【Ⅳ】

「入谷カナデの処理が終わりましたよ」

「ご苦労だった」


 柔和な笑みを浮かべたまま理央りおの報告を受けた上司の老爺は、ただ一言だけ返しただけだった。あまりの素っ気ない態度に、理央は「やっぱりこのジジイ殺そうかな」と考える。

 しかし、もうこの老爺と顔を合わせなくて済むのは僥倖ぎょうこうだ。ずっと考えていたことなので、迷いはない。理央はニコニコと柔和な笑みを浮かべる上司のしわくちゃな顔面めがけて、白い封書を叩きつけた。

 おふだよろしく額にぺシーン!! と叩きつけられた白い封書は、重力に従って上司の顔面から落下して、執務机の上にポトリと落ちる。封書には『辞表』の二文字だけが並んでいて、上司は珍しく顔から柔和な笑みを消す。


「今までお世話になりました」


 最後のけじめとして、理央は頭を下げた。

 世話になったことは事実だし、この世界に入ってから色々と学んだこともある。この上司には苛立つことも多かったが、それでも育ててくれた恩を仇で返すような不義理は働かない。いくら【DOF】によって常識がすっ飛んでいようが、そのぐらいの理性は持ち合わせる。

 理央が提出した辞表を受け取った上司は、非常に残念そうに言う。


「貴様は優秀な諜報官だったのだがな。実に惜しい」

「永遠に惜しがっててください」


 言いたいことだけ言い残して、理央は用事は済んだとばかりにくるりと身を翻す。

 その背中に、上司が「待て」と呼び止めた。


「諜報機関の情報を漏洩ろうえいされては困る。抜けるのであれば、今ここで死ね」


 理央はあっさりと自害を受け入れた。

 それは脅しの意味を孕んだ「死ね」だったのだろうが、確かに重要な情報を集める諜報機関に在籍しておきながら、簡単に脱退できるものではない。理央は上司へ振り返ると、自分のこめかみに自動拳銃を押し付けた。

 老爺のつぶらな瞳が見開かれる。しわくちゃな口が「待て」と紡ごうとしたところで、理央は自動拳銃の引き金を引く。

 鳴り響く銃声。――しかし、銃弾は射出されない。


「づ……音を大きくしすぎましたね。鼓膜が破れそうです」


 耳元を押さえて顔を顰める理央は、玩具おもちゃの自動拳銃をポイと放り捨てた。「あ、それ処理しておいてください」とだけ言い、理央は今度こそ上司の部屋から去ろうとする。


「待て、織部理央おりぶりお。貴様、何のつもりだ」

「どちら様でしょう。織部理央はたった今死にましたよ、アンタが死ねと命じたんでしょう?」


 とんだ屁理屈である。

 唖然とする上司に、理央は綺麗な笑みを浮かべて見せる。


「これで満足ですか? もしご不満なら、刺客しかくでもなんでも送り込んでください。――僕は全員殺しますよ。味方さえも無情で殺すように教育してくれた賜物たまものですね」


 言いたいことだけ一方的に伝えて、理央は上司に何かを言われる前に執務室から飛び出した。

 さて。

 無人の廊下を軽い足取りで歩きながら、自由の身になった理央は今後をどうしようかと考える。今では携帯食料レーションなどの最低限の食事の他に、諜報機関の食堂を利用していた。今後は頼みの綱である諜報機関の食堂は使えない。


「ああ、そうだ。名前も変えないと」


 織部理央は死んだのだ。

 だから、ここに生きているのは名前のないただの人殺しの青年である。

 首を傾げて、どうするか悩んで、それから「ああ」とポンと手を叩いた。妙案が思い浮かんだのである。


「パスポートの偽造業者って使えましたっけ……」


 これからのことを想像して、青年は意気揚々と目的地に向かい始めた。


 ☆


 ポーン、と電子音が響き渡る。

 旅行者などの人間で賑わう空港に、真っ黒なてるてる坊主が堂々とした足取りで闊歩かっぽしていた。荷物らしい荷物は持っておらず、真っ黒な雨合羽レインコートのフードを目深に被ったてるてる坊主は、行き先が表示されている電光掲示板を見上げた。


