時間泥棒

つちひさ

第1話 慇懃無礼


 県境の峠へ続く国道から枝分かれした道を抜けると谷あいの集落が現れた。まだ3時半だというのにもう西の山に太陽が触れかかっている。


 その集落の道はずれのふくらみに見るからに商用車の軽自動車が止まっている。その中から半袖シャツの男性が下りてきた。


 首から下がった名札には飯山たけしという名前と帝国安全第三生命という社名が書かれている。


 今から向かう民家には小川を渡らなければいけないが、人が通れるほどの幅しかない。コンクリートの橋は所々剥がれていて、渡るのを躊躇させた。


 家の壁沿いに鍋やら鎌やら錆びくれた金属の塊が散乱している。したたる水の雫をたどって見れば雨どいに草が生えている。


 たけしは誰にも気づかれないようにため息をついた。


「お前のために言ってるんだ。お前、今年に入ってから一回もノルマ達成してないじゃないか。

 ここにいけって。ここなら絶対契約してくれるって、甘いこと言ってる場合じゃないぞ。他はないってば。ずる賢さも必要だぞ。

 脅せっていってるんじゃない。ただ我慢してじじばばの話を聞いてやれって言ってるんだ。

 まっ、それが試練だがな。」


 最近めっきり老けた部長は自分がさんざんカモにしてきた老夫婦を紹介してきた。もう何度も部長が契約をさせたり解約させたりしてきた相手だ。後ろめたくないはずがない。


 その事を部長に言うと烈火のごとく言い返された。コンプライアンスがと言いそうになったが余計怒らせそうで止めた。上の世代の理屈を覆すほどの理論をたけしは持っていなかったのだ。


 とにかく腹をくくってとにかく契約をとって来なければと思うたびにお腹が痛みだした。


 雑然と植木鉢が置かれた玄関の前に立ち、電灯のスイッチのような呼び鈴を鳴らした。二度、三度、四度めでやっと中から声がした。


「開いとりますばい。」


 確かに、戸は鍵はかかっていない。


「ごめん下さい。お電話差し上げた帝国安全第三生命の飯山です。」


「上がって下さい。」


 蚊の鳴くような声で居間から声がする。お土産物が支配する玄関に上がり居間にはいると、そこは新聞紙とよくわからない健康器具に支配されていた。


 「は、はじめまして飯山です。今日は火災保険の見直しと積立保険のご説明にあがりました。」


 「はぁ。」


 間の抜けた返事にたけしは胸が締め付けられそうになった。この健康器具もきっとろくな説明もうけずに買わされたのだろう。


 現に自分も生命保険や医療保険はとおの昔に先輩が契約したのでもう、見直しか積立しかない。


 「そ、それではですね"安心火災保険まもる"の方から説明させて頂きます。まず、」


 「はぁ、"おまる"てですか、よう聴こえんとですたい。」


 「あれ、また補聴器の電気ばきっとらす。あんた、補聴器て。」


 「そげな、太か声ばださんちゃきこゆっとたい。」


 台所から戻ってきた老婆はお茶が置かれたお盆ごと体を傾けるのでお茶が少しこぼれてしまった。老翁はその横でごそごそと補聴器をいじっている。


 「えーと、現状ではですね、火事が起きたとき家や家具の保証しかありません。」


 「ふぁ、"おしょう"てですか。」


 「あんた、ボリュームのダイアルばゼロにしとるばいて。」


 「あれ。」


 もはや、コミュニケーションは成り立たないと悟ったたけしは歯切れの悪い語尾をなくりかえしながらも返事を待たずに喋り始めた。途中、しばらくため息のような返事を繰り返していた老翁が口を開いた。


 「わたしゃ、学のなかけん保険屋さんの言わすことがようわかりましぇん。ハンコば渡しますけん。全部突いとってください。

 書くとも全部おまかせします。なんもかんもよかごてしとって下さい。」


「ばさん、ハンコはどこや。」


「テレビん下にあろうたいて。」


 老翁は、そう言うとテレビの下に置いてあった箱をごそごそとまさぐると通帳と印鑑を机の上に置いた。


「あっ、あの、なんもかんもって、加入するコースも、ですか。」


「はぁ、そげんですたいな。」


「いや、その、お名前を直接書いて頂く箇所もございまして、その。」


「ふぁ、"いしょ"てですか。」


 たけしは、ごくりと生唾を飲み込んだ。さすがにここまでは聞いてない。


「いや、その、掛け金のことも…。」


「お金なら少々蓄えがありましゅけん。なんとかなりまっしょ。前原さんには一番よか保険ばかけてもらってからありがたかとですよ。また、お願いせないけん。」


 なるほど、あの部長なら全部高いコースにする事ぐらいやりかねない。覚悟を決めろという部長の罵声が頭のなかで繰り返し響いた。


「で、では、私がす、進めさせていただきます。」

 

