文化祭アッパーシンドローム
杏也じょばんに
1話
——文化祭まであと26日・T——
文化祭実行委員長の朝は早い。
夏休みが明けた八月三十一日の始業前。一般生徒はまだ登校していないようだけど、僕は意気揚々と校門をくぐる。うだるような暑さも、二学期が始まる億劫さも僕の足を止めることはできない。
文化祭実行委員長。なんといい響きだ。
この高校では、三年生の成績最優秀者が某T大の推薦とともに得られる栄誉ある称号。苦節二年半、努力の末にようやくそれが手に入った。
校舎に入ると、職員室を除けば静寂が満ちている。僕は一階の一角、のちに文化祭実行委員会の本部となる空き教室に足を踏み入れた。僕以外の実行委員の顔ぶれは既に揃っている。
「おはよう諸君!」
「おはよう、九条くん」
ショートに切り揃えられた髪の女子が三白眼を覗かせる。その眼力が、全開だった僕の出鼻をくじく。
文化祭実行委員会計、
「十分の遅刻よ」
「いやぁ、すまない。始業式での演説の原稿を考えてたら寝坊してしまった。申し訳ない」
「まったく、プロジェクトの長たるもの、自己管理は何よりも大切で……」
「まあまあ、その辺にしときなよ」
仏のような笑みで七尾を宥めるのは、文化祭実行委員広報、
理知的かつ社交的、モデルのような風貌は王子様と称されるほど。絵に描いたような好青年の彼は、窓から覗く朝日に勝るとも劣らない輝きを纏っている。
活動初日ゆえに強張っていた七尾の表情も、微かに緩みを取り戻した。
「今日から活動が始まるんだ。初日くらい大目に見てやれば?」
「そうは言っても……」
「そうだぞ七尾。気楽に行くのが吉だ」
「あなたは黙ってて。まあ、八嶋くんが言うのなら今回は目を瞑りましょう」
仏頂面バーサス太陽の笑顔の対決は、後者が押し勝ったようだ。八嶋に続いて僕も胸をなでおろす。
ここに集まった三人は、小学校からの旧知。だが今や高校三年生。それぞれ早々に推薦で大学を決め、半年後には別々の道を進んでゆく。三人で何かをする、というのもこの文化祭が最後だろう。
とはいえ、未だ実感が湧かないからか、寂しさは微塵もない。僕こと
今回は、それに加えて。
「お初にお目にかかります。文化祭実行委員副委員長になりました、二年A組の——」
「ああ、君か。敏腕な二年の女子生徒がいるってもっぱら噂だったから、期待してるよ。よろしく頼む!」
「はい、よろしくお願いします」
丁寧な物腰とお辞儀。大きな丸眼鏡も、後頭部のポニーテールも一切乱れることはない。
実行委員は委員長のスカウトによって決まる。そこで、二年生からひとり、次年度の引継ぎも兼ねて抜擢したのが彼女だ。ちなみに名前は……なんだったっけ? まあ、副委員長って呼べば大丈夫かな。
というわけで、今年の実行委員の顔合わせは終了。
「じゃあ、これにて解散。皆、午後からは忙しくなるから、今のうちは授業に励むといい!」
「あの、九条くん」
「ちなみに、今日の午後のタスクは事前にまとめて送った通りだから、各自読み込んでくれると――」
「おトヨ、ストップ」
気分よく終わろうとした矢先、七尾と八嶋に急に進行を差し止められる。
「……何だね、何か不満でもあるのか?」
「おトヨが忘れてるだけだと思うから一応言っておくけどさ」
いやに神妙な口調の八嶋に、思わずゴクリと唾をのんで返答を待つ。
「今日から一か月、授業ないよ?」
「……は?」
耳を疑った。
授業がない? 冗談だろう。学校は教育機関だぞ、正気なのか?
はぁ、と七尾がため息をつく。
「九条くん、年間予定表見てなかったの? まるっきり書いてあったわよ。九月は文化祭が終わるまで、すべてを文化祭準備に充てるって」
「そうなのか……って、そんなはずはなかろう! どうせ二人で僕をだまくらかそうと企んでいるに決まっている。なあ副委員長、そろそろドッキリ大成功のプラカードでも挙げたらどうだ?」
「いえ、本当に授業がないんです。県の教育委員会が、より良い教育を目指す実験の一環で思いついたらしくて、その実験校がうちなんです」
「県の教育委員会……」
予想以上に規模が大きすぎて、思わずおうむ返しになってしまった。
おうむ返しになるくらいならまだいい。副委員長の次の言葉に、僕は絶叫した。
「高校生活において文化祭は必要か否かを見極めるそうです。もし不必要に値するとなれば、全県的な廃止もありうる、と聞きました」
「……はァ!?」
なんてこった。
県内で最も文化祭に予算を割りふられ、志望理由の八割は『豪華な文化祭に参加したい』だとも言われている
でも、この高校から文化祭を奪われるとなれば、この高校の持ち味は古臭さしかなくなってしまう。
それは極力避けたい。実際のところ、ここにいる面々も苦虫を噛み潰したような表情を隠しきれずにいる。
「夏休みの強制スパルタ夏期講習は、ぜんぶこの実験のためよ。あと、この情報は実行委員以外には他言無用らしいわ」
七尾の声がやるせなさに震える。
たしかに、受験を控えた三年生をも呼んで行われた夏期講習は今年が初めてだったが、『教員諸君も頑張るなぁ』程度にしか思っていなかった。実際、今年の夏に病院に運ばれた教職員も多いと聞く。
「じゃあ、例年より文化祭実行委員会の始動が遅かったのも?」
「このためだよ」
一度、状況を頭の中で整理する。
実行委員発足から文化祭まで一か月もない。委員の数はたった四人。教育委員会が絡んでいるうえ、地獄の夏期講習のあと直後で先生たちは無力。そして例年以上に求められるクオリティ。これはつまり……
「……ブラック決定じゃないか!」
ただでさえ忙しい業務が、壮絶さを増した上に一か月ノンストップで続く。そんな末恐ろしいことがあっていいはずがない。慌てふためく僕に、副委員長がまあまあとフォローを入れてくれる。
「幸い、九条先輩が事前に面倒なチラシと書類作成を終えてくれたので、頑張ればなんとかなりそうですね。もっと前もって仕事振ってくれたら私も手伝えましたけど」
「あれはつい、委員長になったのが嬉しくて落ち着かなかったから……」
委員長が決定した後、僕は歴代の委員長OB・OGから引継ぎを終え、既に校内の団体や地域住民に配布する資料を勢いで作ってしまった。
ほとんど昨年度のパクリだけど!
