壊れかけのエデン
煌
第1話 ヒナタ イン ロストガーデン
…確かに、帰りたくなかったのは事実だ。
勉強しろとうるさい母親、我関せずの父親、不真面目な癖に頭のいい親友、そして自己最低点だった今日返されたテスト。
家には帰りたくなかったし、どこか遠くに行ってしまいたいとも思った。
思ったけれど、まさか本当にこんな、良く分からないおかしな世界に迷いこんでしまうなんて。
…これが僕の望んでいたことなのだとしたら、やっぱり僕は夢みがちな子どものまま、ちっとも変われていなかったみたいだ。
目を覚ますと目の前に化け物がいた。
人の形をした暗い闇の塊。顔は真っ黒で表情が分からない、ただ明らかに人間じゃない。
それが、倒れている僕の顔面に真っ黒い手を突っ込むところだった…って、そこで僕はやっと意識が完全に回復した。
「うあああああバケモンだあ!?」
僕は咄嗟に、その黒い怪物の腹と思われる部分を全力で蹴った。怪物がひるんだ隙に立ち上がり、取るものも取り敢えず全力で駆け出す。
石畳の道をスニーカーで必死に走る。しかし振り返れば、例の化け物は確かに僕を追って来ていた。しかも。
「増えてるぅ!?」
化け物は増殖でもしたかのように増えていた。いや、最初から見えないところに潜んでいたのか。ざっと見て三匹はいる!
「嘘だろふざけんなよ大体なんだよアレ!」
恐怖と興奮でいうことを聞かない足をどうにか動かし、僕はできるだけ細い路地を選んで走る。しかし全然撒けない。最早怖くて振り向けないけど、少しずつ距離を詰められている気配がする!
「こんなに走ったこと運動会でもないぞ!大体僕は頭脳系なんだよ、うああこっち来んな!RPGなんてしばらくやってないんだよーっ!」
自分でも良く分からないことを口から垂れ流しながら、僕はとうとう座り込んだ。
今から思い返すと、頭脳系とか言っておきながら馬鹿すぎる。黙ってどこかに隠れるくらいすれば良かったのに。
結局僕が助かったのは、ただ運が良かったからだ。ここに彼女が現れなかったら、僕も町をさ迷う虚ろな影になっていただろう。
「ジャンカー相手に逃げるのは得策じゃあないわよ?」
目の前で漆黒色の生地がたなびいた。
「え…」
顔は上げれば、そこには漆黒のワンピースを身に纏った女の子。黒髪と黒い衣装の中、長い手足だけが白く闇に映えていた。
「こいつらをどうにかしたいなら」
彼女はジャンカーから庇うように、僕の前に仁王立ちしている。
そして、その革製の黒ブーツで不意に地を蹴った。
「逃げるんじゃなくて――殴ることよ!」
「え」
言葉通り、彼女はその薄い黒手袋を着けた華奢な拳を握りしめて、影のような化け物の顔面に華麗な正拳突きをお見舞いした!
…かと思えば、彼女は振り向きざまにもう一匹の化け物を長い足で容赦なく蹴りつける。
そしてそのままその足を最後の一匹に向けて、容赦のない踵落としを食らわせた。
「ええ…」
いきなり現れた女の子の、あまりにも脳まで筋肉方式のやり方に僕はちょっと引いた。
不思議なことに、その一発だけで化け物は黒い霧のように掻き消えた。
「…嘘だろ、そんなに弱かったのかあいつら…?」
「あら、むしろジャンカーは人より丈夫よ?本気で殴っても大丈夫だし返り血も出ないし、便利な生き物よね」
彼女は僕を見てにこっと笑った。
僕より2、3歳年上だろうか、正直に言ってかなりの美少女だ。勝ち気そうな美人って感じ…でも言動がやばい。なんだ今の危なげな台詞。
「え、えーと…」
僕は言葉に困って辺りを見回した。
暗い空には見たことない数の星が輝いている。
路地の地面は石畳。寄りかかった壁は煉瓦造り。目の前には黒い衣装の女の子…どう見ても、西洋風の顔立ちの。
「どこだここ…日本じゃない…?」
僕の呟きに、女の子はふふ、と笑う。さっきの暴力的行動と裏腹に、至極上品な仕草だった。
「あなた、来たばっかりなのね。ジャンカーに狙われてるってことは、まだジョブなしなんでしょ?」
「は…?」
戸惑う僕に対し、彼女は言い連ねる。
「あなたが一番新しい“来訪者”なのよね?」
「な…何の話だよ…ここどこだよ!?」
「ここは」
彼女は乱れたワンピースの裾を直し、破れた手袋に顔をしかめてから、言った。
