7-3 顔に飛んできたのは、ぼくの靴下だった。もちろん昨日脱いだままの、一日はいていた靴下だ。

 山口の家は渋谷から一本で行けた。ぼくとはもらっている給料がちがうのだろう。一時間近くも電車に乗る必要がない。駅から十五分も歩かないし。なんでわざわざ、毎週末になるとぼくの家までやってくるんだろ。自分の家のほうが快適じゃないか。学生時代は別の小さなアパートに住んでいたから、そのころの名残かもしれない。山口の部屋の間取りは、一部屋とキッチンだけど、ロフトがついてる。

 豆電球だけ照明をつけた。山口をソファにすわらせる。冷えたミネラルウォーターをグラスで、山口に手を添えてやって飲ませる。パジャマに着替えさせることはできそうにない。パジャマがどこにしまってあるかもわからない。家探ししてやろうか。そうだ、ベッドの下とマットレスの間をチェックしてやろうか。いや、ロフトだから布団を敷いているのか。ベッドがなかったら、どこを探せばいいんだろう。

 そんなことを考えているうちに山口が服を脱ぎだした。着たまま寝せるよりいいと思って、ぼくは顔をそむけておく。山口は、ぼくの頭にブラジャーをのせた。まったく、なんて扱いだ。とにかくロフトで肌掛けをかけて寝てくれたから良しとしよう。ぼくはロフトをおりようと思って、這う姿勢になる。山口の手がぼくの手首をつかんだ。一瞬ビックリして鳥肌が立った。幽霊かと思った。

「どうした、山口。気持ち悪いのか?」

「大丈夫」

「じゃあ、ぼく帰るよ」

「泊ってって」

「毛布ある?」

「一枚しかない」

「まだ、上にかけるものないと寒くて眠れないよ」

「一緒に寝て」

「さっき、レストランで一緒に寝るの嫌っていってたよ」

「忘れた」

「朝になったら、やっぱり嫌だったってなるかもしれないよ」

「そしたら謝って」

「謝ったら許すの?気がおさまる?」

「殺すかも」

「じゃあ、嫌だよ」

「わたしに殺されるのは本望じゃないの?」

「そんな本望ないよ」

「わたし、告白されたの」

 脈略がないけど、ぼくは理解し、心臓が絞めつけられた。山口は頭を肌掛けに突っ込んで、腕だけをだして、ぼくの手首をつかんでいる。山口の声はくぐもっていた。

「そう、その人のこと好きなの?」

「好きってわけじゃない」

 ほっとした。軽く息をつく。ぼくは服を脱いだ。ティーシャツとパンツになって、山口の布団にはいる。山口がぼくの腕を枕にする。これで二度目だ。顔はぼくの胸につけて見えない。

「どういう関係の人?専門学校時代の人?」

「ううん、会社の人」

「好きじゃないなら、断ったの?」

「ううん、保留にしてもらった」

 またズキンと心臓に響く。ぼくの心臓はどうかしているようだ。青木さんは、トラブルの元だから会社の人とは付き合うつもりがないと言った。山口に告白した人は、そう考えていないようだ。うまくいかなくなって立場が悪くなるのは女性のほうだ。そういうことを考えてやらないような人間なのかもしれない。

「その人、山口にとって信用できる感じ?」

「あまり知らない人」

「やめておけよ。同じ会社の人と付き合って、傷つくのは女なんだよ」

 言ってから、男女差別と責められるかと覚悟した。なんと言い返したらいいだろうか。とにかく、この話は断らせなければならない。

「六十点」

「え?」

「ギリギリ合格点という意味」

 どうやら、男女差別の評価はしていないようだ。それをいれたら、不合格でなにか文句をいわれるところだったにちがいない。

 山口がぼくの腰に腕をまわして抱きついてきた。

「バカ。おまえ、裸の胸があたっ」

 山口の胸がぼくの腹に押し当てられた。胸のやわらかさと、乳首のあたる感触が、形容しがたい楽園へとぼくの心を誘った。幸せだった。言葉を失った。腕枕になっていない方の腕は手持無沙汰で、ぼくの体の脇に沿って乗せてあった。この手をどうすべきか。山口の肩に乗せてよいか。いや、背中にあてるべきか。もっと下、腰なのか。いや、腰は遠い。そんな葛藤を経て、山口の体をまたいで、敷布団の上に手をついた。ヘタレのそしりを甘んじてうけるつもりだ。

 人に抱きついて寝るというのは安心感が得られるものなのかもしれない。前回同様、すぐに山口は寝息をたてはじめた。今回はほかに寝る場所もない。朝まで山口と褥を共にする覚悟だ。けど、腕がしびれては、朝までもたない。軽くしびれてきたところで、ゆっくり山口の頭の下から腕を引き抜いた。このとき、敷布団についたもう一方の手が体重を支えて活躍してくれた。引き抜いたはいいものの、腕の置き場に困り、腕をバンザイ状態にした。布団がかからないから腕が寒かった。でも、体は暑かった。勃起した股間は苦しく、パンツが湿っているのがわかった。あまり快適な夜ではなかったのに、ぼくは楽園を彷徨した。

 夜が明けてきたのは認識したけど、そのあと眠りに落ちたらしい。山口の布団で目が覚めたら、バンザイ状態にしていた腕がしびれを通り越していて、腕がついている感覚がまったくなかった。腕がない。もう一方の手で探ると、触ることができた。感覚がないだけで腕はあった。もう一方の手を使って、自分のものではなくなった腕をおろす。死体というのは、こんなものじゃないかというくらい、体温がなく弾力を失ってゴムのような手触りだった。このまま壊死するんじゃないかと心配になったけど、しばらく苦痛に耐えていたら血が通うのがわかって安心した。

