第9話「転生しすぎた勇者は虫取り網を構えた」
つぅ、と汗が頬を伝う。ジジジ……と蝉の声が辺り一面を埋め尽くすのも気にならない。
「……ねぇ」
「しっ。 静かに」
美奈の声に人差し指を立てて押し止める。
勝負は一瞬。
だからこそ、わずかな油断も許されない。
「あと少し……」
あと三歩、二歩。
標的は何も知らず樹液をすすっている。
網を握り締める手に汗が滲む。
そして、最後の一歩を踏み込んだのと同時に、腕を振り下ろした。
「ふんっ!」
我ながら見事と形容したくなる軌道を辿った網は、完全に標的の逃げ場を遮った。異変に気づくも既に遅し。激しく飛び回ろうとも全方位を覆う壁に弾き返されるばかりだ。
「よし!」
この大きさから察するにオオクワガタだ。昼を過ぎたこの時間帯に見つかるのはかなりレアな代物と言える。
「……ねぇ」
「なに?」
「それ、楽しいの……?」
「え」
気まずい沈黙が二人の間を走り抜ける。
「楽しくない?」
「…………」
物言わぬイエス。
困ったように言い淀む美奈。
地面に膝をつく僕。
「そうか……。女の子って昆虫採集とか、あまり好きじゃないんだね……」
「ご、ごめん! そこまで落ち込むなんて思ってなかった……」
「いや、いいよ。美奈の気持ちを考えていなかった僕が悪い」
今にして思えばかなり意気込んでいた。我ながら恥ずかしくなるくらいに。
『今日のは、期待していて欲しい!』
数時間前の自分の声が頭の中で繰り返される。
目の前のいたたまれない表情とのコントラストが、余計に気分を沈めさせた。
「ごめん、本当に――」
「ああーーっ!! それーーー!!!」
僕の声が唐突に飛来してきた別のかん高い声に打ち消される。
「オオクワガタじゃん!! すげーーっ!!」
見ると遠くからこっちに駆けてくる小さな影。どうやらこの村に住む小学生くらいの子供のようだった。
「き、君は、わ、わかるの?」
そう問うと少年は当たり前だと言わんばかりに胸を張る。未だに美奈以外の人間と話すのは慣れず、言葉がスラスラと出てこない。
「決まってるじゃん!! しかもでけー。こんなの見たことねぇー!!」
目をキラキラと輝かせる少年。
そんな姿に僕の英雄譚に胸をときめかせていた子供たちが重なった。世界が違えど、子供の純粋さというものは変わらないのだろう。
「欲しい?」
「えぇっ!? いいの!?」
声を裏返らせながらバッと少年の顔が上がる。
「ちゃんと大事に、か、飼うんだったら」
「マジかーー! やったぁ!! ありがとう!!!」
――――
あの山に行ってから一週間が経った。
七日間イベント尽くし、とはもちろんならず、二、三日に一回僕が何かしら提案するという流れだった。それ以外の日は、二人で適当に外をぶらついたり、部屋でカードゲームで遊んだりと、平凡な一日を過ごしている。
の、だが――。
「はぁ……」
見事にネタ切れだった。自分の発想力では、満足に一人の女の子を楽しませることもできないみたいだ。
もう少しすればまた日が暮れて今日が終わる。美奈にとって唯一無二の夏休みの一日が。
無力感に苛まされながらも、一体どうしたらいいのかわからない。
二人で木陰に座りながら空を眺め始めてどれくらい経ったのかもわからなくなってくる。
「この後の案って何かある?」
ふいに、美奈がそう言った。
「……いや」
「じゃあ、今日は私の番ね」
「美奈の番?」
小さく頷くと美奈はスッと立ち上がった。
「正太郎くん、ついてきてくれる?」
意味を掴めない僕の方を向き、そう一言だけ問う。僕が首肯し後を追うように立ち上がると、美奈は歩き始めた。
会話もなしにただ彼女の背中を追う。まだ道が見慣れないせいでその行く先は見当がつかない。
だが、少しずつその歩く道に見覚えを感じ始める。この世界に飛ばされてすぐの時にこの辺りを通ったはずだ。
「海、だね」
「うん、海」
美奈に連れられて向かった先は、最初に出会った浜辺だった。辺りに他の人の姿はなく、たださざめく波の音だけが流れてくる。
「……それで、何をするの?」
沈黙の意味するところがわからずにそう問いかけると、美奈は不思議なものを見るような目を僕に向けた。
「え、何もしないよ?」
「何も?」
呆気にとられる僕の先を美奈は歩いていき、堤防まで着くと地面を何回か払ってから、そこに腰掛けた。
「ほら、隣座ってよ」
自分のすぐ隣の地面を二回、リズミカルに叩く。
「あ、うん……」
「ふふっ」
「ん?」
「ううん、何でもないよ」
そう言うとまたクスクスと美奈は笑った。
「…………」
そして沈黙である。
どうして何も言わないのだろう?