「ここはレヴリの街。どこの国でもない、この街だけの世界よ」
「どこの国でもない…世界…?」
「ええ」
女の子は頷いて破れた黒手袋を外すと、僕にその右手を差し出した。
「ほんとに何も分かってないのね。いいわ、新入りの面倒は、先輩である私が優しく見てあげる!」
…まさかこの人、先輩面をしたいだけか。
「私はカレン。よろしくね!」
彼女…カレンさんはそう言って、差し出した右手を更に僕に近づけた。そこでようやく僕は、握手を求められているのだと気づく。
「え、えーと…」
「ん」
早く握りなさいよ、と言うようにカレンさんは口を尖らせる。
…まあ、助けられたわけだし。
「よ…よろしくお願いします、カレンさん」
僕はカレンさんの手を握った。さっき影の化け物を殴ったとは思えないくらい、柔らかい手だった。
「名前は?」
「…ヒナタ。雨笠ヒナタ…です」
本当に、見たこともない街だった。カレンさんの後をついて歩く間、周りを見回してみたけど少しも見覚えがない。西洋風の雰囲気だけど、看板の文字は読めるし、カレンさんの言葉だって分かる。日本語ではないのに、一体どういう仕組みなのだろうか。
そもそも僕はどうやってこの街に来たんだったか。いつも通り、塾が終わって家に向かっていたはずなのに、どうして知らない街にいるんだ?
「あの…カレンさん?」
前を歩くカレンさんに話しかけると、カレンさんは首だけでこっちを向いた。
「なあに?」
「どこに向かってるんですか?」
さっきの路地から出て、街灯が並ぶ大通りの歩道を、僕らは歩いていた。結構大きな街のようだけど、僕らの他には人っ子ひとりいない。
「私たちの家よ。私、ノア兄さんって人と一緒に住んでるの。ヒナタも行くところがないなら一緒に住むといいわ」
つまり住居を提供してくれるってことか。それはありがたいけど、できるなら僕は今すぐにでも帰りたい。
「…僕、帰りたいんですけど」
そう言うと、カレンさんはちょっと意外そうにした。
「帰りたいの?元の世界に?」
「というか…自分の家に」
カレンさんは前に向き直る。シャッターのしまったお店の角を曲がっていく。
「…そっか、そうよね。帰りたいわよね」
道の先は住宅街のようだった。カレンさんは今度は身体ごと翻して、後ろに歩きながら僕に言う。
「でも無理だわ、帰る方法は誰も知らないの。いつか帰れる時まで、この街で暮らしていくしかないのよ」
「いつかって…、そんな曖昧な…!そもそもこの街は何なんだ、一体どこなんです!?」
とりあえず手を取ってしまったものの、帰りかたが分からないのが本当ならカレンさんについて行ったって何の解決にもならないじゃないか。
「そう言われてもヒナタ、このレヴリの街がどこなのか、何なのかなんて聞かれても、私にだって分からないのよ。ただ確かなのは、この世界は私たちがいた世界とは別の場所ってことね」
「…別の世界?」
「ええ。異世界ってやつかしら?まあ、不思議な世界に迷いこんだとでも思っておきなさいな」
異世界って…最近アニメとかで良く聞くやつだろうか。でも、この街は現実世界の西洋の街って感じで、RPGっぽい雰囲気は全くないけどな。
「…さっきのアレは?」
「ああ、ジャンカーのこと?あれは…ううん、なんて言えばいいのかしら」
カレンさんはちょっと思案した。
「管理者さん…この街の支配者みたいな人がいるのだけど、その手先ね。やたら素早いから逃げても駄目よ」
殴るのよ、とカレンさんは笑顔で再び怖いことを言った。
「あれ…ジャンカー?…は、僕をこ、殺そうとしてたのか…?」
「そうでしょうね。仕事を持ってないやつは、不要と判断されて狙われるのよ」
「…はい?仕事?」
「ええ。この世界に来てしまった人…私たちは“来訪者”って呼んでるけど、それがこの街で生きていくにはどうしても仕事が必要よ。でないと、毎夜毎夜ジャンカーに狙われることになるわ」
「仕事って…僕も?」
「そうよ、ヒナタも来訪者だもの」
「僕まだ中学生だけど」
「私だってそうよ?年齢なんて関係ないわ」
う…嘘だろ。仕事がなければ化け物に襲われるとか、なんてニートに優しくない世界なんだ!?しかも子どもでもお構い無しとは!
