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「お疲れ様です」

「お疲れ様」



外線の電話相手は、遠藤さんではなく坂崎さんだった。



「はい、紅谷です」

「お疲れ様、坂崎です。だますようで申し訳ないが、バレないように今君は遠藤さんと話しているということにしていてくれ」

「…お世話になっております」

「よろしい。早速なんだが急ぎ内密で聞きたいことがある。今日は空いているか?」



と、架空の遠藤さんを装い、指定された場所に案内されることとなった。



「とりあえずかけてくれ」

「…失礼します」



まさか入社二年ほどしかたっていない私が社長秘書の坂崎さんと食事をするなんて誰もが思わないだろう。私も電話で驚いたが、なぜ私が呼ばれたのかと恐怖でしかなかった。


坂崎さんは手慣れているのか、創作料理の説明をしてくれて、とりあえずおすすめのメニューを注文した。前菜から流れて提供されるようにと、コース料理を注文してくれる。



「安心してくれてかまわない。もちろん僕が払う」

「…あ…ありがとうございます(いや、不安なのはそこじゃない)」



ワイングラスにシャンパンが入る。私も勧められた手前、同じものをいただくことにする。



「それじゃあお疲れ様」

「お疲れ様です」



一口飲み、口で転がす。なんとも飲みやすくなめらかな舌の感覚に驚く。



「飲みやすいだろう」

「ええ…ありがとうございます」



坂崎さんは穏やかな表情で笑いかける。普段人事部で接点があるとはいえ、仕事中の坂崎さんは強面な印象だった。だからこそ、今日は笑顔の絶えない坂崎さんは印象とかけ離れていることから、より一層今から何を尋ねられるのかと心配で仕方がなかった。



「あの…」

「今日君を呼んだ理由か?」

「…はい。私何かしてしまったのかと…」

「いや、逆だ。君の評判は山之内君からもよく聞いている。とても出来の良い子が来たと」

「あ…りがとうございます」

「配属する人間が手薄だったこともあって人事部に当初は新入社員を二人入れるのはどうかと反発を食らったが、配属を決めた君たちの上司の期待をはるかに上回る成長ぶりだと他部署でも評判だ。同期の黒田君も合わせて今の人事部があるのは二人のおかげでもある。出来の良い二人が良く育ってくれたと山之内君も助かっているといっているぐらいだ」

「そ…そうなんです…か」

「そこで、だ」



前菜がテーブルについた。そのタイミングで一度言葉を飲み込んだ坂崎さんは、店員が個室の扉を閉めたタイミングで再び口を開いた。



「特に山之内君から評判が高い君に、協力してほしいことがある」

「私にですか…?」



先ほどまで表情豊かだった坂崎さんとは違い、仕事の顔。強面のきりっとした表情にもどる。


坂崎さんはカバンから資料を取りだした。クリアファイルに閉じてある無数の紙の束を、私に差し出す。渡されたファイルごともらい、中身を確認する。



「これは…」

「ここ半年間、聞き取り調査をした内容がすべて詰まっている」



資料を一枚ずつめくりながら確認した。この内容は人事部以外の他部署全員に対する聞き取り調査の結果をまとめたものだ。でも、これって…。



「君の上司二人、山之内君と木下君を調べてほしい」



前菜をゆっくりと堪能する坂崎さん。真剣な表は打って変らない。



「どういうことですか?」

「君が二人と仲が良いのは知っている。だからこそ協力してほしい。そこには各部署に聞き取り調査をしたコンプライアンス的な問題がごっそり詰まっていてね」

「コンプライアンス…」

「そう、その問題は」



前菜に手を付けるフォークとナイフを止める。



「彼らの不倫問題だ」

「?!」

「たかが不倫、と思うかもしれない。だが、現社長はそういった問題に敏感な人でね。この問題が浮上したのも、とある部署の男性が僕に訴えたことに始まったんだ」

「訴えですか…」

「そう。彼は真っ先に“不倫している奴がいる”と僕に訴えを起こした。当初は僕も「たかが不倫だろう、自分たちで解決できないのか」と問題を軽視していたのだが、その後も次々と他部署で同じ訴えを起こしてくる男性が後を絶たなくてね」

「え…」

「どうやら君の上司である木下君は、他部署から“尻軽女”…失礼。少々軽い女であるといわれているようだ」

「そんな…」



坂崎さんは眉間にしわを寄せ、複雑そうな表情を見せた。



「ざっと数えて十数人ほど」

「じゅっ…」

「それも、別れ方ももちろん不倫をしていた者の自業自得だとは思ったが、すべて相手が既婚者で、全員が離婚をしている…心当たりないか?」

「……あ」


確かに二か月に一回被扶養者の手続きをしている。私が担当した人の中には、つい先日結婚したばかりの人が、たった半年で離婚をするということもあった。当初離婚することがこんなにも主流なのかと木下主任にきいてみたら、笑顔で「そんなもんなのよ」と返されたことがあった。



