春、またきみに会えますように

星染

春、またきみに会えますように

 まだ全然寒いのに、春の匂いがした。桜はまだまだ咲かないし、先週雪も降ったけど、どうしてか春だなあと思った。卒業証書の筒を右手で弄ぶ。


「行かねえの」


 気配もなく後ろから声がして、わたしはびっくりして振り返った。規則正しく並んだ机の波の真ん中に、斎藤くんがわたしと同じ筒を持って、いつのまにか居た。


「どこに」

「打ち上げ」

 行かないよ。


 ひとりになりたかった。別にみんなが嫌いだって訳ではないけれど、飲食店でぎゃあぎゃあ騒ぐような気分では、とてもなかった。

 斎藤くんはふうん、と静かに呟いてわたしの近くの机に腰を降ろした。春の匂いがする。廊下のワックスの匂いとか、風とか全部、春の色をしていた。斎藤くんも黙って、窓の外を見ていた。どちらともなく卒業だねって呟いて、どちらかがそうだねって返事をした。写真を撮り合ってわあわあ泣いて別れを惜しむより、このほうがよほどせつなかった。

 時間が止まったらいいのにと思った。15歳と16歳の中途半端な隙間でずっと彷徨っていたかった。なにかが頭から抜け落ちていって、からだがどんどん透明になっていくみたいだった。あのさ、と斎藤くんが言った。ちょっと、震えていた。


「あのさ、紺野」


 斎藤くんの方をゆっくり向いた。斎藤くんはまっすぐに、わたしの目を見ていた。澄んでいて、零れそうだった。


「おれたち、もう消えちゃうんだな」


 消えちゃう、というのはなかなかぴったりな言葉に思えた。消えちゃうんだ、わたしたち。消えかかっているんだ、もう。この教室を出て、廊下を歩いて、自転車に乗って、家に帰ったらもう、斎藤くんに会うことはないんだ。けど、もし今わたしが「そうだね」なんて言ったら、斎藤くんはきっと泣いてしまうんだろうなと思った。春の匂い。嫌いだけれど好きだった。ぞっとするほどゆるやかで、鳥肌が立ちそうなほどに優しい匂い。


「そうだね。もういなくなっちゃうね」


 斎藤くんの顔を見たくなくて、また窓のほうを向いた。もうちょっとここにいたい。まだもうちょっと、生徒でいたい。とっても静かにだけれど、斎藤くんは泣いた。

 静かに、静かに、わたしはつぶやいた。頭のなかで何度も用意しては消した。斎藤くんの泣き声がする。泣いてる。今日が特別な日なんだとやっと悟った気がした。もう消えかかっていた。


「斎藤くん、あのね」

「うん」

「すきだよ」


 もうどれだけ追いかけたって、届かないよ。わたし、きみのことが好きだった。斎藤くん、ねえ、わたしもう消えちゃうの。居場所を探してずっとこれから、斎藤くんの見えない世界で生きていくんだよ。胸いっぱいのさようならを、いま伝えたいんだ。一生分の別れのことば、きみにあげる。


 ごめんね、さよなら。

 わたしは泣きながら教室を出る。消えかかったわたしと斎藤くんは、きっとまた会える。

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