「何でそんな理不尽なルールが!」
「知らないわ。文句は管理者さんに言って頂戴な」
つまり僕も働かなければならないということで…さもないとアレに追っかけまわされる…?
「というか、じゃあまたいつジャンカーが湧いて出て来ても不思議じゃないんじゃ、…嫌だ、殺されたくないぞ!?」
「あら、ジャンカーに襲われても死にはしないわよ。この街では人は死なないの」
カレンさんは怯える僕を見て面白そうにくすくす笑う。この人絶対性格悪い、僕は真剣に怖がってるんだぞ。
「ジャンカーに襲われたらジャンカーになるのよ。意識も記憶も姿さえもなくして、管理者さんに操られるだけの哀れな影になるの」
そ…
「そんなのもっと嫌だあぁ!」
あはは、とカレンさんは笑った。
「大丈夫よ、モヤシっぽいヒナタに代わって、私がジャンカーを撃退してあげるわ。その代わり…」
モヤシっぽいだと。…事実だけども。
「その代わり…?」
「その代わり、私のことはカレン先輩と呼んで敬うこと!」
…やっぱりこの人ちょっとアホなんじゃないだろうか。
「いいわねヒナタ?」
「あ…はい、えっと……カレン先輩」
カレンさん…カレン先輩が強いのは確かなようだし、言うことは聞いておこう。先輩って呼んでおけばなんか扱いやすそうだし。
「やったぁ、これでヒナタは私の舎弟ね!私の言うこと、なんでも聞くのよ?」
「え」
舎弟!?まさかの舎弟扱い!?
「ジュースでもパンでも、私の言う通り買って来るのよ!」
違ったパシリだった!
………まあ…、いいか。ちょっと偉そうな学校の先輩とでも思っておけば良さそうだ。
「さ、私の舎弟一号ヒナタ。お家に着いたわよ!」
舎弟一号って。変な呼び方をしないでほしい。
カレン先輩が立ち止まったのは、煉瓦造りの一軒家の前だった。僕の家と同じくらいの大きさだけど、年季の入り具合はこっちの方が断然上だ。家というより隠れ家という印象を与える…古いのに加え、鬱蒼と繁った庭の木が窓を隠しているのもその一因だろう。
「ノア兄さんに教えなきゃね、舎弟ゲットよ!」
僕はカレン先輩に腕を引っ張られて、その隠れ家風の“新しいお家”に入っていった。
「ノア兄さーーん!この子家に置いてもいいわよね!?」
そんな猫飼っていい?みたいなノリでリビングのドアを開けたカレン先輩…と、それに引きずられる僕。
…そして。
「は?何言ってるのカレン…」
そう言いつつ、ソファに寝転がっていた男は身を起こした。
上下スウェットというとんでもなくだらしない格好の男である。しかし、格好に反して顔は凄まじく整っている。色の薄い黄金色の髪と瞳が、本当に人間かと思うほど綺麗だ。
…カレン先輩とこの男と一緒の空間にいると、顔面偏差値レベルが高すぎて肩身が狭い。
そんな彼は、いきなり入って来たカレン先輩と僕とを三度くらい見比べると、事態を把握したようで頭を抱えた。
文字通り両手で頭を抱えていた…イケメン度合いに少々むかついていたが、彼はむしろやっと出会えた常識人なのかもしれない。
「ノア兄さん、この子私の舎弟なのよ!舎弟よ!?置いてもいいでしょ!?」
「いいわけないだろ元の場所に返して来なさい」
舎弟に余程憧れていたのかテンションの高いカレン先輩に対し、彼――ノアさんはローすぎるテンションでそんなことを言った。
いや、まあ普通の反応だろう。いきなりよそ者が来て住まわせてくれなんて言われても、そりゃあいいわけはない。
しかしここで追い出されては僕が困る。
「そんなのひどいわノア兄さん。ヒナタはまだジョブなしなのよ、その上温室育ちのひょろひょろモヤシなの。先輩たる私が守ってあげなきゃ、すぐジャンカーにやられちゃうわ!」
カレン先輩はこんな感じでノアさんに抗議する。どうやらカレン先輩の中で、僕は完全に「守るべき弱い者」にカテゴリされているらしい。…いや、その通りなんだけど。正義感を燃やしてくれるのはありがたいんだけど。
「…あのね、カレン」
ノアさんはとうとうソファから立ち上がった。しかし全体像を見ると、ますますスウェットとイケメン顔のちぐはぐ感が凄い。しかし言っていることは至極まともだった。
「うちの家計は俺とお前だけで既に火の車なんだよ。誰のせいか分かってる?誰かさんが折角の依頼で破壊の限りを尽くすせいで、報酬より弁償代の方が大きいからだよね?なのに更にその上頭数を増やそうと?カレンお前、俺の胃に穴を開けるつもり?」
…心中お察しします。カレン先輩のお守りなんだなこの人は。心労が半端なさそうだ。
「ノア兄さんは心配性ね、そうは言いつつも何とか暮らしていけてるじゃない」
カレン先輩はあっけらかんと言い放った。ノアさんの台詞に込められた怒りを露ほども感じていないようだ!