 結局、上から二番目のコースに設定した。一応、ハンコを押す度に口頭で確認したが、もはや返事すら曖昧だった。そして書類をカバンに入れると老夫婦に向き直った。


「保険屋さんはおいくつですか。」


「はっ、三十五です。」 


「ふぉーそげんですか。所帯はもっととですか。」  


「しょたい…あっ、あはい、結婚して子供が一人います。」


契約の時は気の抜けた返事しかしなかった急に老翁が会話を求めてきた。


「今が一番馬力んでるときですたい。よかですなぁー。私が若っか時分はですな、まだ機械もなんもなかったですもんな、だいけん荷ば積むとも全部人力やったですもんな。」


「はー、大変なお仕事ですねー。今はフォークリフトですもんねー。積み荷のお仕事をされていたんですか。」


「うんにゃ、わたしゃ運転手ですたい。その時分な運転免許ばもっとるもんな少なかったですもんな。そこん国道はまだ舗装もしとらん砂利道ですたい。」


「はー、運転手さんですかー。そのころのトラックは今のトラックと違って操作しにくったんじゃないですか。」


「うんにゃ、わたしゃオート三輪で物売りばしとりました。」


 老翁はまるで会話するつもりはなく独語を吐いているのかと思うほど話しはとりとめがなく、視点は宙をういている。


 三十分、一時間とすぎてもまだ、話は終わりそうにない。というよりも話に起点も終点もないのだ。聞こえるはずのないクォーツの針の音が聞こえ、何度、腕時計を見ても時間ぎ一向に進まない。


「あのー、そろそろ。」


「あれ、もうこげな時間ですたい。ま、ま、ま、すんまっしぇんな。

 ばってんな、鉄で思い出したばってんが、鉄板な昔の方が厚かったけんですな、ちょっとやそっとじゃ穴ん開かんかったですもんな。」


 トラックの荷台の鉄板の厚さなど自分が聞いてどうするんだろうか、たけしはそう思いつつ浮いていた腰を落とした。


 何回も腰を浮かしては沈め、浮かしては沈めた。外はもう真っ暗になり、家庭に帰らなければと言う話をしてやっと解放された。ただ、不必要なものを売り付けた罪悪感は少しやわらいだ。





 次の日、会社に行くとまず始めに部長のところにいった。しかし、まだ出勤していなかった。たしかにまだ始業時間にはなっていないが、それは部長にしては珍しいことだった。


 部長は自分のことを猛烈社員と呼ぶ。たけしは、猛烈社員と自分のことを呼ぶ人間にはじめて出会った。自分が新入社員だった頃にはもう使う人もいなかっただろうに、猛烈社員と言う言葉を使うことでノスタルジーに浸るのだろうか、たけしには理解しがたかった。


 「おい、飯山、前原部長からなにも聞いてないか。このままじゃ無断欠勤だよ。信じられるか。」


 10時になるかならないかその頃に、たけしは同僚から声を掛けられた。たしかに、まだ出勤してきていない。

 結局、昼を過ぎても部長は現れなかった。


 「おい、飯山、心当たりないか。」


 さっきと同じ同僚がまた声を掛けてきた。影では部長の文句しか言わないやつがこういう時に限って触れ回っている。心配している自分に酔っているのだ。


 「んー、ないことはないが、まだ来ないって決まったわけじゃ。」


 「いや、それが連絡もつかんのだそうだ。」


 その時、デスクの電話が鳴りたけしが出た。


 「もし、もし、あの、木鳴谷の山下ですが。」  


 声の主は昨日の老翁だった。


 「あっ、お世話になっております。帝国安全第三生命の飯山です。さくじつ、はお世話になりました。

 山下さん、なにかございましたか。」


 「え、あはい、えーとですな、家内は一度ガンの手術ばしとりましてな、そいばってん、なんか最近なよか保険のあるて飯川さんの言いよったでしょがな。今日でん明日でん、どげんですかな。」


「え、新規ですか。それならば、明日の夕方はいかがでしょうか。」


「ええ、そげんしちください。」


 昨日の今日でまた契約を結ぼうとするのか、不動産かなにか不労所得があるのか、もしくは認知症か、ともかく相手が欲しいと言っているのだ少なくとも押し売りではない。たけしは少しずつだが罪悪感がなくなっていった。