「あれは…」

「木下君がすべて絡んでいることだ。聞き取り調査を行ったのも、訴えを起こした男性からの希望だけではなく、元奥様からの要望もあったほどだ。「この会社は一体どうなっているんだ!」と、電話で叫ばれたよ」

「このことを知っている人は…?」

「社長は知らない。僕で留めているからね。後は君と、外線を取る庶務課の人達だけだ。庶務課の人たちもすべての内容までは知らないがクレーム関係はすべて僕に回してほしいとお願いしている」

「それで…協力…というのは?」

「そうだね。それが肝心だ」



前菜の皿を下げられる。メインの肉料理が届く。



「正直な話、この話が社長や監査委員…上の役職の人に知られたらかなりまずい状況にはなっている。特に主犯と言っては言い方が悪いが、彼女は人事部にいる。そんな人間が人事の中枢を担っているとわかれば」

「不倫関係で部署全体の信頼を損なう上、癒着の可能性も指摘される…と」

「さすがだね、勘がいい。今までの醜態の期間を考えても人事異動で十分癒着があったと指摘されてもおかしくない。もちろんそんなことはないが、今回ある情報網から木下君と山之内君が関係を持っているのではないかという話が持ち上がってね」

「そ…そんな」

「ちなみに」



メインの肉を、ナイフで切り、肉を一口食べる。



「君は、何か知らないか?」

「…」



本当は、気づいていた。


まさか被害者がこんなにもいるとは思っていなかったものの、部長と主任が関係を持っていることは薄々気づいていた。


居酒屋でこっそり手を握り合っていたことや、酔いすぎてトイレの近くで部長が主任を開放するフリをして人目を盗んではキスをしていたりした場面も目撃してしまった。それを何度も見ている。だけど



「もし…この情報が“正しいもの”だったとしたら」

「どうするかって?それは」

「条件次第です」

「条件?」

「はい」




それでも、私は二人が大好きだ。二人にはお世話になったし、私は二人に幸せになってほしい。



「協力はします。知っていることも話します。ですが、私の要望を聞いていただけないでしょうか?」

「もちろん」



坂崎さんは、興味を持つ視線をわたしに向けた。



「二人が最悪な方向に行かない条件です。どちらか二人を転勤させてください」

「転勤?」

「そうです。あえて二人が不倫をしているという訴えが“あった”と見せかけます」

「ほう」

「そこで、二人に聞いて、肯定・否定関係なくどちらかを転勤させる。そうすれば、二人が同じ過ちをすることが」

「ないとは言い切れない」



坂崎さんは強引に言葉を入れ込んできた。私は息を飲み込んだ。



「仮に転勤をしたとしても、それじゃあ意味がない」

「いや、あります」



私はワイングラスを一気に空けた。



「転勤させることで、二人が会社内で一緒にいることはなくなります。仮に自己都合退職の処分をしたら、余計に疑いをかけられる気がします。同じ環境下にいないという状況を作ることで、単なる転勤に見せかける。被害者は自分たちのことを周囲には言わないと思います。だからこそ、この対策をとったほうが会社にとっても都合がいいと考えられるのです」

「それは、人事職としての勘かな?」

「……はい。最も効率的な解決策、かと」



坂崎さんは、私の表情を見て「くっくっく」と笑い出した。



「面白い。よほど二人を守りたいんだね」

「も…もちろんです」

「でも、その二人がもし君が思ったような結果にならなかったらどうするつもりだい?」

「え…」



最後にデザートが届き、坂崎さんはスプーンで上のクリームをすくう。



「君は、この条件から二人に救済への道をつないだことになる。そのリスクはかなり大きい。離れていても連絡手段はいくらでもある。それに、そのリスクの反動は君に降り注ぐことになるぞ」

「…」

「本当は、このことを打ち明けられているんじゃないのか?」

「…だからこそ、最後に私がリークしたことがわかるようにしてほしいのです」

「…」

「二人には…幸せになってほしい。だから、私がどうなっても、二人には間違った選択をしてほしくない」

「……良い後輩を持ったな」

「ええ。って私が行っちゃだめですよね」

「もちろんだ」



二人で笑う。もちろん話題は笑えない。



でも、自分の自己犠牲論がこの後自分の首を予想以上に締め付けることを私は知らない。それでも、自分が坂崎さんとFAXを送ったふりをするなどの虚偽の打ち合わせをしている時点で、自分を責め始めていることに全く気付いていなかった。






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