のびやかに踊る(掌編集)
夏緒
ポポロ
洒落た横文字が並んでて名前なんて一度も読めやしないけど、僕は知っているんだ。
あのくすんだ緑色の屋根の小さな建物の二階には、とんでもなく居心地の良い空間が広がっているってこと。
そこは小さなスパゲティ屋さんだった。
背の低いおばあさんと、孫ほど年の離れた女の子が、静かに静かに働いていた。
僕は毎週火曜日のお昼に決まってそこを訪れた。
人がひとりしか通れない狭い階段を上がると、鈴付きの硝子扉の向こうには、まるでそこだけ時代に置いていかれたかのような雰囲気が漂っていた。
三つしか席の用意されていない小さな店。
BGMもかかってなくて、いつも大体お客も少なくて、聞こえるものと言えばおばあさんの優しい「いらっしゃいませ」の声と、あとはひたすら料理を作る音。
僕はいつも店の真ん中にある、二人がけ用の小さな席に着いた。
テーブルには薄いクロスが二重に掛けられていて、椅子はとても柔らかかった。
横長の窓ガラスには色褪せたレースのカーテンが、いつも昼の太陽の光を優しく遮っていた。
僕はいつもそこで、本棚から古い漫画を一冊拝借し、沢山のメニューの書かれたプラスチックの板を手に取る。
スパゲティだけでここまで広げるかと驚く程に、その店のメニューは多かった。
卵と引き割り納豆の和風スパゲティは海苔の味が絶妙に引き立てられていて、シーフードスープスパゲティとか、カルボナーラ、ミートソース、何でもあった。
僕は毎週のように通っていたから、毎週必ず違うものを頼んだ。
僕がナポリタンを注文すると、女の子が何も言わずに厨房に帰っていく。
それから少しだけ時間が経つと、次にはフライパンで大きく切った具を炒める音が聞こえてくるんだ。
木製の大きなトレーに乗せられて運ばれてくるのは、シンプルで大きな皿に山盛りのナポリタン。大きく切られた具が全部上に盛り付けられてる。
透明の器の中には、ドレッシングで照り輝いたリーフサラダ。
今にも中からバターが溢れてくるんじゃないかと思う程のこんがり焼かれたバターロールが二つ。
ブラック珈琲のソーサーの上には、決まって小さな角砂糖が三つ。
眺めただけで満足してしまう。
女の子が何も言わずにトレーを置いて厨房に帰っていくのを見届けてから、僕は漸く手に持っていた漫画をテーブルに置くのだ。
美味しいかどうかはよく分からないが、とにかく僕は、この店の味がとても好きだった。
料理を作らない時のおばあさんは、決まって厨房の入り口に椅子を置いて、新聞を読んでいた。
小さな身体に似合わない程大きく新聞を広げて、すっかり身体を隠してしまう。
僕はその空間が酷く心地好くて、誰にも邪魔されたくなかったから、誰にもこの店のことは言わなかった。
支払いは少し割高だったけれど、僕はいつも充分に満足していたし、払う価値のある金額だと思っていつも文句を言わずに払っていた。
ある火曜日、いつもの時間にそこを訪れると、階段の手前でシャッターが降りて定休日の看板が掛かっていた。
不思議に思いながらもその日は帰り、僕は昼飯を食べ損なってしまった。
次の火曜日も、その次の火曜日も、その店は階段の手前でシャッターが降りていて、定休日の看板が掛かっていた。
定休日は毎週木曜日のはずだったのに、曜日を変えたのだろうかと思って試しに水曜日に訪ねてみたら、また階段の手前でシャッターが降りて、定休日の看板が掛かっていた。
僕はそこで漸く気付いた。
あの店は、閉店してしまったのだ。
理由なんて正確には分からないけれど、僕は酷く後悔をした。
僕はあの店が本当に気に入っていて、あの空間を誰にも邪魔されたくなくて、あの店のことを誰にも話さなかった。
きっとあの店を訪れた人が、皆同じことを思ったんだ。
だからいつも客が少なくて、店が静かで、値段も割高だったんだ。
もしかしたらおばあさんが具合を悪くしたのかもしれない。
もしかしたらもっと別の理由があるのかもしれない。
それでも僕は、あの店の味を誰にも自慢しなかったことを、本当に心から悔やんだ。
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