 次の日、部長は社用車ごと失踪した。と思われると言う話だ。会社はもちろん家にも現れていない。会社は朝から大変な騒ぎだ。


 全員少なからず部長の不満を口にしていたのに口々に心配と言う文字を口にしている。大根役者ばかりである。


 いくつか外回りを終えてつぎはあの老翁のところにいくばかりになった。ふと時計を見るとまだ大分早い。どこかに寄るのもいいが最近は車にGPSがついている。あまり、変なところには行けない。結局、老翁の家の近くまで行き車中で動画を見ることにした。


 どこか車を停めるのにいい場所はないか探していると白い商用車とすれ違った。一瞬、違和感を感じたたけしはドライバーを見てみた。どことなく部長に似ている。とっさにバックミラーでナンバーを見たが前の52という文字しか確認できなかった。


 まさか、部長なのか、停めた車の中でたけしはハンドルを握ったまま動けなかった。であるならどこから来たのか、この先には老翁の家かある。いや、まさか。


 今起きたことを、会社に報告すべきだろうか、いやそれなら事細かに聞かれるに決まっている。それは、まずい。それに、ナンバーもうろ覚えだ違うかもしれない。


 まずは、老翁のところに行かなければならない。報告はそれからだ。  


 「ごめんください。帝国安全第三生命の飯山です。」


たけしはもう呼び鈴は鳴らさず戸を開けた。居間を覗くと老夫婦が一昨日とまったく変わらない位置に座っていた。

 

 「すいましぇんな、お呼び立てして。」


 「いえいえ、そんなそんな、お気にならさらずに、それでは商品の説明ですが…」


 「はい、飯山さんに選んでもろてよかです。一番よかとにしちください。」


 「では、こちらの…」


 たけしはパンフレットを出すのと同時にペンを握っていた。もう、確認を取ることなく書き進めると躊躇なく印鑑を捺印していった。


 一通り書き終わると老夫婦のほうに向き直り白い包装紙をだした。


 「あの、これ正文堂の栗饅頭です。よかったらお茶うけにと思いまして。」


 「ままま、気ばつかわせてすいまっしぇんな、いまお茶ば持ってきますけん。」


 老婆が居間のテーブルに手をつくとゆっくりと立ち上がった。


 「正文堂といえばですな、家内の兄さんの弟の嫁さんのでですもんな。そん嫁さんがなーんも家んこつはせんてはなしですな、味噌汁も作らんとてですたい。」


 「はー、それは大変ですね、奥様のご兄弟のお嫁さんなら色々と影響がありそうですもんね。」


 「うんにゃ、家内の義理の兄さんですたいな、だいけんそん嫁さんにも会うたことはありましぇんとたい。」


 傾聴ボランティアだなとたけしは思った。しかし、契約をもらっているのだからボランティアではない。それにしても血のつながらない遠い親戚の話をあくびもせずに聞くのはなかなか難しそうだった。


 ニ時間がたち、三回腰を浮かして沈めてたけしは本格的に離脱する交渉に入った。


「えーと、そろそろ、家庭の方が。ケガの掛け捨ての件はまた資料をもってきますので。」


 「えーえー、すいませぇんな、あんまり気にせんでください。今、ケガの保険な前原さんにも話ばしよりますけんな、えらいなごう引き留めてからすいませぇんな。」


 「いえ、いえ、それでは。」


 たけしは足がまだ痺れているにもかかわらず靴を履いた。とにかくこのタイミングを逃してはならない。そそくさと玄関を出て車に乗った。そしてハンドルを握るやいなや悪態をついた。


 「ったく、暇もて余した老人の相手かよ、たまんねーな。部長のカモのくせに。」


 しばらく車を走らせて、はっと気がついた。部長のカモ、だったはずだ。なにかが違う。なにかが合わない。


 その時たけしの頭のなかで老翁の声が響いた。『また、お願いせないけん。』『前原さんにも話ば、』

そう言った、たしかにそう言った。


 なぜ部長の話が現在進行形なのか、部長はここに来ているのか。たけしは車をコンビニにとめ、同僚に電話をかけた。


 「あっ、どうもお疲れ様です。飯山です。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、部長の営業車のナンバーなんだけど、わかる。」


