第36話 血塗られた真実

 ミハイルさんが息を飲んだ。きっと、わかったのだ……リエーフさんの意図が。

 返せと呪詛のように吐き続けていた伯爵が、その言葉を止めた。伯爵にもわかったのだろう。

 ……私にも、わかった。


 恐しく美しいリエーフさんのその表情には、一片の迷いもなかった。哀れみも困惑も混乱も何もない。私もよく知っている、いつもの穏やかな笑顔だった。


「どうか、旦那様。この屋敷に集った人々を最後まで導いて下さると……お約束下さい」


 リエーフさんが、短剣を逆手に持ち替え、その切っ先を自分の喉元に当てる。


 止めなきゃ。でも体が動かない。見たくないのに目を閉じることもできない。

 この後に起こることが、こんなにはっきりわかっているのに。足も手も目も、体中が、金縛りにあったようにまるで言うことを聞かない。


 時間がコマ送りのように、いやにゆっくり進んでいく。ゆっくり、ゆっくり、リエーフさんの手が動く――、

 ふっと、目の前が暗くなる。


「済まぬ、リエーフ……」


 暗闇の中で、伯爵の謝罪が聞こえた。


 それっきり訪れた静寂の中で、ようやくミハイルさんに目を塞がれていることに気が付いた。何も見えない。見えないはずなのに、瞼の裏に、短剣を喉に当てたリエーフさんの笑顔が焼き付いて離れない。

 やがて手が離れても、私は扉の中を――、そこにあるはずの、リエーフさんの亡骸を見る勇気はなかった。部屋の中から目を背けて隣を見ると、ミハイルさんは扉の中から片時も目を離さず、食い入るようにじっと見ていた。


 彼にとってリエーフさんは、家族も同然の存在だ。私なんかより、ずっと……辛いはずなのに。


「これでこの子は……蘇る……」


 耳が痛くなるほどの静寂を裂いて、伯爵の呟きが聞こえる。そして、足音も。


「ミオ、……走れるか」


 唐突に問われて、ちらりと一瞬扉の中に視線を向ける。その一瞬、我が子の亡骸を抱いて部屋を出ようとしている伯爵が見えた。


「待って……下さい。足が……」


 今伯爵と鉢合わせるのはまずい。わかっているのに体がまだ強張っている。もたつく私を抱え上げると、ミハイルさんは脇目も降らずに階段をかけ上り始めた。


「ごめんなさい……」

「構わん、巻き込んでいるのは俺だ。それより、嫌な予感がする」

「嫌な……予感?」


 後ろから聞こえてくる足音に、ミハイルさんが速度を速める。


「――これで伯爵の息子が生き返ったなら、エドアルトたちは何故死んだ?」


 自問のように声を上げるミハイルさんの顔は、どこか青ざめていた。私も背中に冷たいものが走る。階段を上り切ると、開いたままの隠し扉の脇で、夫人が泣いていた。


「降ろして下さい。もう、大丈夫です」


 ほとんど強がりだったけど、これ以上足手まといになるのは嫌だ。床に降ろしてもらい、泣きじゃくる夫人の脇を通り過ぎた瞬間、地下で絶叫が聞こえた。


「何故だ! 何故目覚めないのだ!!」


 狂気に満ちた声に異変を感じたのか、夫人が立ち上がり、階段を下りて行く。そして次に聞こえたのは、夫人の悲鳴と、絶叫だった。

 隠し扉を離れて、物陰に身を潜めて、じっと待つ。やがて、ぬっと伯爵が地下から姿を現した。


「足りん……きっと命が足りんのだ!」


 髪を振り乱し、血塗れの剣を携え、伯爵が叫ぶ。剣を持つのと逆の手には、だらんと力なく垂れさがる夫人の姿があった。開いたままの目から流れた涙が、血と混じって赤い筋を作っている。それを目にしてしまって、胃液が逆流しそうになる。


「見るな。走れ、ここを離れるんだ」


 それを何とか堪えながら、ミハイルさんに手を引かれるまま、前も見ずに走り出す。でも、ひっきりなしにあちこちで上がる叫び声で、どんな惨劇が起こっているのか否応なく予想がついてしまう。

