大切過ぎる弟の気持ち

無月弟(無月蒼)

世界で一番大事な、私の弟

 バイト先の喫茶店を出た時には、辺りはもう暗くなっていた。

 おまけに雨まで降っていて。学校を出た時には晴れていたのにと、憂鬱な気分になる。


 近くのコンビニで傘を買えば良いのだけど、高校生にとってはたかが三百円のビニール傘でもまあまあな痛手。特にうちの場合は、ね。

 買わずにすむならその方がいい。幸い雨はそこまで強くはないし、帰ってる途中でやむかもしれない。だったら、わざわざ買うのはバカらしいよね。ちょっと濡れるけど、ここは家まで駆け足で帰ろう。そう決意したその時。


「あ、いたいた。姉さ~ん」


 聞き慣れた幼さのある声が、耳に届いた。夜道の向こう、傘を指してこっちに近づいてくる小さな人影が一つ。眼鏡をかけ直して、その姿をよーく見て、私は思わず声をあげてしまった。


「八雲!? どうしたのこんな所まで!?」


 やって来たのは私より五つ年下の、小学五年生になる弟の八雲だった。右手に傘を指して、そして左手にはもう一回り大きな傘を抱えて、こっちに歩いてくる。


「アルバイトお疲れ様。やっぱり、傘無かったんだね。はい、持ってきたから使って」

「わざわざ持ってきてくれたの? ありがとう」


 傘を受け取った私は、そっと八雲の頭を撫でる。本当にこの子は我が弟ながら、可愛くて優しくて気が利く、できた子だ。

 天使のような笑顔を眺めながら、持ってきてもらった傘を開いたけど、ここでハタと気がついた。


「そう言えば八雲、アンタもしかして、一人で来たの?」

「そうだけど?」

「ちょっと、ダメじゃないの。もう暗くなってるんだから」

「平気だよ、ここまではもう何度も来てるし、人通りの多い所を歩いてきたから。それに、僕が来なかったら姉さん、傘代をケチって濡れて帰ってきてたでしょ?」


 うっ、鋭い。どうやら八雲はそこまで見越した上で、迎えに来てくれたみたいだ。そう言えばこの前同じような事があって、雨の中をずぶ濡れで帰って、家で留守番してた八雲をビックリさせちゃったっけ。

 あの時はすっかり体を冷やして。すぐにお風呂に入ったから風邪は引かずにすんだけど、たぶんそれがあったから、迎えに来てくれたのだろう。


「姉さんってばすぐ無茶をするんだから。傘代ケチっても風邪引いちゃったら、かえって高くついちゃうでしょ」

「それはそうだけど……。でも、とにかくもう迎えに来るのはダメ! 夜道は危険が多いんだから。何かあったらどうするの? 事故にでも遭ったりしたら……」

「……ごめんなさい」


 いけない、怒るつもりなんて無かったのに、つい強く言い過ぎちゃった。特に事故の例え話を出したのは良くなかったかも。八雲は悪い訳じゃないのに、シュンと肩を落として小さくなってしまっていた。


 幼い頃にお父さんが病気で他界して、お母さんが交通事故で亡くなったのが半年前。それから私と八雲は、姉弟二人だけで生活をしていた。

 お母さんのお友達が大屋さんをやっているアパートに住まわせてもらって、学校に通いながらバイトもして、何とか生活できているのが現状だ。


 だけど、ふとした時に不安に教われてしまうことがある。もしお母さんと同じように、八雲まで事故に遭いでもしたらって。

 さっきはつい、あんな例え話をしてしまったけど、八雲にとってもお母さんの事故はショックだったはず。無神経な事を言って傷つけてしまうだなんて、これでは姉失格だ。


「ごめん、ちょっと言いすぎた。傘を持ってきてくれたのは、感謝してるから。さあ、遅くならないうちに、早く帰ろう」


 そう言って手を繋ごうとしたけれど、八雲はその手を取ってくれなかった。


「ん? どうして手を繋いでくれないの?」

「だって、僕もう五年生だよ。姉さんと手を繋ぐなんて、恥ずかしくてできないよ」

「恥ずかしいって……。前は毎日、手を繋いで登校してたでしょう」

「それがもう恥ずかしくなったの。さあ、もう行くよ」

「ちょっと、八雲……」


 歩き出した八雲の後を、慌てて追いかける。それにしても、以前は文句一つ言わずに手を取ってくれてたのに、まさか反抗期になっちゃったの? まあ八雲はいい子だから、反抗期とは言えそんな手のかかるようなことはしないだろうけど……。


「あ、そうだ姉さん」

「なに?」

「ちょっと家事の分担の事で、お願いがあるんだけど」


 そら来た。

 我が家では掃除や洗濯など、やるべき事を姉弟で分担して行っているのだけど。さては八雲ってば、やるのが面倒臭くなっちゃったのかな? まあ、それくらいならいいけど。ここは姉さんが一肌脱いで……


「もう少し僕がやる事を、増やしてもらえないかな?」

「何でそうなるの⁉」


 てっきり減らしてほしいって言われると思っていたのに、それじゃあ逆じゃないの。


「だって、そもそも今の分担がおかしいんだもの。姉さん毎日バイトして疲れてるのに、家事の割合が9対1でしょ。掃除も洗濯も、僕がやろうとしたら止めて来るし」

「当り前じゃない。八雲はまだ小学生なんだから、遊んだり勉強したりを優先させなくちゃ」

「そっちだってちゃんとやってるよ。だいたい、家の手伝いしている子なんてたくさんいるんだから」

「ダメったらダメ。八雲に負担をかけるわけにはいかないもの」


 お母さんが死んで、二人で生きていくってなった時、私は誓ったんだ。八雲に決して、苦労をかけちゃいけないって。

 両親がいない分、私が八雲の事を守らなくちゃいけないの。だから家の事で、自由な時間を奪いたくない。バイトも家事も全部私がするから、八雲はのんびり過ごしていればいいんだ。


「僕はもっと、姉さんの力になりたいのに……」


 悲しそうな声を出さないでよ。そう言ってくれるのは嬉しいけど、本当は小さな苦労だって、掛けたくないんだ。


「とにかく、この話はもうお終い。ほら、そんなショゲた顔しない。帰ったらハンバーグを作ってあげるから。豆腐ハンバーグだけど」

「僕は平気なのに……。姉さんのバカ」


 ううっ、最後の一言が、ナイフみたいに胸に刺さった。で、でも私は自分の言った事を曲げるつもりなんて無いから。私のしていることは、間違っていないはず……


『本当にそう思う?』


 不意に、男性のものかも女性のものかも分からない妙な声が、頭の中に響いた。驚いて周りを見てみたけど、辺りに人影はない。


「八雲、アンタ何か言った?」

「え、何も言ってないけど?」

「おかしいわねえ、空耳かなあ?」


 ハッキリ聞こえたと思ったんだけど、この様子だと八雲には聞こえてなさそう。疲れているのかなあ?


 今夜はしっかり眠ろう。あ、でも今夜中に洗濯機を回して、明日の朝干してから、学校に出かけないとね。その時には、雨やんでるといいけど。


 そんな事を考えながら、二人して家へと帰って行くのだった。

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