少年時代 2014-01-06

 こんばんわ、今日は一日休みでした。


 携帯を解約に行ったんですけど、機種代がまだ4万円も残ってるって言われて割賦払いにしてもらいました。解約金1万円払うのはペナルティだし、こないだポケットWi-Fiとemobileのネクサスフォンを契約した時も解約金は1万円ずつだし、初売りで3万円引いてもらってパソコンを買ったけど、他に掛かる値段を考えたら大した割引じゃなかったなぁなんて残念な気持ちでいます。



 この年であれなんですけど、携帯代は母に払ってもらってて、解約金1万と機種代4万円の計5万円が一括じゃないけど、引かれるって聞いたら怒られそうで…



 今、私の口座には10万円入ってて、その5万ともう一つ、5万円の支払いがあって全部清算すると、お金すっからかんになってしまいます。


 5日に給料が5万9千円入って、これですから、やっぱり金がないですね。


 お金さえあれば、お金さえあればっていつも考えちゃいます。心が貧しいんですね。


 でも、夢も希望も情熱も失った私は、いつもそんなことばかり考えてしまうんです。


 やっぱり貧しいですね。



 さて、北海道で1年を暮らし、また引っ越すことになった私たち家族はその後(ご)5年半を気仙沼という宮城県最北の港町で暮らすことになります。


 私に限って言えば、小学校6年間を1年生の途中から過ごすことになるんです。


 気仙沼での暮らしはとても窮屈(きゅうくつ)なものでした。


 他人の家に居候(いそうろう)してる感じというのでしょうか。いつも祖父母の目を気にしながら、祖父母のペースに合わせて、食べる時間から風呂の時間まで決まってる。


 そんな生活でした。食生活も祖父母に合わせるので、柔らかいごはんに魚中心のおかず、よくほうれん草のおひたしと秋刀魚(さんま)が食卓にのぼりました。


 まぁ今考えれば、ヘルシーで健康にはとても良い食生活でしたが、鍋をつつくとか、すき焼きとか、焼うどんとか、お好み焼きとか、子供が好きなメニューって言うんでしょうか、あまり食べれなかったですね。


 食事っていうのは、一日のうちで楽しみな時間だったはずなんですけど粗相(そそう)のないように、さっさと食べて済ますっていう味気ない時間に変わってしまいました。



 それまでのアパート生活ではなくて、一軒家に住むことになったんで最初のうちは「大きな家に住めるー。」って私は喜んでたのですが、歯磨きをしてる兄や姉に聞いたところ、お爺ちゃん嫌いだよ。お婆ちゃんも嫌いだよって話を聞いてから、じゃあ、私もって感じで距離を置くようになりました。


 父が居ない手前、母も居場所がないようで働きに出てしまいましたし、学校が終わって一番先に家に帰るのは低学年の私でただいまも言えず、おかえりも言われず、家に着いたら逃げるように2階に上がり、兄や姉の帰りを待つようになりました。


 母が働きに出る代わりに私が欲しがってた当時出たばかりのスーパーファミコンを、家に帰ると一人でやってました。


 兄が帰ってくると一緒に遊んで夕飯までは間が持つのですがそれまでは、一人でマリオとかストⅡとかやってました。小学校1、2年生の頃はそんな感じでした。


 特に勉強ができるわけでもなかったし、転校生ってこともあって結構注目されて馴染(なじ)むのに少し時間はかかったけど、小学校では結構ドッジボールとかに夢中でT2君と張り合って、小さい体目一杯(めいっぱい)使って遊んでました。


 3が可愛いなとか外の世界では幼稚園時代と変わらず、屈託(くったく)なく明朗で明るかったと思います。


 T3ちゃんと一緒に3家に遊びに行って虎の皮で寝転んだりトトロを一緒に見たり、3のお母さん美人だなぁなんて思ったり、そんなこともありました。


 近所では家に帰る方向がR君やN2君と一緒で野山を駆け回って遊んでました。


 4や5とも仲良くなって遊びに行ったこともありました。


 4とは三角公園で遊んで、5家にはみんなで遊びに行きました。


 かくれんぼの鬼になったんですけど、誰一人見つけられなくて、一人で帰るのが悲しかったのを覚えてます。


 でも途中でみんな気づいて集まってくれて、帰るのを一緒に見送ってくれたんですね。


 でも家に友達を呼ぶことはできませんでした。学校から遠かったっていうのもありますが、祖父母が嫌がったんです。家に入るのに挨拶もしないのかと厳しく諌(いさ)められました。


 母もそれとなく私たちに言い聞かせ、家に友達を呼ぶということはありませんでしたね。


 この頃の性格としては少し勝ち気で気の強いとこがあるっていうか、癇癪(かんしゃく)持ちにもなりましたし、対人関係としてマイナスな面も持ち上がり始めました。有無を言わさず、怒らせたらいけない人というようなイメージも周りに与えることもあったと思います。



 それと、もう一つ書いておきたいことは習い事についてです。


 名古屋時代に話は戻りますが、ヤマハ音楽教室に通ってました。


 これはうちの兄弟3人共に共通する習い事で母が子供にさせてあげたかった事だと大きくなってから聞きました。うちの家庭では何も強制されることのない放任主義な教育方針で、子供がやりたいと思ったことはさせてあげようっていうのが父母共通の認識だったようです。


 しかしこの音楽教室だけは例外で母がやらせた習い事でした。


 姉は途中からエレクトーンからピアノに変わり、兄はエレクトーンからギターに変わりました。


 アンプの音がうるさいと、家で弾くことに難癖(なんくせ)をつけられながらも兄はその後もギターを手放すことはついになく、上京して今は音楽の講師としてギターを教えてます。


 まぁ雇われてではなく、ビジネスプランとして自営してやってることです。


 私もすぐに音楽教室は辞めましたが、音楽の敷居(しきい)が低くなったことで、その後も音楽は好きなままでした。1度エレクトーンの発表会に出ただけで、北海道で辞める事になりました。


 私の場合、いつも教室に通うのが女の子だらけなのが嫌で、先生の話も碌(ろく)に聞かずジブリのラピュタの音楽を鍵盤(けんばん)で伝うようなお遊びでしかなかったのです。


 その後、気仙沼に越してからはスイミングを始めました。これは自分でやりたいと言ったからです。


 音楽教室を辞めたのもスイミングを始めたのもなんとなくで母にそう言ったのです。


 一度プールでおしっこしてしまったこともあったし、ノーブレクロール25mがとにかく苦しくてスイミングキャップの色もシールもなかなか変わらず、帰りにセブンティーンアイスのチョコミントを食べるのが楽しみでした。



 まぁ小学校の低学年の思い出というか、覚えてることはこれくらいですね。


 もう少し詳細に書くこともできなくもないですが、今日はこれくらいで…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る