 昨日の山口はなんだったのだろう。会社の人に告白されて、きっと条件がいいから付き合いたいという気持ちがあったにちがいない。でも、会社の人だから、うまくいかなかったときは困るという板挟みになって、悩みすぎたのかな。悩むと内臓に響くから、いつもなら酔うはずのないアルコールの量で酔ってしまったのかもしれない。山口はいい女だから、今回の男を逃しても、またいい男にめぐり逢うだろう。

 山口が部屋にはいってきた。ロフトから見下ろす。手に茶碗をもっていた。朝食だ。山口は、もちろん服を着ている。起きあがっていると、すこし頭が痛かった。ぼくも飲みすぎていたみたいだ。

「おはよう」

 山口がロフトを見上げる。

「カズキ、昨日わたしになにしたの?」

「え?ぼくはなにも」

「なにもしてないわけないでしょ。起きたらパンツしかはいてなかったんだから、わたし」

「えーと、山口が自分で脱いだよね」

「覚えてない」

「うそ、ホントに?ぼく帰ろうとしたよ?山口が手をつかんで泊ってけって」

「そんなこと言うわけないでしょ」

「えー。あれ?ぼくのは?」

 山口の分の朝食をセットして、食べ始めてしまった。

「ない」

「そんなー」

「うそ。バツとして自分でよそいなさい」

「よかったー。本気にしたよ」

「やさしいでしょ?」

「うん、女神だ」

 ぼくがロフトをおりたら、顔になにか飛んできた。

「レディーが朝食とってるところに、なんて姿をさらすの。服を着なさい、まず」

「はーい」

 顔に飛んできたのは、ぼくの靴下だった。もちろん昨日脱いだままの、一日はいていた靴下だ。山口のすわったとなりに、ぼくの服が折りたたまれていた。靴下は、ぼくの手が握っていた。ほこりがたつから、廊下に出て服を着た。

 キッチンから朝食をはこんでテーブルに並べた。おかずはちゃんと皿に用意してくれていた。味噌汁に口をつける。しみわたる。

「あー、最高だ。ここ天国だよ」

 山口のおっぱいの感触は最高だったしと言いそうになった。山口が半分閉じた目で冷ややかな目線を送ってくる。内心を読まれたんじゃないかと心配になる。

「で、本当になにもしなかったの?」

「してないしてない」

 ぼくはね。

「それはそれでムカつく」

「あの、一緒に寝るの嫌だった?」

「ふん、知らない。昨日のわたしが寝ろっていったんでしょ。仕方ないと思ってあげる」

 どうやら納得してくれたみたいだ。ここは下手に謝らない方がよさそうだ。昨日の夜のことを覚えていないということは、告白されたということをぼくに話した記憶もなくなっているということかな。

 食事のあと、めずらしさが手伝って部屋の中を眺めまわした。気になるのは本棚だ。写真集がやっぱり多い。ぼくの部屋と同じだ。本棚の下のほうに大型の本があって、上のほうに小型の本、その上に文庫本とシーディーが並んでいた。ぼくもまだシーディーを買う。いまどきの若い人はダウンロードで済ますらしいけど、お店でいろいろ見たりオススメを視聴したりして買いたい。手元にものがないと物足りないとも思う。写真撮る人間はそんな性質を持っている人が多いのかもしれない。

 小型の写真集にネコの写真集があった。

「あ、ミーちゃんだ」

「ああ、これ?知ってる?かわいいよね」

 ふたりで同じ本を取ろうとして、手が重なった。これは、マンガやドラマでよくあるイベントだ。図書館で中学か高校の男女が演じるやつだ。ぼくたちは大人だけど。ぼくの心臓は、中学生か高校生のように新鮮なままだったみたいだ。ピクンピクンと飛び跳ねている。山口が背伸びしていて、顔がぼくの顔のすぐそばにある。これが雰囲気を読むべきシチュエーションなのだろうか。キス、していい、いや、しなくちゃいけないシーンにちがいない。キスなら一回しているから、嫌だといっても、もう仕方ない。ぼくは目をつむって、山口にキスしようとした。けど、角度が。同じほうを向いた顔にキスするのに、顔をどう移動していいかわからなくなった。もう目をつぶってしまっている。運を天にまかせて、山口の顔ならどこでもいいやとそのままキスした。顔をはなして目を開ける。どうも頬の中心と口の中間あたりにキスしたみたいだった。

 山口はこちらを向いたけど、なにもいわない。なにか文句をいってきそうなところなのに。

「あの、ごめん。ヘタクソで」

「キス、したかったの?」

「じつは。昨日の夜は、山口寝ちゃったから、起きたらキスしたいと思ってたんだ」

 山口がぼくの肩に手をおいて、背伸びして唇にキスしてきた。

「舌だして」

「え?でも」

 またキスしてきた。ぼくの口に山口の舌がはいってきた。心臓がドキドキして、胸がつまる。山口の舌をお出迎えしないといけないと思って、舌をなめる。んっと、山口が吐息をもらした。ぼくにはよくわからないんだけど、その表現であっていると思う。背伸びは疲れるかと思って、山口の腰を引きよせてみる。それでも楽にならなかったみたいで、顔をはなして、疲れたといった。

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