まあ、なんというか、副委員長とは初対面だったから少し不安だったけど、僕の味方になってくれそうな子で本当に良かった。
ふいに八嶋が思い出したように呟く。
「ふーん、『最高の文化祭を約束しよう』、ねぇ」
「急にどうしたのだ?」
「自分で書いたのに忘れたのかい? おトヨの始業式の演説を締めくくる予定のセリフだよ。実におトヨらしいね、どこまでも全力で、なおかつ眩しい」
いつの間にか、僕が持っていたはずの原稿は七尾と八嶋の手に渡っている。きっと、さっきの騒動の際に落としたのだろう。七尾は赤ペンで勝手に添削を始め、八嶋は澄んだ目を僕に向けていた。
全生徒の前で読むものではあるけど、友人二人に先に音読されるのは恥ずかしい。
「仕方ないだろう、文化祭がそんなことになってるなんて知らなかったのだから。そんなに呑気に聞こえるなら、変えるぞ」
「いや、そのままでいいよ。おトヨが明るく前向きになってくれないと、誰も文化祭を楽しめないからさ」
八嶋はふにゃりと、無理に笑って返した。
本当は、最高の文化祭がどんなものなのかさえわからない。
来場者数、満足度アンケート、地域貢献。教育委員会がどの数値で測ったとしても、それが本当に最高の文化祭だなんて言える保証はない。
でも、僕自身が最高だと思う文化祭を作らない限りは、誰も楽しみ得ないだろう。
人生を振り返ったときに、楽しかったと言えるような文化祭を作りたい。そのために、今の僕自身が楽しまなければそれは絶対に実現しない。
「わかった。当初の予定通り、思う存分やってやる。だが、僕の力だけでは文化祭の成功はない。だから諸君らも、一緒に最後まで走り抜けてほしい」
僕は頭を下げた。
文化祭実行委員長として、今年の文化祭は絶対成功で終わらせなければならない。でも、これから幾つもの困難を乗り越えていくには、仲間たちの信頼がないと不可能だ。
顔を上げると、三人とも苦笑いを浮かべていた。
「わかった。私も善処するわ」
「うん、了解。きっと俺たちなら作れるさ、最高の文化祭」
「頑張りましょう、先輩」
目頭どころか、体中が熱くなる。
今の僕たちなら、何だって出来る。根拠のないそんな自信が体を駆け巡る。
ぺらり、と目の前に紙切れが差し出される。七尾による原稿の手直しだった。ほとんど原型を留めていなかったが、最後の一文には大きく『Good!』の文字とマルが添えられている。
時計を見れば、もうすぐ始業式が始まる時刻になっていた。遠く聞こえる騒ぎ声は、これから文化祭を共に作っていく生徒たちによるものだろう。エネルギッシュさが頼もしい限りだ。
僕も負けていられない。
「演説という名の我々の初陣。いざ、推して参る!」
原稿を握りしめて、もう片方の手でサムズアップ。仲間の返事を待たず、僕は本部の教室を後にする。
いざ、皆が待つ講堂へ。
全ては、最高の文化祭のために。
「只今より、
こうして僕らの長い一ヶ月が幕を開けた。
☆ ☆ ☆
豊臣が空き教室を出てから、講堂に現れるまでの数分間の出来事である。
「あの、七尾先輩、八嶋先輩。ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」
「どうしたの副委員長?」
「……大丈夫なんですか、あの委員長」
あくまで噂だが、九条豊臣が文化祭実行委員長に名乗り出た理由は『歴代の委員長の名前に運命を感じたから』だと副委員長は耳にしたことがある。
初代が
そんなふざけた理由で立候補されてはたまらない。ましてや、九条のような頼れそうにない先輩が務めるなら、なおさらだ。副委員長の懸念は、実に的を射ている。
不満を申し立てた副委員長に対し、先輩二人は和やかに笑って返した。
「嬉しいわ。あなたが正常な感性の持ち主で。それは私たちも当然心配よ。でもね、いずれわかる日が来る。九条豊臣が委員長である意味が」
「そうだね。おトヨは単純で中二病でちょっと抜けてて、端的に言えば変な奴だけど、アイツにしかできないことがあるんだ」
何かを含んだ言い方をする先輩二人をいぶかしげに見上げながら、副委員長は怒涛の日々を覚悟するのだった。
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