番外編【彼女達の日常】

第42話 服部真依は今日も社畜である

 皆様どうもこんにちは、私、服部真依と申します。


 年は30を少し手前と迫る所まで来ており、色々と焦りを感じ始める今日この頃ですが、仕事が恋人と言い張ることで何とか自我を保っております。


「おや、もう終電ですか……」


 仕事は出版社に勤めており、日々仕事に忙殺されています。家に帰れない日もありますし、終電近くまで仕事を続けないでいい日がある方が珍しいかもしれません。


 とはいえ、ここまで忙しいと辞める人の方が多いのは仕方がないとしか言いようがなく、慢性的な人材不足、働き方改革からは蚊帳の外です。


「ですがもう2日は帰ってませんしね……流石に今日は帰りましょうか」


 好きを続けていくというのはとても難しいことです。


 思うような結果など容易には出ませんし、覚悟を決めて飛び込んでもあまりに大きな理想とのギャップに苦しみ挫折することもザラにあります。


 そういう方々を同僚でも、先生方でも浴びるように見てきました。


 特に作家になるというのは底なし沼からダイヤの宝石を見つけ出すような作業だと思います。見つけた方は富と名声を手にしますが、見つけられなかった方は泥の中で藻掻き苦しみ、誰にも知られることなく沈み、消えます。


「本好きが高じて付いた仕事ですが……やはり非情ですね」


 理由は違えど、上尾先生が理想の住人を愛する理由も分かります。


「では、お先に失礼します」


 まだ仕事を続ける社員さんを横目に私は職場を出ると、真っ先にコンビニへと向かいアルコール度数9%のチューハイを籠へと突っ込みました。


「仕事が恋人であれば、お酒は浮気相手でしょうか」


 随分と破廉恥な女になったものです、と思いながら小さな溜息を一つ。


 その他にも適当に弁当やサラダといったものも籠に入れ会計を済ませ、外へと出てから終電までの時間を確認すると着信が一つ入っていました。


 相手は見知らぬ番号からでしたが、何となく想像はつきます。


「恐らく、三国さんですね」


 上尾先生に抱かれ未遂事件の続報といった所でしょうか。


 まだアラサーというには早いのですが、若い男性の声というのはそれはもう聞くだけで栄養にはなるので、私は歩きながらも折り返すことに。


『もしもし、三国です』

「折返しが遅くなり申し訳ありません、服部です」


『あ、服部さん、夜分遅くに電話をしてしまい申し訳ありません』

「いえ、お気になさらず」


『もしかしてお仕事中でしたでしょうか?』

「先程までは、ですが今終わった所なので大丈夫ですよ」


 三国さんはまだ学生というのに礼儀がしっかりしている人です。


 とはいえ最近の学生は皆こういう感じなのでしょうか、テレビなど見ていても若手で活躍しているプロの方は受け答えがしっかりしていますし。


 私の頃はもっとこう、ヤンチャを売りにしているみたいな人がいたような印象ですが……。


 ジェネレーションギャップ的なものに少し気が遠くなりつつも、私は駅に向かいながら話を進めていきます。


「それで、ご要件はどういった感じでしょうか?」

『ええとですね……あの、既にご連絡は行っているかと思いますが……』


「上尾先生に抱かれたというお話ですね」

『え!? やっぱりそうだったんですか!?』


「いえ、冗談です、そのような報告は受けていません」

『洒落にならないんですから脅かさないで下さい……』


 電話越しでも分かるほどの安堵のため息に少し笑ってしまいそうになります。


「しかし、あの一件のお陰で上尾先生は少し変わられました」

『黒芽せんぱ――上尾先生が変わった、ですか?』


「最近、上尾先生はよく喋るようになったんですよ」

『……? 上尾先生は――俺の知る限り凄くよく話す人ですけど』


「それは三国さんの前だからです、昔はそれこそ業務報告だけでした」


 メールはどうしようもない部分もありますが、こと電話でのやり取りに関しては実に業務的な、淡白なやり取りが多かったのは事実です。


 元より原稿に関しては指摘部分が殆どありませんし、その僅かな指摘すら一発OKな出来で帰ってくるので他の先生にあるようなやり取りも全くなし。


 おめでたい話も全く喜びませんし――良い言い方をすればとてもやりやすい方ではありますが、少し寂しい気持ちにもなるものでした。


「なので――生き生きとした上尾先生のお声が聞けて安心しております、これも全て三国さんのお陰です、本当にありがとうございます」

『そう――言って頂けますと、とても有り難いです。自分のしたことが間違いじゃないと、そう言って貰えている気がするので』


「まあ、9割9分9厘は三国さんのお話ですけどね」

『え』


 三国さんが如何に素晴らしくて、自分がどれだけ好きかというのを滔々と語られるのは今この年になって分かることですが中々に凄まじいものです。


 頭のてっぺんから爪の先まで褒めちぎってくる訳ですからね、下手に通話も切れないので本題に戻すのが大変過ぎて。


 そろそろ今日の三国さん速報まで送られそうなので、それは勘弁して欲しいのですが……。


「個人的にはもう三国さんは抱かれてしまった方が上尾先生の作品の質が向上すると思うのでその方がいいのですけども、というかもう抱いて下さい」

『人を昇給のダシに使わないで下さい……』

「バレましたか」


 しかし、上尾先生程の方であれば一緒になっても利点しかないんですけどね。


 まあ、その後の保証はしないので無理強いは出来ませんが。


「――と、そろそろ電車が来そうなので通話を切らせて頂きますね」

『あ、そうですか、すいません長々と――――あの、服部さん』


「はい、どうしましたか」

『いつも、本当にお疲れ様です。そして上尾先生という素晴らしい作家を世に送り出して下さって、いちファンとして本当に感謝致します』


「……三国さん、それこそ私は何もしていませんよ、全ては上尾先生の功績です」

『ですが、服部さんがいなければ上尾先生もいなかったのは事実だと思ったので』

「…………」


 ――私は所詮、引き継ぎで彼女の担当になっただけなのですが。


 ですが、編集など究極な話、陰の存在でしかないと勝手に思っていただけに――


 日々の仕事に疲れ、心も少し弱り、気力だけで生きているような女に、そういう労いの言葉はアルコール以上に染みるものがありますね、これは恐ろしい。


「――三国さん、そういうのは上尾先生に伝えてあげて下さい」

『いえ、そういう訳には』


「三十路の女はすぐ本気にしてしまうから、という意味ですよ」


『へ――』

「おっと、本当に終電の電車が来てしまったのでこれで――あ、そういえば当初のお話を忘れていましたね、帰宅後にはなりますが、先に主題だけお伺いしておきます」

『あ、そ、そうでしたね……あの――』


 すると三国さんは私の言葉に対し少し言い難そうな声を上げましたが――ですが時間がないのを理解してか、すぐにこう口にしたのでした。


『上尾先生が留年するというお話聞きましたか?』


「……いえ、聞いてないですが――――いや、パないですね、それ」

『はい……パな過ぎるんです』


 おやおや……上尾先生、私の全盛期を軽く上回って来ているではありませんか。

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