おとぎの正夢(取り残された部屋にて)

星染

おとぎの正夢

世界が終わる話をしてあげようか エカはいつものように甘く軽薄な、少し高い声で囁いた。室内は暑く、無力な扇風機がやわく髪を揺らしていた 換気扇がたまにブンと小さく鳴く午後のことだ

 私は冷蔵庫のアイスクリームを取りに立ち上がる。しめっぽいフローリングの上を私の裸足がぺたぺたと踏んだ テレビからは適当なキャスターが帰りたそうな表情で実況をしている 都心では35℃を超える猛暑日となり、各地でも日射病とみられる症状で多数が搬送されています。しかしここはテレビに映る国ではないかもしれないのだ。ブラインドが軽く閉まった窓の向こうで、車が一台通り過ぎる音が聞こえた

「世界が終わる話」私はあえて不思議そうな声で復唱した。興味はあまりなかった 台所にゴミ袋はしつらえられておらず、蛇口からは水滴がもう少しでシンクに落ちようとしていた 冷凍室の抽斗を開け、スーパーカップをふたつ取り出す 「そうよ」私の反応に満足したようにエカは弾んだ口調で続けた「エカたちが最後を見るのよ」しかしエカは私が興味がないことさえきっと見抜いているのだろうと思った。本当におかしな人だ

 百物語が好きなエカは、私の運んできたアイスを下手くそな手つきで口に運びながら口を開いた。核でも異常気象でもいいのだけど、すべてでもいい、とにかくここにはもう住めなくなるとするでしょう、たくさんの人がいなくなるでしょう。小学生のときに好きだったひと、覚えてる? いろんな人が、エカとか、あなたをそっちのけにしていなくなるでしょう(エカは自分のことをエカと呼んだ) それでも、エカとあなたは生き残るのよ。空が青くて、きっとうれしくなるわ。エカは黄色い靴を履いて、あなたの買った炭酸を飲むのね。それは自動販売機が売ることのできる、最後のジュースなのよ。すごく暑くて──向こうが何も見えないくらいの蜃気楼がエカたちの前にあるの そして訊くのよ、『きみたち、電車に乗らないのかい』エカはきっとこう答えるのよ、「ええ! だってもう誰もいないんだもの」あなたはエカのワンピースの裾をつかんで、ひとつだけ速く流れる雲を見ているんだわ 蜃気楼はやがて、エカに飴を渡してどこかへ行くでしょう すべてがじっと静かなの 街も、朝も 音楽は絶滅してしまうから 最後に鳴ったラジオからは、昔流行った有名でもないロックバンドが流れていたわ。

 エカは目を伏せた。アイスクリームは知らないうちに空になり、私とエカは空き箱をゴミ箱に命中させる遊びを終えてから、暫く黙り込んだ。「それからどうなったの」と私は声を押し殺すようにたずねた。「喉が渇いたわ」「水、出るかどうかわからないんだけど」「なら、飲まなくても平気よ」いたずらっぽくエカは笑った 私たちはエカの言うことがもうすぐ起こるかもしれないと知っていた 扇風機がカチと音を立てて止まった。外からは車の音が聞こえなくなり、⋯⋯やがて私たちには関係の無いサイレンが響くだろう エカは白いワンピースを、膝の上で暑そうにぱたぱたとはためかせ(はしたないという私の声は無視だった)、また口を開いた。静かな午後だった。

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おとぎの正夢(取り残された部屋にて) 星染 @v__veronic

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