 悲鳴。泣き声。断末魔。それらを必死に耳から引きはがし、とにかく走る。


「この声だ……、いつも聞こえていたのは……」


 隣で、ミハイルさんが小さく呻いた。

 転がるように屋敷を出ると、夕方でもないのに空が赤く染まっている。振り返ると、屋敷に火の手が上がり、それは信じられない速さで瞬く間に屋敷を包んだ。


「伯爵だけならエドアルトが止められただろうが……、これでは誰も助からないわけだ……」


 火に巻かれ、崩れ落ちる屋敷を見ながら、溜息とともにミハイルさんが言葉を吐き出す。


「誰も……助けられなかった……ッ」


 悲鳴が耳に残って離れない。自分が逃げることで精いっぱいで、その他には何も考えられなかった。屋敷の中にはライサもいたはずなのに。


「落ち着け、ミオ。これは『もう起こってしまった過去』だ」


 わかってる。わかってるのに、嗚咽が止まらなかった。呼吸を整えようとすれば、余計に乱れた。


「すまない。辛いものを見させたな……」


 今まで聞いたこともないような優しい声と共に、ミハイルさんが私の体を抱き締める。

 まただ。

 部外者の私なんかよりミハイルさんの方が辛いのに、また気を遣わせている。なのに強がるどころか泣き止むこともできず、取り縋ってしまう。子供のように泣きじゃくる私に呆れることなく、大きな手が優しく髪を撫でる。

 

 どうして。親しい人の死の瞬間を、祖先の乱心を見て。いつもあんな声の中にいて、どうして。


「どうして、そんなに落ち着いていられるんですか……!」

「……落ち着いてなどいない」

「でも……冷静です。なのに、私が取り乱して……すみません……」


 もう迷惑かけたくない。だけど顔を上げようとすると、髪を撫でていた手が頭を押さえ、胸の中に引き戻された。


「冷静でもない。だから……頼む。もう少しこのままでいてくれ」


 懇願するような声に、……少しだけほっとした。負担や迷惑ではなかったのなら、少しでも、私がいることで気が紛れてくれるなら……よかった。


 そのまま、どれくらい経っただろうか。

 私は少し眠ってしまったらしい。気が付いたときには空は白み始め、屋敷を飲み込んでいた火はいつの間にか消えていた。


「……幽霊屋敷になった原因はわかったが。問題はどうやって戻るかだな」


 私が目を覚ましたことに気が付いたのか、ミハイルさんが呟いた。少し憔悴した様子の彼と目があって、私は首を横に振った。


「いえ、まだです……、これだけでは死因がわかっただけで、幽霊になった理由はわかりません。屋敷に戻れたとしても、幽霊たちの暴走を収める手段もわかりません」


 眠ったことで、ようやく落ち着いてきた。思い出すとまだ涙が出そうになるけど、もうそれを堪えることも、冷静に考えることもできる。思ったことをそのまま口にすると、ミハイルさんも思案するように宙を睨んだ。


「確かにお前の言う通りだが……」

「……魔法を伝えたという賢者を探しませんか? 屋敷で死んだ者の怨念が幽霊になったというよりも、伯爵が使った魔法が原因だと考える方が自然な気がします。でも私もミハイルさんも魔法のことは何もわかりませんし。今なら魔法を伝えた賢者張本人が、この国のどこかにいるはずですよね?」

「簡単に言うが、この国のどこかと一口に言っても広すぎる。宛てもないのにどうやって探すつもりだ」

「それは……」


 言葉に詰まっていると、ふと別の声が私たちの会話を割いた。


「ご案内しましょうか?」


 咄嗟にミハイルさんが私の腕を引いて後ろに下げる。その声には覚えが、とてもよく聞き覚えがあった。


「リエーフ……」

「そんなに警戒しないで下さい。あなた方に危害を加える気なんて、毛頭ありませんから」


 その名を唸るミハイルさんに、リエーフさんが敵意のない笑みを見せる。


「お前は……俺たちと扉を潜ったリエーフだな?」

「はい」

「こちらにいるリエーフと同化しないのか」

「エドアルト達は魂だけの存在ですから、本体に引き寄せられるのは仕方ありません。でもわたくしは」

「……やはり、そうか。お前は……」


 共に言葉を切った二人はなかなか後を続けず。ややあって、言葉を継いだのはミハイルさんの方だった。



「死者ではないんだな。リエーフ」

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