夕紅とレモン味
ぴおに
第1話 約束
「お、お先に失礼します! お疲れ様でしたッ!」
い、言った……
昨夜考えすぎて眠れなくて、危うく遅刻するところだった。なんて言おうか、何か言われたらなんて返すか、いろんなパターンを想定して何度もシュミレーションした。でも結局、この一番オーソドックスなセリフ「お先に失礼します。お疲れ様でした」に落ち着いた。
我が社は押しも押されぬブラックカンパニー。
定時で帰るなんて辞表出すに等しい。
だけど決めた。定時で帰るんだ。
確かに仕事は好きだけど、あまりにも自分の時間が無さすぎるのは若い女性にとって弊害がありすぎる。約束したんだ。定時で帰って乾杯しようって。
私の言葉を聞いて、一番イヤミな次長がワナワナと立ち上がろうとした時、誰かが何か言った。
「お、俺もお先に失礼します! お疲れ様でしたッ!」
えーーーーーーーっ??!!
オフィスの時が止まった。
一コ下のコーハイだけが顔を真っ赤にして慌てながら帰り支度をしている。まわりの呆気にとられた視線を浴びながら、私とコーハイは何とかドアの外に出た。こんな展開全く予想していなかった。
「定時で帰るなんてセンパイ、カッコいいっす!」
便乗しといてよく言うわ。
まだ顔の赤いコーハイに呆れながら応えた。
「こんなことして、どうなるか知らないよ?」
「大丈夫です、きっと定時で帰りたいってみんな思ってるはずですよ。明日は仲間が増えるかもです」
爽やかに笑うコーハイにもう一度呆れながらエレベーターに乗り込んだ。もちろん二人きり。他の部署からも誰も帰っていないということだ。
「あ、あの……センパイ、良かったら飯でも食って行きませんか?」
さっきよりも顔を赤くして、視線を泳がせながら言う。漫画だな。コイツ、漫画だ。
「ごめん、今日は予定があるんだよね……」
コーハイのおでこにタテ線が走る。やっぱり漫画だ。
「デ、デート……ですか?」
うーん……何と言ったもんだろう。
確かに男性と二人で会う約束なんだけど、デートってワケではない。お父さんって事にしよう。年齢も同じくらいだし。
「そんなんじゃないよ、父に会うの」
タテ線が消えて気を取り直したコーハイは、また顔を赤くして目を泳がせ、じゃあ明日はどうですか?と言った。忙しいヤツだな。
「明日なら大丈夫。じゃあね」
エレベーターを降りた私の背中に、アザス!と頭を下げるアイツは一体何部だったんだろう?イケメンなのに純粋というか単純というかスレてない。サッカー部ではないな。野球って感じでもない。明日聞いてみよう。
イヤホンでお気に入りの音楽を聴きながらまだ混み始める前の電車に乗り込む。よし、間に合いそうだ。
窓の外は予想以上に明るい。知らないうちに日が長くなったんだなぁ。この街に移り住んで数年経つけど、こんなに明るいうちに帰宅するのは初めてかもしれない。窓から見るのはいつも夜景だった。キラキラとして都会的なその景色も好きだけど、この明るい景色の解放感もいい。見えないほど遠くまでぎっしりとビルや家が立ち並んでいるわりに、意外と細かいところまでよく見える。細い路地裏が続く住宅街、シャッターが目立つ商店街、線路間際のマンションは部屋の中まで覗けてしまう。
駅前で食材を調達した私は、お店のガラスに映る自分の顔を見て驚いた。ニヤケすぎだわ。さぁ、アイツは来るかな?もし遅くなっても、待っていてやろう。
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