心がけた。きちんと彼女のことを女の子扱いしている。
そう結論付け、更にページをめくる。頭の片隅では、そういうことではないとわかりつつ。
『さっき抱きついたときにも、ドキドキしてませんでした』
彼女がコックを捻り、シャワーからお湯を出す音が響く。
さっき……女将さんに案内されていたときか。妙に頭をくっつけてくるなと思っていたが、鼓動の音を聞いていたのか。
「……」
背中からほどよい温度のお湯と泡が流れていく。
ページをめくり、文字を目で追う。シャワーの音だけが温泉に響いていた。
『私はあなたに、女の子として見てもらいたい』
泡が全て流れ落ち、暖かいお湯の感触も背中から消えた。
『だから――』
キュッと、彼女がシャワーの栓を閉める。
『だから、こうしちゃいます』
背中に、暖かい感触が広がった。
愛が、後ろから抱きついている。後ろから手を回し、心臓の鼓動を聞くように背中に耳を押し付けている。
「……聞こえるか?」
「――」
コクリと頷く愛。さぞ俺の心臓は暴れていることだろう。
「わかっただろ? とっくに愛のことは女の子として見てる」
「――」
鳴り響く心臓の音がなによりも証明していた。
「それにお前……女の子として見られたいって、意味わかってて言ってんのか」
コクリと頷く。
「俺はおっさんだぞ」
頷く。
「……気持ち悪いだろう」
首を振る。
「うぅむ……」
唸り声をあげつつ下を向く。視界に後ろから回されている愛の手が映った。
「(ん……?)」
愛の手になにかある。正しくは指。彼女の左手薬指に今までなかったものがあった。
それは、さきほど屋台で取った銀の指輪だった。
「(この子は、最初からそのつもりで……)」
彼女の覚悟の重さを知り、俺は空を仰いだ。
今一度、自分の中に問う。お前にはその覚悟があるのかと。
以前の寒空の下で誓ったものではない。あれは彼女の助けとなる、という覚悟だ。
今回は違う。彼女を本当の意味で幸せにする。その覚悟が、お前にはあるのか。
「……はっ」
愚問だった。
俺の目的は既に『彼女の失ったものを取り戻すこと』から『彼女を幸せにすること』にいつの間にか、とっくに変わっているのだから。
「なぁ愛。俺はお前に出会って変わったよ」
愛の手に、自分の手を重ねる。
彼女からの恋情は背中から痛いほど伝わってきている。
大切な気持ちは言葉にしなくても伝わる。だけど、ちゃんと言葉にしなければいけないこともまた、ある。
「前まではずっと人助けのことばっかりで、こんなにゆっくりとした時間を過ごしたことなんてなかった」
愛は静かに、背中で聞いている。
「ずっと心の中には一人の女の子がいて、それでいいと思って走り続けていた。だが……今はもう、それだけじゃなくなったんだ」
自分の中で絡まる糸を解すようにして話す。心の中に住む女の子の他に、いつの間にかもう一人、大切な人ができていた。
「最初は愛の傷が癒えるまでと考えていた。だけど今はもう、それだけじゃ足りなくなってる」
彼女がじゃない。俺が、だ。
「もちろん今までの約束もある。生き方はそう簡単には変えられない……変えられない、が……」
言い淀む。だが、ハッキリと口にした。
「そんな浮気者でよければ、その……ずっと一緒にいてくれないか」
なんとも情けない言葉が出てしまった。我ながらどうなのだと心底思う。愛も呆れたかもしない。
沈黙が満ちる。俺は彼女からの沙汰を待つしかなかった。
すると、愛は後ろからちょんちょんと湿気でぐったりしたメモ帳をつつく。導かれるままめくったページには、まだ文字が綴られてあった。
『いくじなし』
「う……」
後ろで愛がコロコロと笑う気配がした。
ガックリと肩を落とす俺に、彼女はパッと腕を放して姿勢を変えた。
背中と背中をくっつけるように。
そして悪戯っぽく笑い、愛は少し位置をずらして背中の空いた部分を指でつつく。なぞるように。リズムを刻むように。これは……文字?
情けない答えを吐いた俺の背中に愛は、しかし指で優しくたった四文字だけを綴ったのだった。
『だ い す き』
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