「一三時ですか。まだ余裕ですね」


 真っ黒なてるてる坊主は「どうしよう……」と空港内を見渡した。搭乗口付近にはたくさんの土産物屋がずらりとのきを連ねていて、どこもかしこも人で溢れ返っている。

 一人で旅行するので土産を買っていく必要などなく、てるてる坊主は退屈そうに「暇になった……」と呟いた。「今まで誰かを暗殺するようなことしかやってこなかったし……」などと物騒なことも付け足されたが、誰も彼の台詞になど気づいている様子はなかった。


「仕方ありませんね。どこかに座って待っていましょうか」


 肩を竦めたてるてる坊主だったが、どこからか聞こえてきた「いーやー!!」という少女の悲鳴に顔を上げる。

 見れば一〇歳ぐらいの少女が、男に腕を引っ張られていた。事情は分からないが、見た目は『駄々を捏ねる娘を連れて帰ろうとする父親』だろうか。その見た目のおかげで、周囲の大人はなんだか微笑ましそうに彼らのやり取りを眺めている。

 しかし、このてるてる坊主だけは違った。彼らの行動の本質を見抜いた訳ではなく、感情と衝動に任せて言う。


「よし、殺しましょう」


 てるてる坊主は自分の首筋に注射器を突き刺した。シリンダー内で揺れる透明な液体を体内に注入すると、まるで幽霊のように姿を掻き消す。だが、誰も真っ黒なてるてる坊主が姿を消したことなど気づいていなかった。

 そして少女を引っ張る男の背後に現れた真っ黒なてるてる坊主は、ぶかぶかな袖からほっそりとした腕を伸ばして男の首に組みついた。


「すみませんが、ここで死んでください」


 これっぽっちも悪びれる様子のない謝罪と共に、てるてる坊主は男の首を一八〇度ぐるんと回した。ゴキン!! という頸椎けいついが折れる音が、薄皮一枚の向こうから聞こえてくる。

 首の骨を折られたことにより、男は膝から崩れ落ちる。瞬く間に行われた殺人に、一般人が次々と悲鳴を上げた。中にはポカンと冷たい空港の床に座り込む少女を助けようとてるてる坊主に飛びかかる勇敢な大人もいたが、「邪魔ですね」の一言で果敢に立ち向かってきた大人を拳一つで黙らせた。


「警備員がくると厄介ですので、【OD】の異能力で体を縮めましょうかね。その方がバレにくいです」

「あ、あの……あの!!」

「はい?」


 足元から聞こえてきた少女の声に、てるてる坊主は反応する。

 父親が殺されたばかりだというのに、少女は笑っていた。どこか安堵したような笑みで、


「ありがとう」

「……アンタの父親を殺したのに、お礼を言うんですか?」

「知らない人だったの。連れて行かれそうになってたの。だから、助けてくれてありがとう」


 少女はニコニコと屈託のない笑みを浮かべている。彼女の邪気のない笑顔に、てるてる坊主は「そうですか」とだけ短く応じた。

 その笑顔は、記憶の中にある彼女と同じだった。どこまでも邪気がなく、純粋無垢で、天使のようなもので。


「その子から離れろ!!」

「うわぁ、お早い到着で」


 てるてる坊主は「うへぇ」と言わんばかりに顔を顰め、大量にやってきた警備員から逃げ出した。「心配しないでも幼女ロリを殺すほど落ちぶれちゃいませんよ」と警備員に訴えるが、すでに一人殺しているので無駄である。

 走っている最中に、雨合羽のフードが外れた。艶のない黒髪が風になびき、若い青年は楽しそうに笑いながら空港内を突っ走る。


「ははは、超楽しい!!」


 ――かつて織部理央おりぶりおと名乗った青年は、すでに死んだ。

 新たに人生を出発させたこの青年の名は、


 リヴ・オーリオ。

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