 「えっ、飯山さん、今さらですか。っていうか飯山さんも乗るでしょ、たまに。」


 「いや、いちいち覚えてないよ。あっおっきい数字のとこだけでいいよ。」


 「おっきい数字って。ちょっと待ってくださいね。えーと、えの五、ニ、四、六ですね。

 もしもし、飯山さん。聞こえてますか。」


 昨日すれ違った車のナンバーと合致する。我に返ったたけしは曖昧な返事をして電話を切った。


 おかしい、なにかがおかしい、なぜあんにも保険を次から次に契約するのか、しかも、自分からも部長からも契約しようとする。おかしい、絶対におかしい。


 たけしは顔を洗おうとコンビニのトイレに入った。蛇口を押そうと鏡の前に立つと自分の頭に釘付けになった。白髪が増えている。まったく無いわけではなかったが、明らかに白い筋が何本も頭に走っているのだ。心なしか顔も老けたようにみえる。


 あわてて、車に戻るとキーを回し発車させた。あまりにあわてていたので車道に出るときに対向車にブレーキを踏ませてしまった。


 国道を猛スピードでもどり、古びた集落に入り山道を走った。いつもの路肩に車を停め、勢い良くドアを締め、ボロボロの橋を渡り、玄関の前に来たところで我に返った。


 会社に連絡した方がよかったかもしれない。同僚と来た方がよかったかもしれない。それもだが、もし、なにもなかったら老翁は腹をたてるかもしれない。そう考えて何もできずにいると中から声がした。


 「どなたですか。」


 その明瞭な声に思わず返事をした。


 「夜分遅く申し訳ありません。帝国安全第三生命の飯山です。」


 「あれ、飯山さん、あれあれ、上がってください。」


 たけしは喉の乾きを感じた。なにか飲み物を買ってきたらよかった。ふいにそう思った。


 居間のテーブルの前に座ると、老婆がお茶を出してきた。それを見ないふりをしてたけしは聞いた。


 「あの、うちの前原が連絡が取れなくなっているのですがなにかご存知ありませんか。」


 「あれ。前原さんがでですか。そりゃ大変ばい。いやー、わたしゃ心当たりがありませんな。な、婆さん。」


 「はい、担当も変わったことですしね。」


 老婆の妙に丁寧な言葉遣いが逆に疑念を深めた。


 「気を悪くしないでくださいね。ただ、ちょっと気になることが、前にお話ししたときに、『また』前原にお願いしようとか、前原『にも』話しをと、」


 「チッ。」





 下品にも口を鳴らしたのは老翁だった。いや、さっきまでの老翁ではない。笑い皺が刻まれた目尻はキリキリと上がっていき涼やかな切れ目が現れ、垂れ下がった頬はシャープな顎の線に変わった。髪も目も鼻も口も一瞬でに変化し、老翁は別人になった。


 人はひどく驚くと騒ぎだすか動けなくなるかどちらかだが、たけしは後者だった。口を半開きにして、声にならない声を発している。


 「案外、鋭いじゃないか、係長さん。いや、課長補佐だっけ。」


 「チーフよ。」


 隣にいた老婆は若い女性に変わっていた。透き通るような肌に感情を宿さない瞳は冷え冷えとした雰囲気を纏っている。


 「あっ、あっ、あなたたちは…ぶ、ぶ、部長はどこですか。」


 胸を打つ心臓の鼓動がたけしの体の中で響いている。相手に聞こえないか心配になる。手が震え冷や汗が脇元を濡らす。これが現実なのかどうなのか、目の前にいる二人が人間なのか、何もかも疑わしい。


