第20-3話 執事のいない日
その夜、私は物悲しく鳴くお腹を押さえていた。
朝を食べて以来リエーフさんを見かけないとは思っていたけど、夕方になっても彼は姿を見せなかった。そろそろいい匂いがしてくるはずのキッチンには誰もいない。
……お腹が空いた。
ここに来てから、毎日定刻にリエーフさんのおいしい食事にありつけていた私のお腹は、いつもどおり定刻には空腹を訴えていた。だけどお昼も食べてないのに、そろそろ夜だ。
私の意図に関わらず、きゅうきゅう鳴くお腹を押さえてキッチンで途方に暮れていると、ふと人の気配を感じる。
「……リエーフを見ていないか」
振り向くと、キッチンを覗き込んだミハイルさんと目が合う。そして彼は、私がしようとした質問を先に口にした。
「いえ。私もさっきから探しているんですが」
「そうか……」
多分、用件は私と同じだと思うのだけど。それを確認する前に、きゅう、とまたお腹が鳴った。
……薄暗くてよかった、顔が赤いのがバレずにすむ。でも顔はごまかせてもお腹の音はごまかせない。
「あいつ、お前の食事も用意してないのか」
「昼前からずっと姿を見てません。何か知ってるんですか?」
「いや、まあ……すまん。俺がやつの機嫌を損ねたかもしれん」
皮手袋をした右手で頭を押さえ、ミハイルさんが長い溜め息を吐き出す。
「何をしたか知りませんが、謝りましょう? 私も一緒に探しますから」
「待て。俺が悪い前提になってないか」
手をおろして彼がジト目で私を睨み、私も同様の視線を返す。
「そんなことありませんよ。被害妄想では?」
「お前、少し口が悪いぞ」
お互い様……というかミハイルさんほどじゃないと思うけど。そう言いかけた声は、私たちの同時に鳴ったお腹の音に遮られる。無言で顔を見合わせ――そして逸らす。
「あの、キッチンを使ってよければ、私何か作ります」
「そうしてもらえると助かる」
「じゃあ作りますね。えっと……」
棚を探ると、食材や調味料は一通りそろっていた。問題は……どうやって火を起こすかだ。魔法はもちろん使えないし、かといってガスコンロがあるわけでもない。鍋が置いてある台の下には小さな鉄戸があって、脇には薪が立てかけてある。
「これ、どうやって火を起こすんですか?」
「……火は残ってると思うが。魔法がない世界から来たくせに使い方を知らんのか」
いや、まあ、それはそうだけど時代が違う。でも、ガスや電気の話をしたところでわからないだろうし。困っていると、彼は溜め息をつきながら傍まで来て、薪を手に取った。
「いい。俺が作る」
「え!? ミハイルさんて料理できるんですか」
「お前俺が何もできないと思ってるだろ」
「いや……そういうわけでは」
ちょっとあるけど。だっていつも何もしてないし。
それでなくとも、一応こんな大きな屋敷のご当主なわけだし、そういうのは使用人がするものだろう。実際いつもリエーフさんがしているから、料理なんてする機会なさそうだけど。
「……昔、教わったことがある」
「リエーフさんに?」
「いや……」
火の様子を見ながら、ミハイルさんが曖昧に言葉を濁す。
じゃあお母さん? でも、だいぶ前に亡くなったみたいだし、ライサの話じゃミハイルさんのお母さん、あまり具合がよくなかったみたいだし。
「あの女でしょ?」
唐突に背後で声がして、思わず大声を上げそうになった。振り向くと、宙に浮かんだライサが、じっとりとこちらを見下ろしている。
「あの女って?」
ライサとミハイルさんを交互に眺めて聞いてみるが、どちらも答えてくれなかった。ややあって、ミハイルさんが溜め息をつく。
「どうしてそういう下らないことを覚えてるんだ、お前は」
「だって気に入らなかったんだもの。あたしの嫌がらせにもニコニコしちゃって。ミオだってもう少し嫌がってくれたわ」
「安心しろ。一人はお前の嫌がらせで出ていった」
「それはよかったわ」
口元に手を当てて、ライサがころころと笑う。
ミハイルさんの言葉はどう聞いても皮肉だったけど、わかっていてわざとだろう。ライサはまだ笑ってるけど、なんか、めちゃくちゃギスギスした雰囲気だ。内心おろおろする私をよそに、ミハイルさんが冷たく吐き捨てる。
