雲ひとつない二月の正午、さびれた漁港にて
夏越理湖
第1話
青空は澄み渡っていた。手を伸ばせば自分の身体が浮き上がって吸い込まれていきそうだ。背にしたアスファルトの冷たさは着込んだ服越しでも十分に感じられた。右手だけが温かかった。となりに顔を向けると、彼女も僕と同じように片手を空に伸ばしていた。
「このまま青空に溶けて優しい雨になりたい」
彼女のざらついた声が白い吐息に変わって二月の冷たい空気に溶けていく。それを見届けてから、僕は口を開いた。
「このまま冷たい海に飛び込んで魚のえさになりたい」
「あなたとは意見が合わない」
小さく笑う少女を見ていたら何だか泣きそうになって、僕は空を見上げた。
ここは静かな場所だ。たまに海水が壁にぶつかる音がするほかは、二人の呼吸する音しか聞こえない。海が見たいという彼女の希望を叶えるべく、バスを乗り継いで海岸線を目指したけれど、終着点がこのさびれた漁港でほんとうによかったのかは心配だった。彼女は漁船が見えてくるなり全速力で駆け出して、船着き場のコンクリートの上に寝転がってしまったから、僕も同じようにした。そうしたら彼女がきゅっと手を握ってきたのだ。
僕は努めて冷静を装って、会話を続ける。
「でも大枠では共通しているよ。つまり、君も僕も、このままいなくなりたいってことだ」
「それは、まあ、合ってる」
彼女がどうして一人で逃げていたのか、どこから来た誰なのか、僕は知らない。けれどどことなく都会風の雰囲気が漂っているから、このあたりの子ではないだろう。ベージュのダッフルコートを着た彼女は、中学生くらいに見えるけれど、言動がひどく大人びているから、ひょっとしたら高校生なのかもしれない。
「ねえ、あなたは笛吹き男の話を知ってる?」
幼い頃、本で読んだことがあった。けれどおぼろげにしか記憶がなく、彼女の声を聞いていたくもあったから、僕は知らないよと答えた。どんな話なの?
「むかしハーメルンという町でネズミが大量発生して、町の人は困っていたの。すると笛を持った男が現れた。町の人たちは彼に、ネズミを追い払ってくれれば金貨を支払うと約束した。男は笛を吹いてネズミを呼び集め川へ誘導し、ネズミを溺れさせて全滅させた」
彼女の声はぼそぼそしていたけれど、聞いていて心地よかった。だから僕は先をねだる。
「でも町の人たちは約束を守らなかった。だから笛吹き男は、町の人たちの大切なものを奪うことにした」
ああ、そうだった、と思い出す。大切なものを。だから彼は。
「夜、男は笛を吹いた。すると町中の家の扉が次々と開いて、中から子どもたちが現れ、男の後ろに並んでいった。笛吹き男は笛を吹き続けながら町を出て、一夜にして子どもたちを連れ去ってしまった」
彼女は僕の視線に気づいてか、こちらを見てふっと笑った。彼女がどうしてこの話をしたのか、その哀しげな表情を見ていたらよくわかったから、僕は先手を打つ。
「それじゃ、きっと僕は笛吹き男に連れていってもらえないな」
目が見開かれて揺れたのが見て取れた。
「……もう大人になってしまったから?」
「まさか。僕は十七だし、親と一緒に暮らしているから、ギリギリ子どものはずだ。早く大人になりたいけどね」
言葉を継ぐ。傷つけないように注意深く、彼女が笑い飛ばしてくれることを心の中で願いながら。
「僕は両親にとって『大切なもの』ではないから、笛吹き男には選ばれないに違いない」
もうとっくに諦めていたはずなのに、言葉にしたら泣きそうになってしまった。
彼女は唇を噛んだ。右手に加わる力が強くなる。突き当たりの見えない青い空を睨んで、長く長く睨んで、それからポツリと言った。
「いっしょだね」
僕は、ため息を吐く。
いったいどうして、彼女のように器量がよくて賢そうな女の子が、こんなことを言わないといけないんだ。小さな身体で、何も持たず、どうしてこんな田舎まで逃げてこなくちゃいけないんだ。なんでいなくなりたいなんて願わなきゃいけないんだ。
しばらく、僕も彼女も何も言わなかった。空はただ青く、海はただ静かだった。今日の朝、彼女と会ってからのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。無人駅のホームに死人のような顔色で立っていた彼女、始発電車の中で泣きそうになっていた彼女、たまらず声をかけた僕を見てうつむいた彼女、知らない駅で降りて知らないバスに乗り込んだ彼女、僕の肩に頭をあずけて眠っていた彼女。たった八時間ほどのことなのに、すべてが急速に過去になっていくのが肌で感じられて、僕は必死に言葉を探した。けれど彼女へ語るべき言葉が見つけられなくて、黙り込むしかなかった。
「ハルカ」
小さな声を聞いて、僕ははっと横を向く。彼女はいつの間にか起き上がって膝を抱えていた。
「悠久の悠って字を書いて、ハルカって読むの。わたしの名前」
僕をじっと見つめて、少女は言った。切実な目をしていた。黒目は潤み、長いまつげは震えている。
「群青色の空みたいに深みのある名前だね」
そう言うと悠は一瞬困ったような表情をして、それから少し微笑んだ。
「もし、よければ。あなたの名前も、教えてほしい」
「ひいろ」
と、間髪を入れずに僕は答えた。
「太陽の陽に、カラーの色で、ひいろと読む」
「陽色、さん」
見つめ合ったまま、時間が止まった。
不思議な話だが、僕はそのとき生まれて初めて誰かに名前を呼んでもらえた気がした。怒鳴られながら親に呼ばれるのとも、からかいまじりに同級生に呼ばれるのともまったく違った。僕の名前はこんなに暖かかったのか、と驚くほどだった。
「悠」
僕は起き上がって、彼女の名前を呼ぶ。悠が泣きそうになっている。
「陽色さん。わたし、家、帰りたくない」
心はもう決まっていた。駅で彼女を一目見たときから、いや出会う前からきっと、僕がこうすることは決まっていたのだ。
「君のことは僕が連れていく。どこまでもどこまでも」
二月の太陽の光を帯びて、彼女の瞳が光った。唇がわなないている。
「一応言っておくけど……、捕まっちゃうよ」
「未成年だから、おとがめなしで済むはずさ。せいぜい保護観察処分くらいだろう」
「わたし、あと少ししかお金ない」
「僕は少しある。バイト代」
悠はそっか、とつぶやいた。
僕たちはやがて立ち上がり、漁港を後にする。となりを歩く悠の手を強く握る。握り返してくる手のひらの温度をたしかめながら、一歩一歩踏みしめていく。
「どこか行きたいところはある?」
尋ねると、悠は小さく微笑んだ。
「ここじゃないどこか」
この先、僕たちは何を失い何を得るのだろう。わからなかった。ただ、今日より少しでも楽しい明日が悠に訪れてくれることを願った。笛吹き男に連れていかれたハーメルンの子どもたちはどうなったのだろう、と思いを馳せながら、僕は静かに口笛を吹き始める。
〈了〉
雲ひとつない二月の正午、さびれた漁港にて 夏越理湖 @ghostfiction
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