第22話 御礼の御礼の御礼の御礼

「そろそろ睡眠不足で死ぬのかな……」


 俺は男子トイレで眠気覚ましに顔を洗うと、鏡に映る目の下の青黒いクマを見てそう呟いた。


 最近の俺の睡眠学園生活は、壊滅状態に近い。


 ただでさえ普段の睡眠を学校で補っているというのに、山中、川西、黒芽先輩という問答無用の美少女3人の登場により睡眠時間は実質的に消滅してしまった。


 せめて、せめてにと休日は眠らせて貰おうと思っていたが、どうやらそれも難しいことになりそうだし……。


「いや……だったらちゃんと夜寝ろって話なのは分かっているんだが……」


 だが夜、もとい深夜は俺の主戦場とも言える時間なのである。


 静まった時間にテレビを流しながらゆったりと漫画を読み、小説を読む、時にはゲームをしたりと――これは何物にも代えがたい至福の時間なのだ。


 これを俺から取り除いたらはっきり言って何も残らない、でもだからと言って彼女達を蔑ろにして眠りこける訳にはいかない。


 故にどちらも優先した結果がこの有様である。


「蛍が変な勘違いをしなければ……いや、もう起こったことを言ってもしょうがない」


 俺がちゃんと説明できなかったのが悪いのだ、蛍の勘違いを解いていれば黒芽先輩だって川西にだって迷惑をかけずに済んだのだから。


「家族以外と喋る必要がないとか思っていたツケが大いに回ってきたか……ここまで来るとそういう専門学校とか通った方がいいのかもしれん」


 だがイケメンのリア充男子のように饒舌に喋る自分を想像すると気持ちが悪過ぎて吐き気がした、何事も程々が一番だ。


「こうなったら、自分の歩幅で頑張るしかねえな……」


 そう自分に言い聞かせると俺は両頬を平手で二度と叩き、気を吐いてからトイレを出ると、図書室へと足を運んだ。


 目的は、単純に御礼の御礼の御礼と言う奴である。


 川西と黒芽先輩が俺の家に来るという凄まじいイベントの際、俺は川西から黒芽先輩――ではなく上尾先生のサイン本の御礼を貰った。


 中に入っていたのは彼女が厳選したという小説が5冊と有名店のお菓子。


 とても有り難くはあったのだが――何せ金額が金額であった為、流石にサイン本だけでは割に合わないと思ったのである。


 勿論黒芽先輩のサイン本にはとんでもない価値があるというのは後々知ったことではあるが――俺自身が特別何かした訳ではないので同額の菓子折りくらいは渡すべきと考えた。


 俺の選んだ小説を渡しても多分川西だったら知ってるだろうしな――と思いつつ俺は図書室に辿り着くと軽くノックをして扉を開けた。


「……あれ?」


 相変わらず良い意味で閑散としている図書室であったが――カウンターにいつも座っているはずの川西の姿が無かった。


「開放されているからいる筈なんだが……おかしいな」


 奇妙に感じながらも取り敢えず足を踏み入れ奥の方まで見渡してみるが、やはり何処にも川西の姿は見当たらない。


「うーん留守……なのか、出直すしかないかなこれは」


「先輩?」


「うおっ! び、ビックリした……! 何だいたのか……」


 諦めて引き返そうとした瞬間、カウンターの下からひょっこりと川西が顔を出したので俺は思わず声を上げてしまう。


「お、脅かしてごめんなさい先輩……あ、あの、良ければこちらに来て下さいますか……?」

「うん……? 別に構わないけど……」


 何故か川西はカウンターから顔を出したまま動こうとせずそう言うので、俺は不思議に思いつつもそれに同意して彼女へと近づく。


「…………うむ」


 裏へと回って見ても特段おかしなことはない、膝をついて上目遣いで俺を見る川西の姿はちょっと可愛らしくてドキッとしてしまったが。


「え、ええと……しゃがんで頂いても宜しいですか……?」

「……? わ、分かった」


 何だかかくれんぼをしているような、そんな妙に懐かしい気分に襲われながらも言われた通り俺はカウンターの下へと潜り込むようにして身を潜めた。


 いや何だこれ。


