第88話 離別

 押し寄せる死霊の中、ミハイルさんに手を引かれ部屋を飛び出してから、どこをどう走ったのかもよくわからない。気が付けばフェオドラさんやレナートとははぐれてしまっていた。


「――リエーフ! リエーフ、しっかりしろ!」


 ようやく死霊たちを振り切って切れた息を整えていると、悲痛なミハイルさんの声が耳に飛び込んできた。そうだ、リエーフさんはミハイルさんを庇って、怪我を。

 

「リエーフさん!!」


 リエーフさんの白い顔は血で汚れていて、ぐったりしている。血の気が引いた。そんなに傷が深かったなんて。

 取りすがって呼ぶと、リエーフさんはうっすらと目を開けた。深紅の瞳がすっかり色を失って翳って見える。


「……ご主人様、ミオ様……申し訳ございません。お二人の盾になるはずのこのわたくしが……一瞬でもお二人に背いたこと、どうかお許し下さい……」


 今まで聞いたことのない弱々しい声に、鞄から取り出した包帯が私の手から転がり落ちた。それを掴もうとするのに、震えてうまくいかない。


「盾になれなどと誰が言った! 俺は死ぬなと言ったんだ!」

「そうですね……最後の最後で主命に背き、面目次第も――」

「ふざけるな! お前はいつだって、俺の言うことなんて何一つ聞かないじゃないか!!」


 リエーフさんの言葉が終わらないうちに、ミハイルさんが怒鳴りつける。まるで子供みたいに、感情的に。


 みんなおかしい。


 リエーフさんはいつだって、どんなに緊迫した状況だって、呆れるくらいマイペースで。

 ミハイルさんだって、リエーフさんに声を荒げることはあっても、こんな風に取り乱したりしなかったのに。

 

「ミオ様、どうかご主人様のこと……宜しくお願いします」

「な、何言ってるんですか……? さっきからリエーフさん変ですよ。そんな、お別れみたいな言い方やめてください!」


 はいと、答えるべきだったのかもしれないけど、とても……、とてもそんな冷静になんてなれなくて。

 首を横に振る私を見、優しく笑って……リエーフさんは目を伏せた。


「…………お二人の晴れ姿、一目見とうございました…………」


 がくりと、リエーフさんの体から力が抜ける。

 全身からフッと重力が消えたみたいな虚脱感。それに逆らい、他人のように重い腕を持ち上げて、愕然とするミハイルさんの襟元を掴む。


「ミハイルさん! アラムさんを、アラムさんを呼んで下さい!! まだ……まだ助かるかもしれません!!」


 虚ろだったミハイルさんの瞳が、私に焦点を定める。もっと早くそうするべきだったのに、ミハイルさんですら気が付かなかったなんて、私以上に動揺していたに違いない。


『来い、アラム!!』


 声に応えて姿を現したアラムさんは、ミハイルさんを見て一瞬ぽかんとした顔をした。幸いすぐに状況を把握してくれたようで、固い表情でリエーフさんの傍に膝をつく。そして手際よく上着を脱がせ、冷静に傷を診て、淡々と告げる。


「落ち着いて聞いて下さいよ、ご当主――」


 返事をする余裕もない私たちに、アラムさんが顔も上げずに続けたその先は。




「――命に別状はありません」




 へっ、と。

 間抜けな声が出た。

 私と同じくらい、きょとんとした顔をしたミハイルさんが――



 一転凄まじい顔をしてリエーフさんの首を絞め上げ始めた。



「…………ッこッッッのクソ執事がァァ!!! 千年も生きててやっていいことと悪いことの区別がつかんのか!!」

「ぐっ、ぐえッ!? お、おやめ下さい坊ちゃん! ぼ、本当ぼんどうんでじまいばずッッ!!」

「だから落ち着けって言ったのに。気持ちはわかるけど、死んでないだけで軽傷ってわけじゃないから」


 アラムさんが私の鞄から救急箱を出し、呆然とする私の手から包帯を取って、ぼやきながらリエーフさんの処置を始める。


「い、いだだだ……、わ、わざと手荒くしてませんか、アラム?」

「良かったじゃないか痛みを感じる体になって。羨ましい限りだね。じゃ、手当はしたからぼくはこれで」


 きっちり巻かれた包帯をベシッと叩いて、アラムさんが姿を消す。その頃には私もようやく、ミハイルさんと共にリエーフさんを睨むくらいの余裕は取り戻していて。


「な、なんですかミオ様まで……、いや、誤解です。ほんとに死んだかと思ったんですよ。なにしろずっと痛覚がなかったので程度がわからずですね」

「ふざけるな、絶対にわざとだろう!」

「本当に申し訳ありません。まさか泣く程とは」

「誰がッ」


 リエーフさんが体を起こし、どこからともなく白いハンカチを取り出してミハイルさんに差し出す。少し血で汚れたそれを、ミハイルさんは顔を背けて勢いよく叩き落とした。それでもリエーフさんはニコニコしている。


「てっきり……嫌われていると思っていたので、そんなに喜んで頂けるとは思いませんでした」

「は? たった今心底ドン引きしたが!?」


 絞め殺されそうになりながらも、リエーフさんはとても嬉しそうに、落ちたハンカチを拾って目頭に当てている。

 わざとじゃないにしたって……本当に人騒がせだ。呆れるにも程がある。私だって一つ二つではない苦言が喉元まで出てきて、それをぶつけてやろうと口を開いたけれど。


「ふ、ふふ……あはは……」


 実際に出てきたのは、笑い声だった。

 それを聞きつけた二人がピタリと動きを止め、ミハイルさんはリエーフさんから手を離すと、笑う私の目元を拭った。


「……無駄にミオを泣かせたな」

「それにつきましては、帰りましたら如何なる罰でも。しかし……一体何がどうなっているんでしょうね?」

「そんなこと俺が聞きたい」


 溜め息と共にミハイルさんがこぼす。だけどすぐに彼は険しい顔を上げた。


「だが、やることははっきりした。俺はあいつを倒さねばならん」

「坊ちゃん……」

「止めるなよ。あの力は……表に出すものじゃないだろう」

「わたくしが案じているのは旦那様ではなく、貴方ですよ。こんなことになるならば、あのときわたくしは、自分ではなく……旦那様を……」

「そうすれば俺はここにはいないな」


 ふっとミハイルさんは笑った。だがすぐにそれを消して、改まった声を上げる。


「……頼む、リエーフ。ミオを帝都から逃がしてくれ」


 聞こえた言葉が一瞬理解できなかった。リエーフさんもまたすぐに返事をしなかった。


「……え?」

「皇帝を倒せば、無事に帝都は出られんだろう。だから契約は破棄だ。こんなことで、どれほどお前を守れるかはわからんが……」


 ミハイルさんが私の左手に手を伸ばす。とっさに身を捻ってそれを避けるも、何かが床に落ちる音が耳に届く。

 ――私の手から、勝手に指輪が抜け落ちていた。

 落ちた指輪を拾って、ミハイルさんがこちらを見ないまま呟く。


「最後まで振り回してすまない。今度こそ……忘れてくれ」

「ミハ――――」

「エドアルト」


 私の声を遮って、ミハイルさんが右手をかざす。現れたエドアルトが小首を傾げながら私たちを交互に見た。


「俺が維持できるギリギリまで、ミオとリエーフを助けてやってくれ」

「う、うん」

「頼む」


 エドアルトが戸惑いながらもうなずくのを見ると、ミハイルさんはそのまま扉の向こうに姿を消した。

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