僕が何か話すべきなのだろうか。でもこういう時に気が利くような話なんて思いつかない。目の前にはただただ広がる海。ヒントらしきものはそれくらいしかない。
もしかしたら、やはりさっきので愛想を尽かされて、もうあの家から出て行くように言い渡されるのかもしれない。
「さっきは、ごめんね」
「えっ?」
美奈の方を見ると、彼女もまた僕の顔をまっすぐ見つめてきていた。彼女の瞳が夕日の光を反射してキラキラと瞬いている。
「どうして美奈が謝るの……?」
「私、わがままだったなって」
「わがまま……?」
「うん。私ばっかり楽しくなるように、正太郎くんに無理をさせちゃった」
「そんなこと、ないよ」
衣食住を保証する代わりに僕が美奈を楽しませる。そういう約束だったはずだ。
「そんなことあるよ。だからね、さっきも言ったけど、今度は私の番」
ニコッと美奈が笑みを浮かべる。
「私も、正太郎くんの……休暇だっけ? それを良いものにできるように頑張るから。頑張るって言うのもおかしいかな。あははっ!」
「今のままだって、僕は十分――」
言葉が詰まる。今、僕は何と言おうとしたのだろう。
「…………」
ああ、思い出した。
だが違う、こんなのはダメだ。僕が抱いていい感情じゃない。
「十分、休暇になってる」
楽しいなんて、そんなことを思っていいはずがないんだ。
「それって――」
美奈が何かを口にしかけた瞬間、キュウ、キュウという音が僕たちの間を飛び抜ける。
あれは、カモメだ。
地面に座る僕たちを置いていくように、橙の大空を自由に飛び回る。
それからまた沈黙が訪れた。美奈からしたらタイミングをズラされたような気分なのか、言葉を探しているように見える。
「空を飛んでみたいって、思ったことない?」
そうして捻り出した話題は、またどこから来たのかと問い直したくなるくらいに突拍子がない。
「空なら……」
と言いかけたところで言葉を止める。
「……怖いから、嫌だな」
何度も飛んだことがあるなんて、この世界では口にできない。
もしも、彼女を魔法で空へ連れて行ったら、どんな顔をするだろうか。きっと怖がってひとしきり叫んで、それからとびきり笑顔と一緒に目をキラキラと輝かすのだろう。
この世界を明るく照らす太陽のように、煌びやかな笑顔を僕に見せてくれるのだろうか。
そうしてやれない現状が、少し歯がゆい。
「怖いって、それでも本当に男なの?」
「怖いものは怖い、よ。落ちたときのこと、考えるとなおさら」
「空を飛べたらって話なのに、落ちた時のことを考えるなんて。やっぱり正太郎くん、変わってる」
「もう聞き飽きたよ」
「あははっ!」
それからはまた他愛もない会話に花を咲かせて、夕日が水平線に沈むのを見た。彼女と一緒にいると、時間があっという間に過ぎる。
ただ、時間が過ぎる。
何の意味もない時間が、ただ、過ぎる。
そんな感覚が新鮮で、こんな風に余計に感傷に浸ってしまうのは、きっとそのせいだ。
「綺麗だね」
ふと美奈がそんなことを言って、僕はそれに頷いて同意を示す。
「うん……」
「……夕日って綺麗だけど、少し寂しくなるよね」
「寂しく……」
「なんでだろ。何か大事な物が消えちゃうみたいな、そんな感じがするの」
「考えたこともなかった」
こんな風に景色をゆっくりと眺めた記憶がない。前にも彼女と星空を眺めた時に気づかされたことだった。
「風情がないなぁ」
「否定、できない」
――――
「すぅ……、すぅ……」
夜も更けて少女はぐっすりと眠っている。夜に鳴く虫の声が良い子守唄代わりになったようだ。一方の僕はなかなか眠れずにいたが手持ち無沙汰だった。
「月が、きれい……」
星々が散らばる中にポッカリと穴が空いたような円形。その光には妖しさを感じると同時にどこか安らぎを覚えもする。
落ち着いて月を見上げることも忘れていたのだ、自分は。
「あの」
「!?」
心臓が飛び跳ねる。全身が一気に強張る。
声音は明らかに美奈のものではない。すぐそばで今も寝息を立てている。
「あ、静かに……。あの子が起きちゃうからねぇ」
暗闇の中に一人分の人影が見えた。声の主らしき人の顔までは見えない。
「あなたは……?」
「はじめまして。美奈の祖母でございます」
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