「それは俺が足りない分を副業で賄ってるからなんだよ!俺が…俺がどれだけ必死でやりたくもないことやって働いているか…」
「でも、ヒナタを見捨てるのは可哀想だわ!ヒナタがジャンカーになっちゃっても、ノア兄さんは何とも思わないっていうの!」
「そういう事を言ってるんじゃ…」
「私はそういう事を言ってるの!」
「あの…あの!ちょっと待ってっ!」
このまま激化して行きそうな口論を、僕は決死の思いで止めた。
カレン先輩もノアさんも、口を閉じて僕を見る。
「その…とりあえず、今夜だけ泊めて貰えませんか…?ずっとお世話になるつもりはもちろん、ないので」
ノアさんに向けてそう言ってみる。これで駄目なら、ジャンカーに怯える夜を過ごす覚悟をするしかないだろう。
「………」
ノアさんは見定めるように僕をじろじろ見ると、やがて落ちていた毛布を拾って、再びソファの上で寝転がり始めた。
「ヒナタだっけ?…隣の部屋空いてる。明日になったら本屋さんのとこ行きなよ」
「えっ、…はい!」
つまり隣の部屋を使っていいということだろう。
「上手く機嫌を取ったわねヒナタ!」
カレン先輩はグッと親指を立てる。大声で機嫌を取ったとか言うなよ、絶対聞こえてるぞ。
カレン先輩に案内されて隣の部屋に入る。殺風景だけど、掃除されていてベッドがあるんだから、これ以上望むのは贅沢というものだろう。
壁の時計を見ると、時刻は23時を指していた。壊れているのか、秒針の進みが速くなったり遅くなったりしている。
「困ったことがあったらなんでも言うのよ。あっ、ご飯食べた?まだなら作るわよ」
「いや、塾で食べたから大丈夫。……ちなみに作るってカレン先輩が?」
カレン先輩、料理下手そうな印象があるんだが。
「いえ、ノア兄さんが」
当たり前でしょうという調子でカレン先輩は言う。
ハートが強すぎないかカレン先輩。あんたはさっきの今でそんなこと頼めるのか。
「私シャワーを浴びて来るわね。ヒナタは私の後よ、舎弟なんだから!」
カレン先輩は結っていたリボンを外しつつ出て行った。
…はあ、と僕はため息をつく。
とんでもない事になった。
数時間前までいつも通り、塾の授業の合間に夕飯を食べていたりしたはずなのに。勉強に力を入れ、良い学校に入り、順風満帆な人生を送るべしと育てられた僕には、この世界観は合わなすぎやしないか。
…まあ、そんなに不安かと言われたらそうでもない。カレン先輩の濃い性格に救われたところもあるのだろう。カレン先輩の、恐怖とか不安とかをまるで知らなさそうなあの性格は、見ているこっちもなんだか安心させられる。
時計は気づくと24時を指していた。…そんなに時間が経っていただろうか?
カレン先輩が、もうすぐ上がって来るかもしれない。
壊れかけのエデン 煌 @kira-ma9
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