「邪魔だ、出てけ」
「あら、冷たいのね」
「もう構わないでくれ。謝っただろ。心配せずとも俺は屋敷を継ぐ気も誰かを娶るつもりもない」
ライサの笑い声が止まる。
シン、と耳が痛くなるほどの静寂。氷のような碧眼と、交わることのない闇色の瞳。
あんなにお腹が空いていたのに、それもわからなくなるほど胃が痛くなってきた。
「ちょっと……二人とも落ち着いて」
私がおずおずと声を上げるのと、ライサが舌打ちしたのは同時だった。にわかにガタガタと窓が鳴り、棚の上のグラスが落ちて派手な音を立てて割れる。
「ライサ、やめて!」
「ほら、止めてみなさいよ当主。アンタの力を使えばできるでしょ。手伝ってあげるわよ」
グラスの破片が、ミハイルさんの腕を掠めて飛んで行く。シャツが裂けて、血が飛び散る。
思わずライサに掴みかかっていた。
「やめなさい!」
「……!」
はっとしたように、ライサが両目を見開く。
いくらなんでもやりすぎだ。小言の一つ二つ喉まで出かかったが、次の瞬間には彼女の姿は忽然と消えていた。思わずつんのめった体のバランスをなんとか保って、振り返る。
「ミハイルさん、腕」
「大丈夫だ。触るな」
「駄目です、血が出てます。手当しますから――」
傷を診ようとした手をはらいのけられるが、めげずに掴み返す。だけど、ぱっくりと裂けたシャツの中を見てぎょっとする。びっしりと、腕中に入れ墨みたいな文様が入っている。赤黒いそれは血のように見えた。
「これは……傷?」
問うと、ミハイルさんはそれを隠すように手で押さえた。
「呪印……この屋敷の直系であるという証のようなものだ」
「あ……そうなんですね。怪我でなくてよかった。傷を見せてください」
「だからいいと言っている。俺は普通の人間じゃない。傷の治りも人より早い」
「人より早くてもすぐ治るわけじゃないんでしょう?」
「……腹が減っているんだろう。後でいい」
「傷が先です!」
しばらくにらみ合いが続いたが、先に逸らしたのはミハイルさんの方だった。これみよがしに溜め息をついてから、傷を押さえていた手を離す。
「確かに血は止まっているみたいですが……」
「だから言っただろう」
「でも、服は洗って繕わないといけないですね」
大きく裂けて血で汚れたシャツを見て言うと、彼は再び溜め息をついた。が、思い直したようにまじまじと私を見る。
「……なんですか」
「いや、別に。では頼む」
「わかりまし……ッ」
言うなりミハイルさんがシャツを脱いで私に押し付け、思わず大きくのけぞりすぎて、しりもちをついてしまった。
「……ふっ」
ミハイルさんが口を押えて笑ったのを見て、床にお尻をついてままカッとする。
「ち、違います!! 別に平気ですよ、上半身くらい! 私、弟いますし!?」
「何も言ってない。着替えてくる」
絶対からかわれた。
笑いを堪えた顔でミハイルさんがキッチンを出ていく。どうやって仕返ししたものか考えていたのだが。足音が止まったので顔を上げると、キッチンの戸口にリエーフさんが立っていた。しかもなぜか、目頭にハンカチを当てながら。
「お前……ッ! 今までどこに行っていた!」
噛みついていくミハイルさんに構わず、突如姿を現したリエーフさんは「うっうっ」と嘘っぽい泣き声まじりの声を上げた。
「若い者同士、わたくしがいない方がうまくいくのではとお傍を離れてみたのですが……まさか脱いで迫るほどとは、このリエーフ」
「いつ俺が迫った」
バキバキと両手を組み合わせて不穏な音を立てながら、ミハイルさんがじりじりとリエーフさんに歩み寄る。
「恥じらうミオさんに半裸で詰めよっておられたではありませんか」
「目をえぐりだしてやるから、よく洗ってこい」
「ご冗談を……」
ミハイルさんの口調はあまり冗談とは思えなかったし、だからといって私もあまり止める気にならなかったのだけど。
両手の平を見せて敵意のないことを示し、リエーフさんが穏やかに笑う。
「とりあえず食事にしましょうか。すぐにご用意致します」
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