 「愛しの部長さんならその奥さ。飯山チーフ。」


 「お、奥というと。」


 「気がきかない、本当に気がきかない。君はここに来た営業マンの中で一番気がきかない。」


 そう言いながら切れ目の男はテーブルの横の襖を開けた。


 「あっ、あっ、あひー。」


 そこに布団の上に横たわった部長がいた。いや、部長らしき人がいた。もう、頭は禿げ落ち残った髪の毛も真っ白だ。顔も皺だらけの老人だ。


 たけしは部長らしき人の近くに寄ると顔を確認した。どことなく面影はあるような気はしたがしわくちゃ過ぎてわからない。だが、着ているシャツには見覚えがあった。


 「部長、部長、だ、大丈夫ですか。な、何をしたんだ、あなたたち、何をしたんだ。こ、殺したのか。」


 『殺した』という言葉にたけし自身が驚いた。しかし、このままだと自分も部長のようにされるかもしれない。『殺した』という自分自身の声でそれを自覚した。


 「殺しちゃいないよ、まあ、落ち着けよチーフ。ただちょっとだけ、彼の時間を頂いたのさ。」


 「じ、時間。」


 「俺たちと同じ場所で過ごしたら、それよりもちょっとだけ多く時間を頂くのさ。

 部長さんはたくさんの時間を俺たちと過ごした。だからもうなくりそうだ。案外、長生きなほうでびっくりしたけどね。

 人の人生はわからないもんさ、長生きしそうだって踏んでおびき寄せたらあっけなく終わったり。」


 「時間泥棒!」


 たけしの声がくたびれた居間にこだました。切れ目の男がたけしに近寄って胸ぐらを掴んだ。中性的な華奢な手のどこにこんな力があるのだろう、息苦しくなるぐらいにたけしのシャツを握っている。


 「人聞きの悪いことを言うんじゃないよ。じゃあ、お前たちはなんなんだよ。

 え、じゃあ、自分たちは何をしたんだ。ボケかかったじじいに次から次に契約させて、ヘラヘラ慇懃無礼な態度ですり寄ってきて、しまいにゃ署名捺印お前がしただろ。いいのかよ、犯罪じゃないか。」


 「あ、あれは、あんたがしろって。」


 「ふん、しないやつはしないのさ、しないやつはいくらカモになりそうでも、距離をおいてくるものさ。どう考えてもヤバイだろ。

 いいリトマス紙なんだよあれは、あそこで自分で署名捺印するやつは何度でも来るし、何時間でもいる。下心ありありさ。

 大抵、あんたみたいにおどおどしながら流されるやつか、そこのなんとか部長さんみたいに自信過剰に押し付けて来るやつか、罪悪感を感じてるか感じてないかなんて関係ない。

 結局、そんなものはいつかなくなるのさ。あんただって一昨日と今日の態度は全然違ったぜ。」


 「喋りすぎよ。」


 隣に立った女が冷めた声をだした。


 「まっ、忘れるんだな。いけよ、全部忘れて今までどおり、しがない営業マンを続けるんだな。

 ふん、時間泥棒か、屋号にするならなかなかいいな。次にやる店で使わせてもらうとするか。」


 切れ目の男はたけしの胸ぐらを掴んだ手を放した。すると畳に叩きつけられたたけしが叫んだ。


 「返せ!時間を返せ!」


 「ふん、馬鹿かお前は食っちまった食い物を吐き出すやつがどこにいる。部長さんは当分このままさ。」


 「違う!俺のだ!俺の時間を返せ!」


 「あきれた!」


 切れ目の男は細い目をいっぱいに見開き声をあげた。


 「ふん、多少白髪が入ったほうが落ち着いて見えるぜ。」


 「返してあげなさい。」


 あきれた顔をした女がそう言うと切れ目の男は不服そうに口角をひきつらせた。


 切れ目の男は台の上に丁寧においてあった丸い鏡を持ち出してぶつぶつなにかを唱え始めた。すると鏡面が光りだした。すうっと男が鏡の中に腕をいれた。


 「ほらよ。」


 男が鏡面の中からビー玉のようなものを取り出し畳の上に投げた。


 「ふぇ。」


 たけしが拾おうとした瞬間、切れ目の男がその玉を踏み潰した。


 「これで、あんたの時間は元に戻った。さあ、行け。行けよ。」


 そう突然言わはれても信じていいのか、そもそもこれが現実なのか、たけしは口を半開きにして目を泳がせていた。


 「早く行け!このおっさんみたいになりたいのか!」


 もういい、これ以上いたら本当に殺されるかもしれない。早くこの場から離れよう。たけしは大急ぎで玄関までいき靴を突っ掛けた。途中、片方が抜けたので手に持って車まで行った。


 キーを回し、Uターンする間さえもどかしい。猛スピードで山道を下ったが対向車がいなかったのが不幸中の幸いだった。


 それから、家までの道のりはあまり覚えていない。ただ、車をぶつけずに帰れたのは確かなようだ。家に帰りつきまず洗面台に向かった。切れ目の男が言った通り髪の毛は元に戻っていた。


 「ふう。」


 たけしは風呂からでて、第三のビールを飲み干すと。食卓に座った。今日あったことを誰にも喋るつもりもない。話したところで誰も相手にしないだろう。


 忘れよう、こういうことは忘れるに限る。部長は自業自得だ。


 プシュ


 「ちょっと、ニ本目でしょ。それ。」


 「いいの、今日は大変だったんだから。なあ、それより聞いてくれよ。今日さー。」


でも、少しぐらいならいいだろう。

 

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