「――――! せ、先輩……近いです……」

「えっ――い、いや川西がここにしゃがめって言うから……」

「そ、そうでした、ご、ごめんなさい――すー……はー……」

「?」


 焦っているように見えていたが、どういう訳かこのタイミングで深呼吸をし始める川西、落ち着いてくれるならそれに越したことはないけども……。


「えっと……今日はどういったご用件で図書室に……?」

「あ、そうそう、昨日の今日で悪いんだがわざわざ小説とお菓子貰ったからさ、その御礼にと思って俺もお菓子を持ってきたんだよ」


「えっ! そ、そんな先輩悪いです……あれはサイン本の御礼だったんですから、また御礼を受け取る訳には――」

「でもあれ結構な値段しただろ? それは流石に申し訳ないし、これで全部チャラと思って貰えればそれでいいからさ」


「で、ですが……私は昨日あんなに皆さんにご迷惑をかけて……」

「あの件はもういいって、あれは俺だって悪いんだしさ」

「そんなことは……ですがやっぱり……」


 川西は困り果てた表情でその場で俯いてしまう。


 ううん……受け取って貰った方が俺としても助かるんだが、とはいえ渡すタイミングが少し悪かったかもな――


 これはどうしたものかと考える――すると途端川西が何かを思い出したように手をポンと叩くのだった。


「そ、そうでした! せ、先輩、御礼の御礼の御礼の御礼――という訳ではないのですが、ちょっとこちらまで来て頂けますか?」

「へ? お、おう……」


 周囲を警戒しながらもその場から立ち上がった川西は、手招きをしてカウンターの奥にある扉へと向かっていくので、俺もそれについて行く。


 また何か新しい本を……? と思いながら書庫と思われる扉の先を抜けると――


 そこにあったのは、予想の遥か上を行くものであった。


「ふ、布団……だと……?」


 書庫の端には、正真正銘誰がどう見ても敷布団、掛け布団、そして枕の3点セットが綺麗に敷かれているではないか。


「な、何で布団がこんな所に……?」

「そ、その……ここ最近先輩はずっと疲れているように見えましたので……机でお休みになるのでしたらいっそのこと布団の方が良いのではと……」


 いや……いくら何でも職権乱用という奴なのでは。


 それに書庫で布団を敷いて寝ている奴がいるなんてバレたら下手したら学校中で問題になるレベルだ、それを許容する訳には――


 し、しかし……。


 俺は既に、布団という魔の引力に身体が吸い寄せられ始めていた。


 皆は授業時、あまりの眠さに布団を敷いて眠りたいと思ったことはないだろうか。


 無論それは淡い願望として脳内で完結するものだが――今まさにそれが叶おうとしている状況で、それをみすみす捨てるのはあまりに惜しいものがある。


 ちらりと目をやると、川西は不安そうな表情で俺を見ている……ぐぐ……。


「…………」

「や、やっぱり駄目……ですよね……ご、ごめんなさいすぐに片付け――」


「いや――……い、1回だけ、1回だけ利用しよう」

「せ、先輩……?」


「二人だけの秘密にして、それで終われば誰も知ることはない、そうすればこれは問題として提起されることもない、そう思わないか?」

「二人だけの……秘密……」


「そ、それにこの経験をやらずして終えるのはあまりにも……だから――」

「で、では私も一緒に――」


 そうだ、これは御礼の御礼の御礼の御礼なのだ、折角の川西の厚意を無下にするのはあまりに失礼というもの。


 だから一回だけ叶えるのだ……学校で布団で寝るという夢の時間を……!


 そう決意した俺は誘惑に負けている自分を無視してついにその手を布団へと手をかける――


 のだが。


 図書室の方から聞こえた扉を開ける音で、それは儚く散ってしまうのであった。


 どうやら俺は睡眠の神様にとことん見放されているらしい。

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